山陽(中国)街道を歩く 21
        周防高森~徳山)
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 周防高森-米川-丸子坂-今市-呼坂-勝間-遠見-生野屋-花岡-久米-遠石-徳山     27.1km    
 

2013年6月1日
★周防高森宿
 京都から岩国行の夜行バスで6時過ぎに到着。7時18分の岩徳線に乗るため、駅でおにぎりなど食べてしばらく過した。電車は高校生やらが乗込んできて結構混むようだ。1時間に1本しかないので、寝坊でもすると大変だと思うけど。●周防高森駅に到着。  まずは前回来たけれど、●高森宿本陣へ行く。相川家が勤めていた。●受光寺は鞍掛合戦で落城討死した鞍掛城家老宇野筑後の長男が出家開創した寺で、時には脇本陣を勤め、公儀役人や諸大名の宿所にも当てられた末寺28を持つ大寺であったとか。もう一軒の脇本陣の山本家はすでにない。   8:05

■周防高森~高森神社
 ●旧高森宿の中を西へ向う。宿内の東のはずれを「市頭」、西のはずれを「市尻」と称し、その間を上市、中市、下市と称した。 また街道を南北に分け、溝を掘り東川の水を通して、防火用水洗濯に利用されて、宿場の風情を醸し出していたが、昭和30年頃には溝が埋められたという。
 右手、報明寺横の駐車場を通り抜けた左手奥に●宇野千代文学碑がある。宇野千代は岩国市川西で生れ、幼少の時に母が亡くなったので、父の生家である高森市中市の宇野家で造り酒屋を営んでいた伯父に育てられたという。脇に岐阜県根尾村から移植された淡墨桜がある。  8:15 

■高森神社~米川
 バス停「下市」の所で、島田川堤防に突き当たり、右折して行く。右手に●高森天満宮がある。
 道真が大宰府に赴く途中、当地に湧き出る泉で喉を潤したと伝わる。周防の国三大天神の一つ。
 その先は島田川沿いの道になるが。ここは堤防の上を歩くことにした。車も通らないので都合が良い。
 島田川通船発着場跡があるはずのところ、案内も無いのでわからなかった。米川橋を見ながらしばらく進むと、右に曲がるあたりは●掛ノ坂遺跡という。昔は山の岩盤が川に突出し、道は岩盤を越え急坂となって交通の障害となり、古来多くの人馬を悩ませた所である。岩徳線の工事の際岩盤を破砕して線路を敷いたという。  8:56 

■米川~差川十字路
 すぐ隣に●孝行塚という石碑が立っている。「昔、元文、寛保(西暦1736年~1743年)のころ、差川村の旧家三右衛門につかえ、主家の恩に報いるため一意専心働いて主家の没落を救った六松の顕彰碑である。」とある。
 「蛍橋」バス停の左手あたりから広場の所を抜けて土手の方に回る。この土手道は、河川改修によって高上げされているが、旧道のままだそうだ。県道へ合流する手前で●ヤギが一頭繋がれていた。脇をそうっと通ってからパチリと一枚撮っておいた。
 県道を進むと●差川十字路となる。旧道は正面の細い民家の中の道を入って行く。   9:32 

■差川十字路~丸子坂
 坂道を少し登った右手に●石仏群がある。 三丘村の貞昌寺僧淡海が天保2年(1831)島田川沿いの差川、弘末間13丁の新道を完成させた。そのお祝いに周辺の篤志家が寄進した西国33観音の内の4体。観音正寺、松尾寺、華厳寺、宝厳寺の観音像である。石段を上がって行った奥の小高い所には●宗泉寺跡」がある。豊臣秀吉も朝鮮陣下向のとき休んだ所といわれている。 旧道は石仏の下の●だらだら坂を左手へ下って行く。右手の上って行く道は明暦3年に造られ、明治8年に拡幅された丸子坂新道というらしい。  9:42

 ★旧丸子
 坂を下って行くと民家があり、右手の林の中へ入る坂道がある。これが旧丸子坂への入口で、●旧山陽道 丸子坂」の標柱が立っている。
 手前の電柱脇あたりが「調査書」で云う●馬の瀉血場であり、「坂の手前20mばかり、農家の裏口路傍に瀉血場があり、急坂に喘ぐ馬の粗暴を防ぐため、3リットルから6リットルの血を抜いた場所である。」とある。しかし血を抜くとおとなしくなるのだろうか、力が出なくなると思うのだが。 標柱に沿って坂を上がるとフェンスが張ってあり進めなくなった。奥の切通しが●旧丸子坂と思われる。右手の方へ進めるようなので、行って見たが、完璧な竹藪に阻まれて進むことは不可能に思えた。藪こぎすればどうかなるかと思って、少しは進んでみたが無理だったので、あきらめて撤退。 元の丸子坂新道との分岐点に戻って、新道を進むことにした。  9:50 

■丸子坂~中山峠
 新道を進んだ。左手にさいの神があるというが見逃した。右手の白い案内板が立つあたりは●「中山峠御駕籠建場跡」である。・・・「ここは、昔(藩政時代)藩主や西国の諸大名が参勤や国内巡視などで往来の際駕籠を止めて休息された場所です。米川公民館」・・・と書かれている。
 その先は●中山峠の頂上になる。傍らに●「従是東玖珂郡」、「従是西熊毛郡」と書かれた郡境碑がある。「周南市」と「岩国市」の市境にあたる。 10:10

 ■中山峠~今市
 当然ながら峠から先は●下り坂になる。右手には「はだし天国サーキット」というのがあるらしいが,何の音も聞えない。雨模様の天気のせいかな。
 「中山道踏切」を越え、左折して線路沿いにしばらく進む。
 右手に「宮川米水先生顕彰碑」という碑がある。江戸末期から明治にかけて子弟教育に尽力した人物という。
 5分程歩いた先、右手に「高水村塾之址」の碑などがある。その横の高台にあるのが●正覚寺。入口に芭蕉句碑などがある。天明年間より今市宿の脇本陣を勤めていた。あたりには一里塚があったというが、大正の初期に取除かれたそうだ。 10:35

 ★今市宿
 正覚寺の前の「今市橋」を渡ると、街道両側に商店や民家が建並び●今市宿の町並みが広がる。しかしながら人の姿がほとんどみえなかった。 左手に風格のある●酒屋竹本本店がある。むくり屋根が印象的。 右手旧家の角に●道標がある。「北 米川 川越 桑根村約四丁 上り西 八代 中須村道」と刻まれている。 その先、岩徳線の跨線橋を渡る。  10:40

35 今市宿
 高森から2里、呼坂宿まで半里(5km)しかなく、小休止に当てられた。中山峠を控えての宿場と思われる。人足40人、伝馬15疋が置かれ、その以上必要な場合呼坂宿と共同で対応した。脇本陣として正覚寺が当てられた。 

 ■今市~呼坂
 JR高水駅前を通過ぎるが、呼坂御米倉とかはよくわからなかった。 JAの前に呼坂地区文化財案内板が立っているの宿内のことが良くわかり助かる。
 ●寺嶋忠三郎誕生の地は、JAの向かいにあった。維新の志士で16歳で松下村塾に入って、松陰の弟子となった。禁門の変のとき久坂玄瑞とともに22歳で自刃した。
 県道を横断して、呼坂本町に入る。右手に橿原神社があるが、この手前辺りからが●呼坂宿である。狭い街道を夾んで趣ある旧家が並び、まさに旧宿場という感じで心地良い。ゆるやかに右に曲っている感じが「エビ」というのだろうか。  11:12

 呼坂宿は中程を流れる中村川を挟んで東を新町、西を西町という。新町の左側の古風な家が●呼坂本陣跡である。
 本陣の河内家は、江戸時代、代々庄屋や大庄屋を勤め、天明年間より)七左衛門が本陣を引き受けた。
 中村川を渡ってすぐ左手に木戸孝允の祖父で町医者の藤本玄盛旧宅があるというので、探してみたが、らしいあたりには新築の家が建つのみでわからず。 その向かいに●寺嶋忠三郎松蔭訣別地の碑がある。安政6年(1859)江戸送りとなった吉田松陰が5月、ここを通過したとき、郷里に帰っていた忠三郎は、久坂玄瑞からの知らせにより松陰の駕籠を見送ることができた。物々しい警戒のな中、師と弟子はただ歌を託すばかりであったという。歌碑
 11:17

36 呼坂宿
 応安4年(1371)今川了俊の旅日記「道ゆきぶり」に 「えび坂と言う里の寺の侍りしに泊まりぬ」とあり、えび坂といっていたことから、えび坂が転じてよび坂となった。また宿の地形がえびに似ていることから転じて呼坂になったともいわれる。
 人足49人 伝馬15疋。本陣は庄屋の河内家、脇本陣は西善寺が勤めた。

■呼坂~勝間
 呼坂宿の西端に●西善寺があるが、脇本陣を勤めていた寺である。呼坂宿の高札場は参道の入口近くにあったという  西町からすぐの坂を上がると呼坂宿の名前の起源となったという古市という集落となる。古市坂は欽明寺坂、中山峠とともに交通の難所の一つだった。 岩徳線は古市の下を通り抜けて勝間へと続いている。街道は下り坂になり、一度国道に突き当るが、国道の手前を急激に左に曲る。●林間を進んで踏切を渡り国道を左へ少し進んで、歩道橋の所で、左手へ入って行く。   11:36

■勝間~遠見
 ●勝間駅と国道の間を抜ける。勝間は間の宿であったといわれる。国道の右奥に「熊毛神社」がある。周防一の宮らしかったが、雨だし、遠そうなのでパスした。
 国道に合流して岩徳線の跨線橋を渡ると、ちょっぴりと国道の右を円弧状に進む旧道があるので入っておいた。出口に大きな常夜燈があった。 遠見信号の所で右に入る道があり、入ると山道が細く続いている。これが●旧道である。わずかながら旧道の面影を残している。山道はすぐに国道2号と合流して、岩徳線のガード下をくぐる。  12:30

■遠見~久保市
 調査書ではガードの先の民家の前に御腰掛茶屋と駕籠建場があったと書いてあるが、全くわからない。
 「垰」信号の右手の高台を少し上がった竹林の中に●三宅九内父子の顕彰碑というのがある。三宅九内は享和2年(1802)大河内領主の粟屋帯刀親睦が大河内に敬学堂を創設した際、学頭に迎えられ生涯をその教育に注いだ。長男次平も敬学堂の教育に専念し、父子の努力で多くの人材が輩出されたという。
 信号の先で旧道は左に曲る。曲る所に●郡境表示碑がある。「東 周防國熊毛郡 西周防國都濃郡」と刻まれている。
 これから先は国道の南側をバス通を通ったり、裏道を通ったりで、少しごちゃごちゃとして進んだ。周防久保駅の駅前は何も無い。「二ノ瀬」信号の所で岩徳線のガードをくぐる。「切山」信号の先で左斜めに入って行き、二ノ瀬橋を渡ると久保市宿になる。
 久保市橋の手前、左手の切戸川沿いに●由加社がある。天保9年(1838)に久保市の大火後、備前国田の口(倉敷市児島)由加本社から勧請した。   13:40

 37 久保市宿
 久保市の地名は山の谷あいのくぼ地の町並みであることから、窪市=久保市といわれるようになったとされている。小さな宿場町であったが、本陣、伝馬10疋が置かれていたという。

■久保市~岡市 
 ●久保市の町中を通る。江戸時代には家が両側に25軒くらいづつあったといわれる宿場だけど、全く人影がない。道は二股になり、右側を行く。
 左手には西蓮寺があり、門前に「篤農家小林武作君之碑」がある。米の品種改良に尽力した人物の顕彰碑。坂を上がった先は「岡市」と呼ばれている。 坂を上がりきった所の右手に●「武運長久」と刻む大きな自然石の燈籠と恵比寿社がある。  13:55 

■岡市~生野屋
 岡市から進むと、●右手に県道、国道2号線、左側は山沿いの道になり、塩売垰(しおりがたお)という所である。駕籠建場が設置されていたと云うが確認はできない。塩売垰は汐入峠、枝折峠とも呼ばれたとあり、往古はこの辺りまで海水が打ち寄せていたのではないかと云われている。 塩売垰を下り、国道とちょっとだけ合流すると、左手の「うどん店」は6月の営業日は15.16.17日の3日間だけというすごい店だ。 左手の山道へ入ると「生野屋」である。古代山陽道の駅家が置かれていたという所。坂を下った先、踏み切り脇に無人の●JR生野屋駅がポツンとあり、すぐに左折して、まっすぐ進む。   14:30 

■生野屋~花岡
 右手に教応寺がある。山陽道筋にあるため、代々の藩主が立寄ったというお寺。やがて花岡の町並みに入る。旧花岡宿である。左手に●蔵造りに千本格子の旧家があった。
 右手に「花岡ふるさと花だん」という公園があって、奥に●「花岡勘場跡」という案内がある。花岡本陣があった場所であった。江戸時代、ここは萩本藩と徳山支藩領とに分割支配され、花岡は萩本藩領に属し、統治の為の役所を勘場と呼ばれた。また本陣、番所、高札場などが置かれていたという。当時の絵図が掲示され、なんと大砲の砲身だけだけど2基置かれている。  14:50

38 花岡宿
 花岡という地名は、「八幡宮に往昔、七香里という樹木があり、大きさ七抱半廻りの大木で、開花時には郷中匂い薫しく、落花のときはおびただしく散乱する。それで花岡と呼ぶようになったのだと云われている。初め花岡八幡宮の門前町として発達し、山陽道の宿駅が置かれた。本陣、天下物送り番所、代官所が置かれた。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、名護屋城への往復道中で花岡に泊まっている。

 ●花岡の町中を進む。右手に●法静寺がある。浄土宗で慶長年中に創建され、はじめは正覚寺と称していた。本陣に近いため、諸大名の宿舎にもなっていたという。
 左手境内に●出世福徳稲荷大明神社があるが、寺の門をくぐらないと行かれない。神仏習合もきわまれり・・という感じ。享保9年、住職が遠石浦の白狐夫婦の死をねんごろに葬ると、白狐大いに喜んで火難盗難をさけ、出世の功徳を授けるという。右手、「金分銅醸造元」があった。15:00

 ★花岡八幡宮
 八幡宮という扁額の架かる鳥居があり、参道の奥が花岡八幡宮になる。
 見事な楼門をくぐると右手に●多宝塔があって、閼伽井坊塔婆という。和銅2年(709)に、宇佐八幡宮の分霊を歓請して祀られた由緒ある神社。毛利家の祈願社でもあり繁栄したという。●拝殿には、龍の彫刻が施され、正面上部の「永受嘉福」という額は従一位近衛忠煕の筆による。多宝塔があるくらいなので、神仏習合の神社には違いなく、楼門手前左手に別当寺だった●閼伽井坊が建つ。かって花岡八幡宮の社坊は10ケ寺あったが、閼伽井坊は現存する唯一のもの。明治の神仏分離の時は大変あっただろうと想像される。  15:15

 ■花岡~久米
 西へ向い、少し左へ曲りつつ、●山陽新幹線ガードをくぐる。末武川の左側を川に沿ってしばらく進む。
 和田橋の手前で岩徳線を渡らず、右折して橋を渡り、末武中地区を過ぎる。道なりに進み、旭が丘へ入ると左手に「順正寺」がある。突き当りは左へ曲る。このあたりを「久米市」というらしい。市戎や高札場あったというが、住宅地でよくわからない。右手に祭礼の神輿を置く台石だけがある。 西光寺川を渡ると、右手の蔵元所で右折する。●明治8年創業の山縣本店という。 16:23

 ■久米~五月町
 その先山陽新幹線のガードをくぐると「桜木」という交差点に出た。すぐ右手が森になっており、石垣の所に案内板がある。●「白見ケ森と伏見稲荷社跡」といって、花岡の福徳稲荷社の分神が祀った所らしい。
 森沿いに右へ曲って、坂を上がる。その先は●早乙女坂と呼ばれる下り坂となる。街道を通る旅人と、地元民との風習に関わる悲しい事件が起った話が残っており、詳しい事は 案内板 をどうぞ。マンションの脇を通り、広い道路へ出る。 16:40

 ■五月町~遠石
 広い道路からすぐ右手に●遠石八幡宮が建っている。推古天皇30年(622)の時代に宇佐八幡宮の分霊を奉安し、和銅元年(708)の社殿を造営した。平安時代石清水八幡宮別宮となり、 本朝四所八幡の一つとも称されたという。
 八幡宮の前の通りが山陽道の●遠石宿という。遠石八幡宮の門前町として、徳山藩の外港として、また山陽道の宿場町として、水陸の交通に大きな役割を果たしてきたところと説明されているが、「五驛便覧」には記載されていないので、正式な宿場ではなく、休止所としての間の宿か半宿と呼ばれるような宿場であろうと思われる。   17:00

■遠石~徳山 
 遠石宿の中に入ると醤油の香ばしい香りが漂ってきた。左手に老舗の●福原醤油醸造所があり、酒造所もあって、宿場の面影や栄えていた町のなごりが感じられた。
 梅花川をを越えると、右手に●影向石と呼ばれる大きな石がある。説明文には「推古天皇30年(622)春の夜、豊前より宇佐八幡大神が神馬に跨り此の地の磯浜に降臨された。
 その時神風静まり光明と伴に忽然と現れた大石に降り立たれ、吾は八幡大神なり、この地に跡を垂れて国民を守らんため、今ここに現れる。嗚呼遠し」と神託されたと・・・ある。  17:05

  十字路を横切った先、右手に宝性寺がある。旧道は●寺の裏の細い道へ入って行く。坂になっていて「念仏坂」と云われる。街道とは思えないような民家の間の細道をすり抜けて通る。このあたり一里塚があったそうだ。
 この先県道347号に合流する。旧道は県道に分断されてしまっているので、左手の緑地の遊歩道を進んで行く。
 松保町東で右折、その先で左折して松保町、速玉町と進んで行く。その前県道と分岐するところに「「さすり仏」というのがあったらしいが雨がひどいせいもあり、見逃す。●東川に架かる揚柳橋を渡ると徳山宿になる。 雨がひどくなってきて早々ににホテルへ駆込んだ。
 次回は徳山宿から始めます。 宿は徳山駅新幹線口の「徳山東横イン」でした。      17:30

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