山陽(中国)街道を歩く 24
         (小郡~厚狭)
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東津橋-南本町-嘉川-割木松-山中-車地-辻堂-どんだけ道-厚東-吉見峠-船木-西見峠-厚狭-鴨橋 21.37km
 

2013年7月25日 
 山陽道小郡宿からゴール下関をめざして歩きを再開。厚狭駅を目指すが、厚狭まで距離があるので朝早い方がいいと思った。 京都から新山口まで夜行高速バスがあったのでちょうど良いと計画した所、夜行バスが6月30日で廃止になってしまい、やむをえず前日着として25日に新山口駅に着いた。
 以前から山口市内の瑠璃光寺五重塔を見たいと思っていたので、見物方々大内氏の遺構も少々見ておこうと思う。
 ★山口市内
 12時頃山口駅に到着。相当暑いが、3時間程度のウオーキングマップに沿って、まず大内氏館跡を訪ねる。駅前から大きい道を行き、一の坂川を渡ると堅小路に出る。大内の殿様が通った道で真っ直ぐに造られている。左手奥に●龍福寺(大内氏館跡)がある。大内氏24代当主の大内弘世が、山口を本拠と定め移り住んだ時に築かれた居館。
 北へ向って歩き●瑠璃光寺五重塔を訪ねた。寺の由来は少々複雑で、元々大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立したのが初めで、陶弘房の夫人が仁保高野に建立した安養寺を改名、移転したのが現在の瑠璃光寺である。五重塔は国宝で嘉吉2年(1442)頃の建立。自分の貧弱な筆力では魅力を伝えられないが、檜皮葺の屋根が非常に美しく、しばしその美しさに見とれて過す。 駅へ戻る途中の亀山公園の中にある、●サビエル記念堂。初代の建物はザビエル布教400年を記念して建てられたが、焼失して、平成10年に再建された。      その後新山口駅に戻り、東津橋から本陣跡まで小郡宿内を歩いておいた。

 ■東津橋~西の十字路 
 前回終了した●東津橋から山陽道を再開。橋を渡ると小郡宿に入って行く。
 明治5年に東津橋が完成するまではここに渡し場があった。橋からほぼ一直線に道が延びて、東津通りという。山口線の踏切を渡ると「新丁」で、十字路を右に入って行くと、●小郡宿の御茶屋、勘場跡がある。今は、新丁公民館になっている。案内板に江戸時代中期頃の「小郡勘場(代官所)・御茶屋配置図」が掲載されている。御茶屋は藩の公的な宿泊施設。勘場は萩から出張して来る代官の勤務する役所のこと。 その先の十字路を左折するが、右手前角に●道標がある。「右 京江戸」、「左 萩山口石見」とある。もう一面に「牛馬繋事無用」と書かれている。この道標は複製で、本物は近くの民家に保存されているとのこと。

44 小郡宿
 山陽道と山口や萩、石見国へ通じる街道が交わり主要な宿場として栄えた。名前の由来は吉敷郡に属しながらも、交通の要地として小さくまとまって一つの郡をなしたということによる。
 天下御物送り所や九州諸大名の宿泊所として使われた。本陣1、人足25人、伝馬25疋が常備された。

■西の十字路~南本町 
 道標のある十字路を左折して、●津市通りに入る。この通り旅籠などが多く置かれ、もっとも栄えた通りであるが、今ではあまり宿場の面影は残っていない。。 左手に●2階がきれいな漆喰の花模様の家がある。 左手に辰野金吾設計によるネオ・ルネッサンス様式の山口銀行小郡支店があったが、取壊されてしまったのは残念。
 広い道を渡った左角にある駐車場は●三原屋本陣跡。幕末に騎兵隊の攘夷実行を詰問に来た幕府の使者中根市之丞ら一行が、長州の諸隊によって襲撃され3名が殺害されたという事件が起っている。  この先の交差点で一旦歩きを中断して、宿の新山口ステーションホテルへ向った。

2013年7月26日 朝方急な大雨になったが、ほどなく止んでくれた。
■南本町~嘉川赤坂
 新山口駅前の通から旧道へ戻って、左折して唐樋橋を渡る。この辺り一帯に往還松が立ちならんでいたというが、全く残っていない。 右手に●粟島神社がある。やがて国道9号の高架を越えるわけだが、右側に渡っておく必要がある。高架を越えたら右の細い道を通らないといけない。県道335に合流して、新幹線ガードをくぐる。「柏崎」信号の所で左の脇道へ入って行く。「新開」という地区。国道の喧騒から離れた●静かな裏道だった。 8:20

■嘉川赤坂~嘉川中市
 宇部線、山陽本線の踏切を渡ると、のんびりした●田園の道に変った。前方に見える二つコブの山の右側は雨乞山。狼煙場があったという。 千見折川を渡ると緩やかな上りとなった。やがて宇部線を高架で越えて、上嘉川の町へ入った。このあたりで雨が豪雨と云われる位の降り方となり、写真を撮る余裕もなく先を急ぐ。右手に●本間源三郎顕彰碑がある社がある。本間家は江戸期に庄屋を勤め、「本間源三郎」は明治の人で、初代嘉川村村長、県会議員、衆議院議員を歴任された方だそうだ。   8:45

■嘉川中市~幸の橋
 旧道は、「嘉川中市」信号で、県道335号を斜めに横切り、●嘉川市の町並になる。嘉川市は県道に分断されてしまったようだ。嘉川には古代山陽道の「賀宝駅」が置かれた所で、駅馬20疋と定められていた。
 ほどなく県道に合流し、横断して「嘉川駅前」を過ぎて行く。左手嘉川公民館隣に●三体の石仏がある。大きい方から順に、正徳3年(1713)、寛政8年(1796)、天明9年(1789)の建立になる。 「幸之江橋」で渡った先の左手に道標があり、「あしす とこなみ 中の村」と刻まれている。宇部方面に向う海岸通り道の追分けになっている。   9:05

■幸の橋~割木松
「幸の橋」信号で一旦県道と合流し、すぐに右斜めに進んで行く。
 右手に●熊野神社がある。神社から先は県道の北側を県道に沿って行く道で、所々に「天満宮」と刻まれた道標や、常夜燈などが現われてくる。 やがて県道と国道2号と山口宇部有料道路嘉川ICが複雑に交差する場所に来るが、ここは難しく考えないで、右の歩道をひたすらまっすぐ行けばいい。右手に「おいはぎ峠」という面白い名の食堂がある。 その先すぐ先右手に●周防長門国境碑がある。「東 周防国吉敷郡、西 長門国厚狭郡」と刻まれている。ここから山口市から宇部市に入る。   10:20

■割木松~山中上市
 国境碑のすぐ先のホテルの脇から右斜め前方の旧道に入り、その先は●割木松の集落。 割木松とは境界の争論の中で境にあった松を両国の農民が争って割取ったためという。
 右手に庚申碑がある。
 小さい集落を過ぎると再び国道2号と合流する。この先で大きく水田の中へ迂回して、山中へ向うのだが、迂回路の入口がコンクリートの割れ目の所という説があって、探してみたがよくわからず、ガードレールの切れ目から水田へ延びている場所があって、そこから入って行くことにした。●水田の中の道はきれいに整備されていて良いのだけど、左へ小さく回って県道へ向っている。右奥を眺めると水田の縁の小山に沿って道が付いており、旧道はそちらではないかと思った。しかしイノシシよけの塀が立っていたり、ヤブ化しているようでもあり、無理に通ることもないだろうと思った。この道は「上山中」交差点の手前付近に合流する。   10:35

■山中上市~山中下市
 ●山中上市の集落へ入る。小郡の次の山中宿である。山中宿は、上市と下市で成立ち、両市は約1km離れている
。集落に入ると、すぐ右手に●熊野神社がある。そのまま進み、橋の手前に地蔵堂があるが、ここは橋を渡らず右折して、川沿いに進む。 国道2号に合流して国道をしばらく進む。本当に山陽道の主要国道らしく特に大型トラックが多くて閉口してしまう。国道に合流する付近に、この山中市を開いたと言われている伊藤彦四郎の墓があるらしかったが、わからなかった。 ドライブインを過ぎたあたりで旧街道は国道から左に分かれ、●川沿いの道を通って下市に入って行く。小さな橋の脇に庚申碑があるのが旧道らしくもある。   11:25

45 山中宿
 山中宿は、上市と下市で成立ち、両市は約1km離れている。永和4年(1378)に伊豆国の浪人伊藤彦四郎が一里四方の深山を切り拓いて新宿とし甲山市とした。後に山中市と改められた。山中市は、半宿であったが、宿馬15疋を備えた本宿同様であった。上市では専念寺が本陣として使用され、下市には本陣跡がある。

■山中下市~車地
  ほどなく、また国道へ出て、そのまま横断すると山中下市の集落となる。右手に薬師堂があり、その先、「下山中」バス停の手前、右手に●「山中本陣跡」と書かれた白い標柱がある。山中宿は見事に国道に分断されている訳だ。 国道へ出てしばらく行くと、左側に●国道に沿った道が通っているのが見えた。調査書の地図ではこの先国道を夾んで右往左往しており、この道も旧道だろうと思ったので左斜めに入ってみた。草ぼうぼうでゴミだらけではあったが、旧道と思われる。 この先与助の首塚跡が旧道の入口で、国道の右へ入るのだが、首塚跡がよくわからず、結局国道を歩いて、●車地の交差点に着いた。   12:05

■車地~辻堂
 地の交差点を左折して、厚東川沿いに歩く。
 左手に●永山本家酒造場という蔵元がある。「男山」という銘柄の酒を造っている所。創業明治21年だそうだ。 厚東川木田橋で渡り、二俣瀬信号で国道2号を斜めに横切り、●薬師堂の集落に入った。この旧道も国道へ出てしまうのだが、右手に立派なしめ縄がかけられた庚申塔が立っていた。しばらく国道を進んでから、●瓜生野の旧道に入って行く。
 12:40

■辻堂~どんだけ道
 瓜生野の旧道を少し行くと、右手に●山陽道(殿様道)の案内柱が立っているので、ここを右奥へ入る。ここが「殿様道」とか、「どんだけ道」とか称される道である。 入って行くと、しばし●少々のヤブ道となるがちゃんと道は付いている。右手に●大歳社があり、すぐ先の舗装路を横切る。「殿様道」の標柱が立っていて、迷うことはない。    12:45

■どんだけ道~春日
 そのまま山道を上がって行くと、●送電線の鉄塔脇に出た。道は整備されていて、そのまま進む。●送電線に沿って道なりに進んでいくと、訳もなく大坪川手前の県道へ出た。「どんだけ道」は荒れ果てて歩行困難という話もあったが、整備されたようですんなり通れた。県道脇に地元のボランティアグループの作成した案内板が立っている。しかし県道まで来て先に進もうとしたら、道路工事中で道が掘られて、見事に●道が分断されてしまっていた。旧道は正面の水田の中央に続いている。どうしようもなく、工事の人もいないので強行突破しようかと思ったが、無理そうで県道を南下しようとしたら、水田のあぜ道の広い所があり、そこを通って大坪川の土手の方に出ることができた。13:02

■春日~厚東中学
 旧道へ戻ることができ、小さな橋を渡ると●旧山陽道の標柱が立っていて、林の奥に道が続いている。
 ●林の中の旧道も整備されており、なんの問題もなく歩くことができた。ただ途中小さな蛇様が足元を横切って行った、いやですねえ。やがて林を抜け●舗装された民家脇へ出た。   13:15

■厚東中~下岡
 厚東中、正覚寺と過ぎて国道へ出た。国道を少し行くと、右手に●坂を上がる旧道がある。この辺りの国道は切通しになって傾斜が緩くなっている。
 この坂を上がり●中村地区に入る。国道に沿った細い坂道で、道が終
った頃●吉見市の標柱が立っている。  13:30

■下岡~吉見峠
 下岡交差点の所で左斜めに入り、●新幹線の高架下を通って行く。この先の細い道は萱曲古墳をU字形に迂回する道で●萱曲道と呼ばれているらしい。
 U字形に迂回して●国道2号、新幹線と合流するのだが、調査報告書の地図には国道の右手に並行して旧道が描かれており、しばらく平行する農道を行ってみた。ところがいつまで経っても左手が水路で合流できず、そのうち国道の下を流れている水路トンネルにぶつかり、進行不可能になった。ここであきらめて国道2号にガードレールを越えて合流した。  13:52

■吉見峠~船木 
 その先国道を行くと吉見峠になるが、国道2号の左手に2ヵ所旧道があるように描かれており、左側を注意して歩いて見たが旧道らしい道はなく、そのまま国道を進んだ。やがて●吉見峠に到達する。峠と云っても標高は90m・・・・?って感じ。
 このあたりから左へ入るようになっているのだが、道は見当らず、国道を進む。国道には歩道がなく、左端を進むが大型トレーラーなどが通過してかなり危険な思い。 しまいにはパトカーが何か言いたそうな、心配そうな感じでゆっくり通過して行った。 やっと先へ入る旧道があり、そこを入る。●宇部興産専用道路をくぐるあたるに7体のお地蔵さんが並んでいる。トンネルを抜けて左側には一里塚跡碑、さらにその先には船木の高札場跡の標柱があるあたりが●船木宿の入口になる。 14:45

★船木宿
 少し先右手に●岡崎八幡宮がある。宝亀元年(770)和気清麻呂が勧請したという。  境内のクスノキは樹齢700年と推定される。その先宿内は坂を下るようになっている。右手に●旅人荷付場跡。江戸時代、ここには駅馬15頭と人足十数人がおり、公儀役人や大名行列、旅の人々の世話をしていたという場所。問屋場と同じでは無いかと思うが、山陽道ではこう呼ばれることもあるのだろう。●船木の町並を進んで行く。結構しっくい壁や袖卯建を備えた旧商家が目に付く宿場らしい雰囲気も残っている。  15:00

46 船木宿
 地名の由来は神功皇后が出陣の際、楠木の大樹で舟をつくられたという伝説による。本宿であり、本宿駅馬15頭と人足十数人が置かれ、町屋がならび御茶屋本陣・勘場なども設けられ宿場役人がいた。この街道を往来した旅人の中には今川貞世、連歌師の宗祇がいた。また、近世には川路聖謨、河井継之助など著名の武家等も通過している。しかし明治期に山陽線が船木をはずれ、厚東から南下してしまい寂れるようになってしまった。

■船木~新川
 右手には●大木森住吉宮がある。祭神は住吉三神。船木の地名の由来になった、神功皇后が舟を作るために切った楠木の大樹はここの境内の楠木だそうだ。
 そのすぐ先には大きな●地蔵坐像がある。いわれなどはよくわからない。 「茶屋」という信号で国道に合流して、船木大橋を渡る。さらに●「新川」信号では左斜めに入って行く旧道を行く。   15:21

■新川~逢坂
 ●雑木林の間を抜ける道はすぐに国道に合流するのだが、このあたり台ケ坂、伏附峠と呼ばれる。
 この先、国道の左側には旧道が何ヶ所か残っているらしいのだが、よくわからないのでそのまま進んだ。
 逢坂のバス停の所から右に入って行くと、●案内板が立っている入口があって、「木造十一面観音菩薩立像 千林尼の石畳路(一部分) 山陽街道(残存百米)」と書かれている。 この入口を入って行く。  15:56

 ■逢坂~西見峠
 坂を上がって行くと、ほんの少し●石畳路らしき跡があり、これを千林尼の石畳路というらしい。
 坂を上がりつめた右手に小さな逢坂観音堂(乳観音)がある。住宅そのもので観音堂とは思えないが、その中の木造十一面観音菩薩立像が納められているらしいが、わからず。 その上に山道があり、入口に「●史跡山陽街道の一部(残存)」と書かれた案内標識がある。そこを侵入して進んだが、草ボウボウのヤブ道になってしまって、ヤブこぎをしながら進むと、国道に出、少しして●西見峠に着いた。 
    16:10

 ■西見峠~厚狭宿入口
 西見峠の峠の頂上付近で旧街道は左に分かれる。●分岐点には小さな石の道標が立っている。往時の旧道は樹木が繁茂して歩行困難といわれていたが、現在では鋪装されている道になっている。 右手の埴生田堤に沿って進み、●FDKの工場の門の前を横切り、右手へ下っていくと右手に●雑賀神社があり、この辺りから厚狭宿へ入っていく。神社の社は小さいものだが、大きな文字庚申があった。16:30

 ■厚狭宿入口~鴨
 厚狭宿を進む。左手に護国神社の鳥居が立ち、右手に●鴨神社の鳥居が立っている。
 すこし進んだ所に、高札場があったようだが民家が建っていてわからない。 ほぼ真っ直ぐな旧街道の面影を残す宿内を行く。大屋根の商家や格子戸の家が点在している。特に左手の●お茶屋さんは白壁、大きな虫籠窓できれいである。 すぐ先に●鴨橋が厚狭川に架かっている。厚狭宿はここまでで、橋を渡ると左折して行く。
 本日は鴨橋を渡って終ることにした。ホテルへ向うため橋を直進してJR厚狭駅へ向ったが、駅までの道が旧宿場らしい感じで、古い店などが散見され、雰囲気がよかった。明治に厚狭駅が出来てから、賑わいが駅側の方に移ったようだ。  16:45

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