美濃街道を歩く1
        (宮宿~国府宮)
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 熱田神宮-金山-大須-伝馬通-四間道-樽屋町-枇杷島-新川-清洲-六角堂-小沢    23.7km
 

  美濃街道
 美濃街道は東海道宮宿と中山道垂井宿とを結ぶ脇街道です。江戸時代は五街道に準ずる重要な街道として幕府の道中奉行が支配した付属街道の一つでした。東海道の鈴鹿峠、七里の渡しや中山道の急峻な山道を避けて通行できることから、将軍上洛や、大名の参勤交代、朝鮮通信使や琉球使節などに利用されました。総距離は、約14里(57km)
 その間に名古屋、清洲、稲葉、萩原、起(おこし)
 墨俣、大垣宿と七つの宿がありました。
 参考資料
 「歴史の道調査報告書 美濃路」(愛知県、岐阜県)
 「Network2010 名古屋をとりまく歴史街道 美濃路 外


 2020年2月5日  ※ 写真をクリックすると拡大します
■東海道・美濃路追分~熱田神宮南
 前日に以前から気になっていた、名古屋市緑区の田坪の桶狭間古戦場跡を見て回って、「エクセルイン熱田」ホテルに泊まっていました。 本日から2泊3日で美濃路を歩きます。ホテルの真ん前が東海道ですぐ左手が本陣跡。 真っ直ぐ西へ向かうと●東海道と美濃路の追分にぶつかります。右手に案内板と道標が立っており、案内に書いてある、●宝暦8年の道標が手前10m程の右手の民家の庭先にありました。 ここを右へ折れるのが美濃路で、真っ直ぐ進むと熱田神宮の鳥居にぶつかりますが、真っ直ぐは行けず、国道1号線の横断歩道を渡らないといけません。横断歩道を左へ折れてちょっとの寄り道。 国道247号の左手、ちょっとばかり奥まった所に●景清社というのがあります。案内板  景清は平家の侍大将忠清の次子で平家没落後この地に隠れ住んだと言われる。
 7:45

 ■熱田神宮南~白鳥陵
●熱田神宮にぶつかって左へ曲がります。熱田神宮は三度目で有名な神社だし、今更紹介するまでもないと思うので、このまま●神宮の西側(国道19号)を北上することになります。金山駅までは佐屋街道と同一の経路で、一度歩いています。 今回はその時寄らなかった場所を寄って行こうかなと思います。少し北へ行った●誓願寺は源頼朝生誕の地で、頼朝は父義朝と熱田神宮宮司の娘の子としてこの地で生まれている。寺の門だけは立派に立っているのだけど、裏は空き地で駐車場、本堂はその奥にコンクリート製で再建されている。
 その西北、堀川に架かる御陵橋脇から右手奥に入った所に●白鳥古墳があります。ちょっとわかりづらく、「法持寺」横の白鳥公園から回り込んだ方がわかりやすい。 昔は熱田神宮が管理しており、社伝では日本武尊の陵としているが、尾張氏の首長墓と考えられているようです。 8:20

 
 ■白鳥陵~金山神社
  白鳥古墳の北方、●断夫山古墳があります。ここは日本武尊の妃宮簀媛(みやずひめ)の墓という伝説があり、ここも昔は熱田神宮が管理していた。 尾張国造の娘だった宮簀媛は武尊が伊吹山の荒ぶる神を退治する為に向かった際、草薙剣を預けられる。その神剣を祀ったのが熱田神宮だといいいます。大体古墳は横から見ても小山にしか見えず。真ん中のへこんだ部分を撮ってみました。
 街道に戻り、左手●青大悲寺の地蔵堂には室町時代の●鉄地蔵菩薩があります。 その先「新尾頭」交差点手前に●熱田神宮第一神門址石碑がありますが、表題が国道の方を向いており、あぶなくて写真が撮れません。 交差点から右手に行った所に●金山神社があります。金山彦命を主祭神として金属関係の祖神を祀り、金山の地名の由来になっていると思います。  9:00

 ■金山神社~東本願寺名古屋別院
 次は●金山新橋南交差点で、佐屋街道との追分になっており、●追分道標と案内板があります。「東 右 なこや 木曽 海道」、「西 右 宮海道 左 なこや道」「南 左 さや海道 津しま道」、「北 文政四辛巳年六月 佐屋旅籠屋中」と、ぶっとく彫られています。 佐屋街道は、ここを左折して県道115号に入り、美濃路は直進します。 
 次の「古渡町」交差点手前付近に古渡一里塚があった。というが何もありません。 交差点から右手に行くと●東本願寺別院がありまして、真宗の本堂はどこも大きいが、境内左手に●「古渡城趾」と書かれた石碑と案内板があります。 織田信長の父信秀が天文11年(1542)頃東方の今川氏に備えるためここに築いたという。天文17年に末盛城に移り、廃城になっている。9:25

 ■橘町入口~大須観音
 「古渡町」交差点にから北へ向かい、すぐ先の二股を右へ曲がり、「橘町」へ入ります。 ここは名古屋城下南縁に位置し、尾張二代藩主光友が橘町と名付けた場所で、熱田と名古屋の中間点、名古屋の南の境界として●橘町大木戸が設けられていた所。その大木戸の柱が目印として立っていますね。
 「橘町」信号を右手に入って行くと、●栄国寺があります。ここは隠れ切支丹ゆかりの寺で、元々この付近は千本松原といわれた刑場があった所で、多くの隠れ切支丹が処刑されていた。 その後二代藩主光友は刑場を土器野新田に移し、その跡地に菩提を弔うため清涼庵を建立し、後寺号を栄国寺と改めた。境内に切支丹塚や、切支丹遺跡博物館などがあります
 その先「門前町」交差点を過ぎて、左手に●西本願寺西別院。 東京の築地本願寺と同じような古代印度中天竺様式の建物で面白い。 「大須」交差点を過ぎると、有名な●大須商店街の赤い屋根の門に赤い大提灯が架かっている所へやって来ます   9:50

 ■大須観音~札の辻
 ここは左へ曲がって大須観音へ行かねばならないでしょう。 ●大須観音は正式には「北野山真福寺宝生院」という。 赤い派手な伽藍が並びます。発祥は後醍醐天皇が尾張国長岡庄大須郷(いまの岐阜県羽島市大須)に建立した北野天満宮で、元弘3年に現在の寺号に変更。慶長17年(1612)家康の清洲からの名古屋城移転に伴い、移転してきたといいます。
 「若宮大通本町」交差点で、長い歩道橋で渡ります。名古屋は道路が広いせいか、やたら歩道橋が多く、交通弱者にやさしくない感じ。 今回の美濃路も歩道橋を結構渡りました。右手に●若宮八幡社があります。祭神は仁徳天皇・応神天皇・武内宿禰。武内宿禰というのが珍しい。名古屋の総鎮守です。創建は大宝年間だが戦国時代の戦乱、先の大戦の空襲により焼失しているが、昭和32年に復旧している。
 その先、名古屋城城下に入り、道路が碁盤の目のようになっている。これは清須から移転して名古屋城を造ったときの町割りによる  ようだ。 国道19号、「桜大通」の1本手前、●「伝馬町通本町」交差点を左へ曲がります。ここが札の辻と呼ばれ、名古屋宿・高札場があった所ですが、痕跡は全くありません。
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      名古屋宿は慶長18年(1613)に設置され、現在の伝馬町本町交差点あたりが宿の中心となっていた。
      本陣や脇本陣は置かれなかったが、高札場や伝馬会所が設けられた・・・・。   10:30

 ■札の辻~堀川・中橋
 左折して、●伝馬通に入って、右手方向に桜天神社があるのだけど、ビルの向こうで行けないので、先の方から大回りして行くと、桜通沿いのビルの奥に●桜天神社があります。織田信秀が那古野城中に祀ったものを天文7年(1538)現在地に移したという。ここに時の鐘があったようで、●小さな鐘楼が復元されている。
 伝馬通を真っ直ぐ進むと、堀川に架かる●伝馬橋を渡ります。名古屋城移転に伴い、福島正則により堀川が開削された。その堀川に架けられた7橋の一つがこの伝馬橋である。西国大名や旅人が名古屋を通る時は皆この橋を渡り、名古屋で一番賑わった橋だったそうだ。 現在橋の工事中で川の様子を見られなかったので、右折した先、中橋から●堀川を覘いてみました。堀川は名古屋開府に際して、建築資材運搬用の運河として伊勢湾から名古屋城付近まで開削されたという、名古屋開発上重要な川だったといいます。  10:52

 ■四間道(しけみち)~
  ●中橋通の美濃路の1本左を北上する道は左手に●浅間神社があり、四間道(しけみち)といいます。この四間道の北側一帯は、江戸時代の初め名古屋城築城とともにつくられた商人の町として、昭和61年に名古屋市の街並み保存地区に指定された。 商家造りや蔵造りの建物が建ち並び、江戸時代の雰囲気を味わうことができます。入口に案内板があり、様子がわかりますが、全部見て回るヒマはないので、道の両側を見るだけにします。四間道の名前は元禄13年(1700年)の大火で1600軒余りが焼失し、中橋から五条橋までの道幅を4間に拡張したのが始まります。 ●四間道へ入ると、●左手に連続した商屋風旧家が並び、●右手は蔵づくりの建物が並びます。右の蔵は1本右手が美濃路なので表側が美濃路へ面し、四間道側は裏手になります。旧家はカフェ、雑貨店になったり、蔵はレストランになったりで、見て回るには楽しい所。
10:56

       ~幅下2丁目
 ●左手の旧家。 左手奥に入ると●屋根神様といって、屋根にお堂が造ってあります。津島神社・秋葉神社・熱田神宮を祀っている
 案内板 案内には名古屋独特のものであるとあります。
 五条通へ出て、折り返し右手の美濃路の方へ戻って行くと、●豪壮な伊藤家の屋敷が建っています。伊藤家は江戸時代には尾張藩の御用商人を務めた大店で、先祖は慶長19年(1614)に大船町に移住した清洲越商人で、茶屋町、松坂屋の伊藤家と区別して、川伊藤と呼ばれ、現在の伊藤家は、その分家にあたります。 そのまま北上して、●幅下2丁目交差点を左へ曲がります。   11:10

 ■幅下2丁目~榎白山神社
 その先の美濃路は幅下小学校の校庭を横切っているので、手前を曲がり、「延命地蔵」を右に見ながら進み、●幅下公園の北側へ続く旧道へ出て、国道22号を横断歩道で渡って、3本目の道を左折します。 すぐ右手は名古屋城です。
 左折する道ですが、枇杷島まで延々と真っ直ぐ続きます。●都心環状線をくぐる手前が江川一里塚跡で、案内板があると思ったけど、見つからなかった。 くぐった先が●樽屋町大木戸跡。 「美濃路でつながる西区」という案内板がありました。
 その先、●派手に飾られた白山神社があり、前の壁に「美濃路の信長」と書かれた案内板があって、・・・織田信長は1534年、今の名古屋城の二の丸跡にあった那古野城で生まれた。21歳で清洲城に移るまで、このあたりを駆け回り、清洲城に移った後、1560年桶狭間の戦いに出陣、この白山神社で戦勝を祈願し、凱旋したのはこの街道である・・・・と  11:50

 ■榎白山神社~枇杷島橋
 その先右手に●清音寺があります。説明板 保元の乱の藤原頼長の子である太政大臣藤原師長とこの地の村長の娘との悲しい物語が残り、この地の「枇杷島」という地名の由来となっているという。
 その先、庄内川に突き当たり、土手に沿って左折します。正面に●常夜燈と「美濃路」の石標があり、土手に上がると、工事中で、黒龍神社という真新しい神社がある。 
 ●庄内川には現在の枇杷島橋の少し上流に橋が架けられていたといわれ、今は現在の枇杷島橋を渡ります。 対岸は「清須市」。 このあたりに美濃路が通ると、野菜市場が開かれて青物問屋が集まり、 江戸の神田、大坂の天満と並ぶ日本三大市場として栄え、その経済の繁栄は 「西枇杷島まつり」で曳かれるの山車の豪華さに象徴されるという。
 土手の右手へ下りて行くと、●男性が大根を担いだ石造が立ち、前に道標が立っている場所がある。  案内板には「この道標は文政十年(1827)旧枇杷島小橋のたもとに建てられたものです。」と書かれ、「東 にしハつし満てん王 きよす宿 みち」、「西 飛がしハとうかゐだう なごや 道」、「南 文政十年 丁亥七月吉日」、「北 い王(わ)くら 道」と、深く刻まれています。  12:17

 ■枇杷島橋~文造寺交差点
 JR交差を越え、●問屋街へ入ります。道を挟んで旧商屋風な建物が並び、古そうな看板など趣深い町並が続きます。右手に●問屋記念館がある。山田九左衛門家を移築したもので、奥が住居で全面が店舗部分という縦に長い様式。案内板 この建物は、明治の早い時期に建てられ、江戸期の様式を伝える価値の高い建物で、明治24年の濃尾地震の被害を免れた数少ない家屋の一つという。
 その先右手に●格調の高い旧家。 右手の●屋根神様が乗る建物は一休庵といって休憩所になっているが、金土日の営業で今日は閉まっていました。 12:40

 ■文造寺交差点~新川橋西
 その先、もう1軒休憩所があって、同じように屋根神様が乗っています。●「飴茶庵」といって、こちらは営業中でした。寄らなかったけど。 右手に●瑞正寺がある。このあたりには尾張藩刑場があって、処刑者を供養する南無妙法蓮華経と刻む巨大な石塔と、尾張藩刑場址碑があります。 尾張藩刑場は「江戸時代この地より約百米北の地に尾張藩刑場が置かれていた」とあるので、北の方に行ってみたが、特に何も残っていません。
 瑞正寺の先、新川橋渡ると、左手に●ポケットパークができていて、●「左 つしま道」と刻む道標や大正2年の新川橋親柱「新川開削頌徳碑」美濃路の歴史の案内板などが並んで参考になります。また対面の銀行には新川開削の際、本陣が置かれた跡という看板が壁に架かっています。 13:00

 ■新川橋西~五条橋
 名鉄の踏切を渡った先、●小さな石橋が架かっている所の先、左手に●「みの路 一里塚之趾」碑があり、宮宿から3番目の「須ヶ口一里塚跡」になります。 その先正覚寺の参道入口に、先ほどの石橋が架かる用水を●改修した時に掘り出された自然石の道標が置かれていました。 その先は突き当りを左折し、県道127号を右折する。いわゆる枡形で、清洲城下南端といいます。 名鉄の高架をくぐり、次の●分岐は直進します。右の松の木はこのあたりが松並木だった名残の松。 真っ直ぐ進んで●五条橋を渡ります。この五条橋は名古屋宿の堀川に架かる五条橋の本家にあたり、1610年の清須越で城とともに、材料ごと名古屋堀川に移されていってしまいましたという。 13:47

■清洲公園~旧清洲宿
 五条橋を渡って右折すれば、清洲宿だけど、右手が清洲公園で、清洲城跡地が整備されて公園になっている。公園は東海道本線、東海道新幹線によって分断されており、南側の方に●織田信長公銅像と、濃姫の像があり、●北側の方に「清洲城跡碑」があります。 清洲城は慶長15年(1610年)徳川家康によって行われた清須から名古屋への遷府により、名古屋城築城の際の資材として利用され、慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことをもって廃城になった。 「清洲公園」から五条川に朱塗りの欄干の橋が架かり、その先に現在の●清洲城天守閣がそびえている。平成元年完成の、いわゆる観光用のお城です。  公園の中を通って●清洲宿へ出ました。  14:12

■旧清洲宿~総見院
 左手の情緒ある門があり、●「美濃路清洲宿本陣跡」です。「明治天皇御駐蹕之所」という石碑もある。案内板 
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  清洲宿  元和2年(1616) 一場桑名町に置かれたが火災に遇い、ここに移された。 本陣1 脇本陣3 旅籠21
                  本陣は林家が勤めていた。
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 清洲宿は本陣跡くらいしか旧蹟がなく、先に進みます。JR線高架、名古屋高速高架をくぐり北上。左手角に●石仏やらが沢山残る無住のお堂の所を左折し、次の●三叉路を右折します。ここは両側に黒塀の旧家があって、趣がある。
 左手に本成寺、右手に光遠寺を見ながら進むと、稲沢市との境界が入り組んでいる所を通過します。その先、左手奥に●総見院があります。門前に「織田信長公由緒地」という石柱がある。 案内板には・・・「清洲城主時代の織田信雄が父信長の菩提寺として、桑名大嶋の安国寺を引取り、総見寺を建てたのが始まり。清洲越しで名古屋大須に移った後、1644年、総見寺第三代和尚の隠居所を兼ねて、尾張藩祖徳川義直が清洲の旧地に総見院として建てさせたものである。信長、信雄、義直の位牌や、信長、義直の墓碑を祭る。本能寺の変直後に信雄が探し当てたという信長着用焼兜が保存されている。・・・とあります。 14:35

■総見院~六角堂東町
 その先、左手に「美濃路公園」があり、公園の中に「美濃路の由来」という案内板があります。その先、左手●長光寺の門前●四ツ家の追分道標がある。鉄枠で補強され、痛々しいが「右 ぎふ道」「左 京都道」「文政二年己卯」という文字が読めます。この道標は250m位先の岐阜街道と美濃路との追分に立っていたが、ここへ移転されたもの。
 長光寺の境内に立つ●地蔵堂(六角堂)は珍しい六角形の銅葺き屋根を持つ建物で国指定重要文化財。 その先、左手見事な旧家風建物は
●「京屋伊助」
という酒屋さん。    14:50

■六角堂東町~国府宮一の鳥居
 突き当たりを左に曲がって、県道136号に入り、すぐ右手に進むのが岐阜街道。ここが「四ツ家追分」で、角に●四ツ家追分という石碑があります。「下津、一宮、黒田を経て岐阜へ向かう鎌倉街道、後の岐阜街道と稲葉、萩原、起を過ぎて垂井へ向かう美濃街道との分岐点である」と彫られています。 すぐ先●東海道本線の踏切の手前あたりが井之口一里塚跡であるはずで、看板は・・と探すと●右手の空き地に看板が立っていて、文字は消滅してわからず。・・・「美濃路 井之口一里塚跡」と書かれていたはずのもの。
 その先、しばらく直進して「井之口大坪」信号を通過。 次の信号を右回りに曲がって、県道が左に曲がる1本手前を右折します。右折してすぐ右手に●長束正家邸址の石碑が4基立っています。 その先は稲沢市立病院で街道は切れてしまっているので、県道を迂回して進み、名鉄名古屋本線の踏切の手前、右手に●大きな尾張総社国府宮一ノ鳥居と常夜燈があり、参道が真っ直ぐ延びている。「国府宮はだか祭二月六日 木曜日」の大きな看板が立ってました。二月六日とは明日のことで、こりゃ残念・・・と思いました。 どうせ今日のホテルは一宮駅前で、国府宮駅から乗るので、後で寄ってみようと思いました。   16:00

■国府宮一の鳥居~小沢3丁目西
 街道は線路を渡り、保育園の所を右斜めに進み、●「曙橋北」信号を通過。  県道65号を越え、しばらく進んだ●右手に看板が見えるあたりが「小沢一里塚跡」で、案内板が立ってます。右側の木製案内板も文字が無くなって読めないが、「稲葉一里塚跡」と書かれていたはず。愛知県歴史の道調査報告書にも「稲葉宿一里塚跡」とあって、どちらが正しいのだろうか。地名は「小沢」なのだけど、もう稲葉宿に入っているのかもしれませんね。 ●小沢3西交差点で本日は止めにして、国府宮周辺を探索に向かいました。ホテルは国府宮周辺がすべて満員で、名鉄一宮駅前しか空いていなかったです。 16:10

■国府宮周辺
 まず、尾張国衙址を見つけようと思って、それらしき所へ近づいたら●尾張国衙址→」の案内表示がありました。矢印の示す方へ行って、あたりをぐるっととひと回してみたが、案内板などそれらしい形跡がなく、よくわからなかった。(後で調べたら、松下公民館という所の隣に石碑が立っていたらしいです。そばまで行ったはずなのに残念でした)
 すぐ右手に●赤染衛門歌碑公園(百人一首 歌人 衣かけの松跡)という赤い看板が立って、小さな公園があります。園内に●赤染衛門と●夫の大江匡衡二人の歌碑が建ってました。 説明板 大江匡衡が尾張国守に任命された際、赤染衛門も稲沢の地を訪れている縁で、稲沢市が造ったもの。
 「国府宮」駅の手前に●尾張學校院址の石碑がある。案内によると・・尾張の国司として赴任した大江匡衡(952~1012)の業績の中に、尾張学校院の再興がある。学校院は儒教の地方への教化と官吏養成や人材登用を目的として、国ごとに設置された。尾張国では、松下の地にあったと伝えられる・・とあります。  16:35

■尾張大国霊神社
 線路の向こう側に●尾張総社である尾張大國霊神社(国府宮)の石造り鳥居が立ち、明日のはだか祭りの為の出店の準備でごたごたしてました。左手に●檜皮葺の見事な楼門があって、くぐると●拝殿で、同じく檜皮葺切妻造り妻入。両方とも重要文化財。祭りの準備で忙しそう。
 ●鏡餅が沢山奉納されていて、この餅を食べると無病息災の言い伝えがあり、多くの参拝者が買い求めますとのこと。
これで本日は終了。泊まりは尾張一宮駅前の「ABホテル」でした。 16:50

       2 国府宮~墨俣