東金街道歩き旅 
 鎌池から東金駅へ
    歩行地図はこちら
 JR都賀駅-鎌池-御成公園-御殿町-八街-滝-日吉台-東金駅 24.5 km
 

2006年10月1日
 JR都賀駅より出発する。鎌池へ向かう。街道は工業団地に分断されているが、ここでで復活する
■鎌池
 自衛隊基地東側一帯を鎌池という。ここから50mほど幅5.5mで昔のまま。
■焼塚
 JR踏切を越えると右手にこんもりとした森があって、焼塚という。塚ではなく一里塚の跡らしい。

 先に進むと県立若松高校がある。正門のところに馬頭観音が5基あるというので見に行くが、正門のあちらこちら探したが見つからなかった。街道を進むと国道51号にぶつかるが少し手前に51号に沿った道があり国道以前の古道であるという。右折した所に八幡神社がある。
八幡神
 祭神は応神天皇。こぎれいな神社であり、馬頭観音などある

街道を進み、中新田に入る。この街道の周りは江戸時代から開拓された地域が多く、新田の地名のつくことが多い。左手にあるのが
■鹿嶋神社
 「社殿壮麗にして、境内広く老松鬱蒼として高く天に注す」と言われるくらいで、なるほど参道も長くこの地方にしては立派な神社である。中左に石造物が並んでいるが古くてよく読めない。

街道は千葉市若葉区から四街道市吉岡新開に入る。新開も同じ江戸時代の新たな入植地帯である。左手にエネオスのガソリンスタンドがあり、その隣に道標を兼ねた馬頭観音の祠がある。
■春日神社
 進んだ新開の左には春日神社がある。祭神は天児屋根命(天の岩戸事件の際祝詞をを読んだ神)開拓地の繁栄を願って本郷の春日神社から分霊したもの。

■下総の鼻付き坂
 春日神社の先から急にアップダウンのきつい坂になる。谷津というがアップダウンの坂が多いのがこの街道の特徴でもある。右手に池が見えてくるが、御成公園西池、東池という。

 ■提灯塚と御成公園
 東池からの坂を上がると右手に、高さ2・5mほどの土盛をした”提灯塚”と呼ばれる塚がある。街道の造成の時、直線を定めるために、昼は白旗、夜は提灯を掲げ、これを目標にしながら昼夜兼行で工事が行われたという。塚の名前もこの故事に由来する。この塚は、街道の8ヶ所にあった一里塚の1つである。御成街道の一里塚は、ほぼ4・7㎞毎の等間隔に置かれ、塚上には、椎、松、などaの木が植えられていたという。原形を残しているのは、この”提灯塚”だけである。この塚も、かなりの部分が削られ、当時の大きさの半分位になっている。提灯塚のある一帯は御成公園になっている。公園の先にはまた池があり大池という。

■金親町の旧家
 池の先また上がり坂となり、両側には木々が茂る道が続く。金親町という。左側には長屋門を持った旧家があり、木立も続き昔の街道の雰囲気が漂っている。高札場跡があったというがみのがしてしまった。結構交通量がありすれ違いがきつい細い道もある。この先右から道路が合流してくるがその左側にあるのが金光院

■ 金光院
 家康といわれのあるお寺で、正応2年(1289)に貞成上人によって開基された。もとは、金親村小字中原にあったが、天文20年(1551)2月に火災が起こり、全山が消失。千葉氏の重臣であった原式部大夫胤清が、同村小字北寺山の山林二十余町歩(約20ha)を寄進し、現在の地に再建したという。元和元年(1615)11月16日に、家康が、この寺に宿泊したといわれ、赤い屋根の山門は御茶屋御殿の裏門を移築したものであると伝えられている。

■御茶屋御殿跡
 金光院の先は一直線であるが、現在S字状に曲げられている。曲がった右側に御茶屋御殿跡がある。船橋と東金のほぼ中間にあたる場所で、鷹狩りの途中に造られた家康の休憩・宿泊所跡である。御茶屋御殿の敷地は、街道から奥へ入ったところにあり、周囲は、一片110mの方形で幅5mの空堀と、高さ2・5mの土塁をめぐらし南北に二カ所の入口があり、内側に枡形土塁が形成されていた。発掘調査により、御玄関、御広間、御主殿、御休息所、大長屋、御厩、御鷹部屋、井戸などの跡、17世紀の陶器などがが発見されたと、案内板にある。現在は写真のように広々とした広場のようになっているだけ。

御殿跡からの道を進み中田町に入る所はまた急な下り坂でS字状をしている。急さかを少しでも和らげるためS字状にしたものと思われる。中田町は継立場で問屋場が置かれた。ここを過ぎると富田町で左は乳牛育成牧場が広がる。道の左手に売店がある。ここらで雨が落ちてくる。
■千葉育成牧場のみるく工房
 ピーナッツ味のアイスクリームなるものを食べてみた。結構人が寄ってきている。人気はありそうだ。この先はまた直線で右は袖ヶ浦カントリークラブである。雨が降っているが帰りの交通機関がなく先を急がないと行けない。バス停をみたら1日3本しかない。この先道は左へカーブしている。八街市との境界線です。ここで街道はまた一時消滅している。
■風景谷(ふがさく)の 廃道跡a
 現在の道路は、千葉市から八街市に入るところが大きく左に曲がっているが、御成街道は直線に進み、台地を登るようになっていた。その廃道跡を30mにわたり雑木林の中に見ることが出来る。両側に杉並木が並び当時の街道の様子が忍ばれる。しかしなんと狭いことか、本当にここを通ったのか疑問が沸くくらい。また当時は、このあたりはかなり急な坂道であったため、家康はこの坂の手前で駕籠をおり、馬に乗り換えて登ったという。そして、遠大な下総台地の地形に感嘆したというところから、”風景谷の険”の名が起こったと言われている。

■蛇田谷(へびたさく)
 御成街道は、八街市沖と上砂との共同墓地付近で境で、再び顔を見せる。案内板が立っていた。このあたりは、谷になっており、”蛇田谷の険”と呼ばれているそうである。すごい名前である。しかしこのあたりは地元の人でもないとよくわからない地域である。GPSにあらかじめコースを入力しておいたから間違えずに来ることができる。この先はやはりまっすぐな道で太郎坊とかの地名がある。またこのあたりは戦国時代の戦場で「首切り谷」とか死人谷」とかの地名も残っているのだそうだ。地図には見えない。このあたりには馬頭観音とかいろいろあったみたいだが雨で先を急いでいたのですべて見過ごしてしまった。東金まで行かないと帰れない地点です。
■ビンダライ池
 途中坂を下った右側にある池にビンダライ池の名称札が張ってあったが、本によると草ボウボウの池であるがごく普通の池である。ビンダライとは家康が途中で池の水をタライに入れ髪を直すのに使ったといういわれのある池であるが、ここの池かどうかよくわからない

■滝台の道標
 道を進むと千葉東金道路の下をくぐる。左折すると国道409号の山田台という所へでる。そこに六角形の道標が小さくある。何か刻まれているが老朽化して読めない。東金街道はここまでだそうで船橋から34km。後は東金御殿までは既成の旧道を進んだとのこと。船橋に街道案内看板があり、船橋東金間34kmとあったのでてっきり東金駅までかと思っていたらここまでの話で、ここから駅まであと4kmもある。暗くもなってきたので急ぐこととなった。ここから駅までは3本の行き方があったようだが北よりのこんれい坂のコースを取ることとした。正式の街道は南よりの油井経由のコースらしい。右手にあったのは山武農業改良普及センター。そこを過ぎるとこんれい坂の急坂になる。

■魂霊坂
 東金市黒田に”魂霊(こんれい)坂”と呼ばれる坂道がある。正式な名称ではないようだ。この坂は、生物の魂を守る聖域的な場所であり、忌み嫌うものを捨ててはいけないという伝承がある。これは、天正18年(1590)に、家康軍に敗れ、ここで亡くなった酒井氏の家臣を大木の根本の奉ったことによるという。この坂を下る。
 その後雨も降り、周囲が暗くなるので写真もとれず。GPSを頼りに東金駅までひたすら急ぐ。エルカクエイの大規模な宅地販売センターなども過ぎ、途中八鶴湖に大きな石鳥居があったがなんであろうか。湖を過ぎやっとのことでに着く。後でグーグルマップの航空写真などみるとこの附近は池、湖などが多い地域であした。道を歩いていると全く見えずわからずに通過していた。本日歩行距離24.5km

  東金街道1へ