深大寺街道を歩く1 
           (布田~滝の城址)
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 布田駅-野川-深大寺城跡-野崎-武蔵境-柳沢-榎木通り-ひばりヶ丘-西堀-桜株通-下宿-滝の城跡-東所沢駅  19.12k    

 深大寺街道

 深大寺街道は多摩地域を南北に貫き、戦国時代、小田原北条氏と関東支配を争った関東管領上杉氏が開いた軍道であった。川越城を本拠とする上杉氏は、北条氏に対抗するため、深大寺に城を築き、川越本城と の間を兵が往復した。中間の柳 瀬川のほとりには、上杉氏の重臣大石氏の滝の城があり、中継地となっていたという。その深大寺城址付近から滝の城まで歩いてみました。
 資料
「武蔵古道ロマンの旅」
         芳賀善次郎

2013年6月18日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■布田駅~甲州街道
 武蔵国古道の3本目、深大寺街道を歩きます。戦国時代上杉氏が川越城から深大寺城まで拓いた軍道で、その中継基地だったという、滝の城まで18km位です。江戸時代になってから深大寺への参詣道ともなっていました。
●布田駅から出発します。「ロマンの旅」では、もっと南側の「布田6丁目」あたりから始まっているようですが、まあいいでしょう。すぐ北がわ「旧甲州街道」に面する●常性寺。甲州街道を歩いて以来の3回目の訪問。改修工事の為、ほとんど入れず。元々は真言宗豊山派の寺院で、江戸時代に田山新勝寺より成田不動尊を勧請して 以来、「調布不動尊」と称されて広く親しまれている。
 国道の「甲州街道」に出て、右手●國領神社がある。古代多摩川の辺にあった國領神社(第六天社)と神明社(八雲神社・杉森神明社)を昭和38年に合祀、社名を國領神社として現在に至っている。境内の藤の木が有名で、"「千年乃藤」"と呼ばれる。
 10:40

■甲州街道~野川
 多摩地方を縦断する●深大寺街道。現在は「三鷹通り」。戦国時代は上杉氏の軍道で会ったが、江戸時代は深大寺への参詣道として使われた。現在では境浄水場によって分断されたり、西東京市内で消滅したり、清瀬で米軍基地で分断されたりします。野川が蛇行していた時に架かる●榎橋。埋め立てられて欄干が残るだけ。右手の●榎橋人道橋から見た野川。武蔵野を歩くといつもぶつかる「野川」。このあたりではソメイヨシノが植えられ、春には花見が楽しめるらしい。  10:52 

■野川~琥珀神社
 人道橋の右手方向にあるのが●祇園寺。 深大寺を開いた満功上人によって天平年間(729~)に開山されたといわれる。日本野鳥の会の創立者である、「中西悟堂」の父に当る「中西悟玄師」が明治41年に入寺。自由民権運動殉難者慰霊大法要を催し、板垣退助ら多数が来場。慰霊祭後大演説会を開き、その時の記念に植えらた赤松が、現在も●板垣退助植樹の松として聳えています。 また中西悟堂の"「歌碑」"が境内に作られています。 街道を夾んで西側にあるのが●琥珀(こはく)神社。崇峻天皇2年(588)の創建。その後満功上人の祖父母が祀られ、深大寺の守護神とした。上人の祖母の名が「虎」で、祖父が住んでいた佐須村の旧名である「柏野の里」が、「虎狛」の起源といわれています。境内に"「琥珀神社の碑」" というのが立っている。"説明板"  11:15

★深大寺城址
 元の街道に戻って、急坂を上がって、「中央高速」の高架をくぐる。左手深大寺入口の"「多聞坂」"を下って、「多聞」というそば店で深大寺そばを食べてみました。左へ入り水性植物園の奥に深大寺城址が残ります。 深大寺城跡は、戦国期、上杉氏と小田原北条氏との攻防の中、扇谷上杉氏が再興した戦国時代前期の城館跡にあたる。今は空堀跡、郭跡、"土塁跡"が残るくらい。●標石が立つ所が第一郭跡で、右手奥に●第二郭跡が広がります。"案内板"詳細は「調布市のHPにて。 12:35   

 ■深大寺~青渭神社
 ●深大寺本堂●元三大師堂。 "「境内マップ」"  深大寺は天平5年(733)、満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝わる。平安時代に天台宗に変わり、現在は天台宗別格本山。釈迦堂に安置される "「銅造釈迦如来倚像」" は。飛鳥時代後期(白鳳時代)に製作されて、国宝に指定されている。
 元に戻って●深大寺道(三鷹通り)の坂を下って行く。 12:55

 ■青渭神社~深大寺北町3
 左手に●青渭神社がある。延喜式式内社で、旧深大寺村の総鎮守。往古は社前におよそ5町歩余の境内地があり、大 池に混々と湧水あり、青波をたたえていた所から、青波天神社とも称されたとい う。正面鳥居の横に目通り5.5m、高さ34m、 ●樹齢数百年の大ケヤキが聳える。「江戸名所図会」などにも記載される巨木だが、今は鉄柱に支えられて、かろうじてという感じ。
 左手に「神代植物公園」の広大な公園が広がる。「深大寺五差路」は左へ曲がり、次の分岐も左へ折れるが、そのまま三鷹通りを進むと左手に●諏訪神社がある。創建年代は不詳ながら、深大寺多聞院が別当となっていた神社。 13:15

 ■深大寺北町3~野崎
 先の分岐から左手へ曲がって来るのが●深大寺道で、三鷹通りとは分かれを告げる。住宅街を抜けて、車の通行が少なくなり、老人保健施設や病院が並ぶ静かな通りとなった。東八道路付近で一部消滅するので、適当に抜け、「野崎八幡前」交差点角に●野崎八幡がある。元禄2年(1689)、この地の開拓者が社地を深大寺の末寺池上院に寄進し、同院が八幡社を勧請した。
 深大寺道は●武蔵境通りに合流して北上して行く。歩道部分が広く、自転車通行帯と分離している。「野崎交差点」で「人見街道」と交差します。人見街道は古代武蔵国 の国府と大宮官衙を結ぶ連絡道の一部であり、前回歩いた。 13:50

 ■野崎~三鷹市塚
 右手に●上連雀浄水場のタンクが見える。 大地震の時などの応急給水所となる。「西松屋」の正面の細い路地を入って、突き当たりあるのが●井口神社。江戸中期、地元名主の井口権三郎により新田開発された「井口新田」に、元文元年(1736)創建。明治に八幡社を八幡神社と改称、村社となる。このあたりの地名も「井口権三郎」にちなむのでしょう。街道に戻って少し先左手に●庚申塚がある。後ろのビルは「庚申」という名前の会社で庚申塚にちなむのかどうかわからないが、面白い。 14:10

 ■三鷹市塚~武蔵境
 「三鷹市塚」で連雀通りにぶつかる。塚というからには「何かしらの塚」があったのだろうけど。よくわからない。左手の分岐の所に小さな●大鷲神社が鎮座する。古式ゆかしいが、社名碑は武者小路実篤の揮毫によるのだそうだ。
 さて、深大寺道はJR中央線を越えて、北上して行くのだが、今日は30℃を越え、暑くくたびれてきたので、武蔵境駅で止めにしようと思いました。駅へ行く途中、●杵築大社があり、境内に●富士塚がありました。"「説明板」" 杵築神社は大國主大神と事代主大神を祀る。慶安年間(1648~)、結城秀康の三男で徳川家光の従兄弟に当たる松江藩初代藩主松平直政が当所12町四方を将軍家より賜り、御用屋敷を設けて鷹狩場とした。直政がその御用屋敷内に出雲の杵築大社(現在の出雲大社、明治4年までは杵築大社と呼ばれる)と稲荷社を勧請したのが当社の始まりであるという。 この先「武蔵境駅」から少し早いですが、帰宅しました。 14:45 

      2 武蔵境-滝の城址