佐倉・成田街道 1
          新宿から八千代台まで)
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  新宿-小岩-江戸川-市川-船橋-成田分岐-八千代-佐倉-酒々井-成田   52km

 佐倉・成田街道
 徳川譜代、土井利勝が佐倉藩主となってから、江戸、佐倉間の街道が整備され、参勤交代にも利用される程の、重要な道となっていきました。当時、この佐倉街道を通行した大名は佐倉藩をはじめ房総方面の大名あわせて十数藩に及んだといいます。
 又、この街道は江戸中期以降、成田山参拝がさかんとなり、江戸から佐倉を通り、成田山へ参拝する道としても盛んに利用されるようになっていったので、単に成田街道とも呼ばれました。尚成田街道は外にいくつかルートがあり、日本橋小網町から船に乗り、小名木川、新川を経由して本行徳へ上陸し、行徳街道を北上して八幡や船橋へ向かうルートもよく知られていました。
 経路としては、日本橋から葛飾区、新宿までは水戸街道と同一経路。新宿で水戸街道と別れ、小岩、市川、八幡、船橋、八千代台、佐倉、酒々井、成田と続きます。今回は日本橋、新宿(にいじゅく)間は水戸街道と同一なので割愛し、新宿から成田まで約52kmを2回で歩きます

成田街道 1  成田街道 2

■新宿から小岩 ※ 写真をクリックすると拡大します
 2008年5月18日JR常磐線亀有下車、中川橋を渡って、新宿入口へ行く。
●新宿入口
 新宿が発展したのは、江戸時代に入ってから。水戸藩をはじめ安房、下総、常陸や奥州方面に領地がある大名や御家人、一般の旅人などでにぎわった松戸宿を控え、宿泊者は少なく、本陣もなく問屋があるだけだった。●日枝神社
 鳥居が朱色で、新しいが山王神社形式というもの。祭神は日枝大神(大山昨神)、宝暦(1750頃)新宿の守護神として鎮座、享保14年に現在地へ移転したという。前に来たときは基礎しかなかったが、銅葺きの屋根ができていた。


移動された道標 
     (在葛飾区郷土博物館
 国道6号線にぶつかるが、突き当たりにはおそば屋さんがあって、道標があったはずが、●空き地になっていた
 国道の拡張工事で移転したらしい。道標は葛飾区郷土博物館で保管されている。 正面に左 水戸街道 右 なりたちば寺道」右側面  に「さくらミち」と彫られていた。佐倉街道は中川大橋東交差点を渡り、南に向かう細い道である。9:45

★佐倉街道
 道がせまく、住宅街の横町という感じで、道幅は当時のままのような気がする。派出所の道を左折、右手に●「下河原北向地蔵」と元禄6年(1693)に建てられた、「角柱三猿浮彫道標」という古い道標がある
。案内板によると、正面には「これより右ハ 下川原村 さくら海道」、右面は「これより左 下の割への道」と彫られているそうで、下の割とは現在の江戸川区をさすそうだ。葛飾区に現存するものとしては最古の道標とのこと。 9:55

 貨物線路の踏切を越えて高砂の商店街へと進んでいく。高砂8丁目の交差点は右折すると京成高砂駅、左折すると、寅さんでおなじみの柴又帝釈天へと続く。●桜道中学校の先の歩道には現代の道標があり、「旧佐倉街道」と彫られている。佐倉藩主をはじめ、房総十数藩の大名が通った他、成田へ通じる参詣道であり、成田千葉寺道(なりたちばでらみち)とも呼ばれたとある。その先は●さくら道らしく、さくらが植わった、きれいな家並みが続く鎌倉地区を進む。桜の季節は散歩する人も多いことだろう。 10:10 

■小岩から江戸川
 江戸川区に入ると、●「親水さくらかいどう」という名前がついていて、490mが「健康の道」だそうだ。歩道の脇を用水が流れている。永年水不足に苦しんでいた農民のために、明治期になって石井善兵衛という人が中心になって江戸川の水を取り入れ、後には農業用水路・排水路として利用されたことを後世に伝える意図もあって整備されたものだという。江戸川の堤防に突き当たってこの道は終わる。旧道は堤防の車道を行くようだけど、よくわからなくなったので●堤防に沿った道を行くことにした。
 10:35

★真光院
 天祖神社の手前を右に入ると、左手にある。以前は茅葺きの風情ある寺であったが、現在は普通のて寺になってしまった。●門前に青面金剛と馬頭観音が祀られている。右に入る道は●奈良時代の東海道であった道である。まっすぐ谷中の方へ続いていた。上小岩遺跡通りともいう。   

 京成線の高架をくぐった先は、「御番所町」があった所。市川に関所が置かれ、旅人の取り調べは小岩側で行われた。その為このあたりには旅籠屋、茶屋が置かれて賑わった所でした。ブロック塀に隠れて●道標がある。ほとんど読めないが、正面に「左リ 江戸本所ミち 右 せんじゅ 岩附志おんじ道」、左側面に「右 いち川みち 安政4(1857)乙未年八月吉日」と書いてあるのだそうだ
●宝林寺には江戸川の渡し場にあったという常夜燈が保存されている。高さ4mほどあろうかという大きなもので、天保10年(1839)千住総講中の人たちによって建てられたものだとか         11:05

■江戸川から市川
 ●市川橋を渡ります。高所恐怖症なもので、相変わらず、橋を渡るのは好きではないです。明治38年に江戸川橋が掛けられるまで、江戸川には橋がなく、渡船によりました。
橋を渡った左手に●「市川の関所跡の碑」が立っています。しか、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっているとのことです。 11:20

 橋を渡ると市●川市に入ります。左折すると、国府台といって、古代から中世にかけて下総国府や国分寺などがあった地域であった。現在は有数の文教地区に変貌している。街道は国道を真っ直ぐ進みます。
 市川西消防署の先、歩道の角に●青面金剛碑が建っており、道標も兼ねている。ここも読みにくいが、「左側面に「西 市川八丁 江戸両国三り十丁」右側面には「東 八わた十六丁 中山一里」と彫ってあります。
 11:40

■市川から本八幡
 左手、京成菅野駅へ向かう道の角に●道標が2基建っている。左側の方は「左 宮久保山道」と彫ってある。右側の方は、正面の寛政11年以外はよく読めなかった。
 ●諏訪神社
 両側に黒松が植わる、風情ある参道の奥に鎮座する。すっきりとした社殿と思う。諏訪大社を勧進した神社で、御柱が両側に立っている。境内に黒松が沢山あって、「松平田緑地保全地区」として保護されている。  11:56

 本八幡駅を過ぎて、左に入ると●「葛飾八幡宮」があります。葛飾地方の総鎮守である。9世紀末、宇多天皇の時代に京都の石清水八幡宮を勧請して建立されたと言われています。木下街道を歩いた際訪れたばかりであります。
 国道の対面は●「八幡不知森」(やわたしらずのもり) といって、現在はわずかばかりの竹林であるが、昔は200mもあったそうです。この林に一度入ったら、二度と戻れないという伝説があった、徳川光圀も入ったところ、中で失神していたという話もある。

■元八幡から中山
 ★中山法華経寺
 中山駅を過ぎて、左へ曲がるとと●法華経寺の黒門が現れ、門前の商店街が続く。木下街道の時は脇から入りましたが、今回は正面から参拝しました。いかにも門前町という雰囲気です。奥の正面に大きな●仁王門が建っています。本阿弥光悦筆の「正中山」という額が掛かっています。いうまでもなく、日蓮が法難にあった際、この地の領主に保護されたのが基になって建立されたお寺であります。12:50

■中山から西船橋
●葛飾湧水群「二子藤の池」
 法華経寺の先右側は、二子の地というそうで、このあたり湧水が湧く池が多くあり、生活用水や茶道に使われた名水もあったという。ここの池は藤の木が屋根のように覆い、二子藤の池といって親しまれた。
  武蔵野線手前の国道の真ん中に分離線替わりに●松の木が数本立っている。船橋西部の旧葛飾地域は、かっての海岸線の面影を残す松の木や寺院が多く残っているといわれている。

■西船橋から船橋
 JR武蔵野線のガードをくぐって進み、●海神交番前の分岐で国道から分かれ左の道を進む。総武線の下をトンネルで抜けて、・・・右から合流してくる細い道へ入ると、海神念仏堂と観音堂がある。・・・・ということを忘れてしまい、通り過ぎてしまったことは残念なかぎり。
 船橋本町の手前で、少しばかりの枡形のように、国道が曲がっている。そこを過ぎると船橋宿の中心地に入る。本町2丁目あたりは新地と呼ばれた場所で、かつての遊郭であった地域。●西向地蔵尊という小さな祠がある。仏像で西を向いているのは珍しいけど、西はずれで、また刑場があったりということで供養のためという意味もあるらしい。  13:55

■船橋から大神宮
★船橋宿
 船橋は家康が鷹狩りに使用した御成街道や、佐倉・成田街道、上総、行徳街道などが集中する所であったので、宿場として大いに発展し、江戸後期には旅館数が30軒もあったという。幕末には「市川・船橋戦争」と呼ばれる新政府軍とと撒兵隊(さっぺいたい)との戦いでほとんど焼失させられた。旧宿場の痕跡はほとんどないと思うが、2軒ほど通りを挟んでほぼ向かい合うように建っている。北側が●森田呉服店。南側が●広瀬直船堂という和菓子屋さんで創業が安政年間。        14:11

 ●船橋
 海老川に掛かる橋の名前であるが、昔はもっと川幅が広く、流れも急だったので、橋を架けるのが困難で、川に船を並べて板を渡し、橋代わりに使ったのが船橋の地名の由来とされる。以前東金街道を歩く際には気づかなかったが、橋の真ん中が●船橋の形になっていて、船橋の形を感じさせることができる。道は船橋大神宮の所で二股に分かれ、左方向が成田街道、右へ行けば千葉へと続く、房総街道である。

●船橋大神宮
 意富比(おおい)神社とも呼ばれた下総一の宮。創建は古く、景行天皇の御代、日本武尊が船橋に到着した折り、東国平定の祈願をしたのが由来という。境内には明治12年に建てられたという。
●灯明台

がある。木造3階建てで、高さ12m下が和風で3階が洋式という和洋折衷型の灯台。今では海岸は遠方になってしまった。また木が邪魔して写真も撮れないくらいで、灯台の面影はない。 14:20

■大神宮から成田街道入口
●宮坂
 大神宮の北側の坂を上がって行く。ここ「宮坂」は戊辰戦争で政府軍と撒兵隊とで衝突して激しい戦いが繰り広げられた場所であった。政府軍の砲撃で神宮が炎上させられてしまったりした。
 街道を東へ真っ直ぐ進みます。この道は家康が鷹狩りに使った道で、東金まで真っ直ぐ進む、「東金街道」となっている。やがて前原西交差点の成田街道入口の丁字路に出る。 14:50

  この分岐点左角に●「左 成田山道」と刻まれた、高さ2.5m程の道
が建てられている。明治12年5月とある。輪宝を乗せてあり、立派なものである。以前通った時は何か、建物があったが、壊されて駐車場になっている。左折して総武線を越えしばらく歩き続けます。
●御嶽神社
 前原駅を過ぎた所にあります。あんまり外のHPでは紹介されてないみたいだが、参道が長く美しい。溶岩の上に狛犬が乗り、なんとなく山岳信仰のような雰囲気を感じます。 15:25

■成田街道入口から薬園台
 通りの右手に立派な●長屋門が現れました。薬円台に入って来ます。しかしバス停などは「薬園台の名前が使われている。理由はよくわからないが、簡略しただけという説もある。江戸時代に「丹羽正伯(にわ しょうはく)」という本草学者が幕府の命令で、「滝台野」と呼ばれていたこの地に30万坪の薬草園の管理をしたのがこの地で、薬園台という名の由来ということになっている。船橋市立郷土資料館の駐車場の奥に、●「明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之処の碑」という碑が建てられている。明治6年この付近で近衛兵の演習が行われ、明治天皇が臨席して見物した。演習が終わった後しばらく経って、天皇自らこの演習地を「習志野ノ原」と命名したのが、現在の習志野市の由来となっているとのこと。
    15:57

■薬園台から習志野
 習志野ノ原」は昭和20年まで陸軍演習地として使用された。その後、陸上自衛隊に受け継がれ、街道の右側には●習志野駐屯地、習志野演習場とが延々と続いている。元々江戸時代には、このあたり、前原から薬円台にかけては広大な原野が広がっていて、幕府が設けた小金牧の一つで下野牧という馬の放牧場があった所であった。16:22

■習志野から八千代緑が丘
 新木戸交差点角に●「血流地蔵道」というすごい名前の道標が建っていた。真ん中はセメントで補修されている。この交差 点から北方の吉橋にある、貞福寺本尊とされる血流地蔵を案内する道標で、享和3年(1803)、江戸深川の人たちによって建てられたもの。側面には「右江 成田 左江 江(戸)道」と刻まれているらしい。
  さて、この先時間も中途半端で、駅から遠くなるので高津交差点を左折、東葉高速鉄道・●八千代緑が丘駅から帰ることにした。 16:48

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