例幣使道歩き旅 3
    (太田~佐野まで)
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 太田駅-追分地蔵-矢場-新宿-堀米薬師-八木-鳥居駅-梁田-元三大師-寺岡-中橋-佐野   21.8km
 

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 2014年5月17日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■太田駅~追分地蔵堂
 9時過ぎ、東武太田駅到着。駅前に●新田新田義貞と弟の脇屋義助の銅像が立っている。太田は新田一族の所領になる所、という由縁であろう。義貞は後醍醐天皇の挙兵に応じて生品神社で挙兵し、鎌倉上道を一気に鎌倉まで突入して鎌倉幕府を滅ぼした。
 前回の高札場のあった●東本町十字路から例幣使道3回目を始める。佐野まで行く予定。東へ進むと左手は富士重工の広い敷地が延々と続く。町名もなんとスバル町という。「富士重工前」を過ぎると、道幅が狭くなり、左手に●地蔵堂があり、●追分地蔵と右隣に●道標がある。「右 たてはやし道 左 日光道」とあって、右へ行くと館林へ向かう。左は日光で、すなわち例幣使道である。すぐ左へ向かうのだが工場のため、道が消滅しているので少し前方の「新島町」交差点を左に行く。    9:20

 
 ■追分地蔵堂~国道122号
 「新島町」交差点を曲がって●真っ直ぐな道を進むが。鶴巻川を渡った先左手に小さな地蔵堂がある。左手南盛寺あたりで道が右に曲がって、旧道はこのあたりから復活しているのではないかと思う。
 曲がった所に水路があり、左手に●日光例幣使道馬洗い場跡の碑がある。 昔は雨が降ればドロドロになるので、この所で馬を洗ったのだろう。その先左手に●地蔵堂がある●中の地蔵は座像か上半分かで、顔はほぼ摩滅してわからず、やや猫背な感じ。
  9:40

 
 ■国道122号~矢場交差点
 国道122号を横切り、すぐ県道128号を越えると、「鳥居のない神社」という標柱が見え、●賀茂神社という。入口左手に●鳥居の無い由来碑があって、前に救命犬座像が立っている。由来碑には・・・例幣使の行列が鳥居の下で休んでいる時、犬が激しく吠え立てたので、家来が切り捨てところ、犬の首が鳥居の上の大蛇にかみついた。犬は例幣使を蛇から守ろうとしてほえていたことがわかった。事情を知った例幣使は帰りに塚を築いて手厚く弔ったという・・・・。 しばらく進んで、●変則四差路に出会うが、ここは左手の細い方を行く。真ん中は書店で、新しい道標が立って、「日光例幣使道 台之郷の辻」と、隣の道標には「東 福居佐野道  北 丸山桐生道」などとある。住宅街を行くと又県道128号線に合流する。 県道を左折して1km程進むと●矢場の交差点に到るのでそこを左折する。    9:54

 
 ■矢場交差点~新宿町
 左折してしばらくき、●プリントフジという会社のある所を右折する。細い道に入って行く。 左手に●●日光例幣使道 この先「桜山」跡」と書かれている新しい石柱が立っている。桜山の説明がないのだが、桜で有名なお山でもあったのかな・・と思ったりした。  群馬県と栃木県の県境を越え、下野国に入った。矢場川郵便局の先左手に●八坂神社がある。鳥居の左側に「村社八坂神社」と書かれた石柱があるが、その台座は道標になっていて、「東 佐野 福居道 西 太田 伊勢崎道 」と書かれている。 
  10:40

 
 ■新宿町~堀込薬師
 県道128号の新宿町交差点を左折するが、交差点正面に●旧例幣使街道 新宿の辻と書かれた木札がある。土台になっている白石はなんかカッパの様な顔をしている不思議な石だ。残念なことに文字が摩耗して読みにくいが、なんとか・・・・「ここは例幣使道と館林道の分岐点で、その道標であった辻地蔵は、北約百メートルの勢至堂脇に残されている」・・・・と読めた。
 県道を少し行った左手にった左手にさっきの木札に書かれた●勢至堂があり、その脇の●地蔵の台座は道標になっており、「右ハたてばやし道 左ハさの道」と書かれている。どちらも県道を造る際に移されたものであろう。
 その先、矢場川を新宿橋で渡る。 しばらく行くと左手に宝性寺(堀込薬師)がある。入口すぐ左手に●堀込源太墓〈一番奥)」がある。八木宿の飯盛女が口ずさんでいた唄が八木節となり、これを全国に広めたのが初代堀込源太だという。手前の墓は源太末娘の長田義子の墓。また右隣に珍しく●六角地蔵もあった。   11:06

  ■堀込薬師~八木宿
 ●八木の町並みに入る。手前の郵便局から東武鉄道福居駅への入口辺りまでが八木宿だったが、昔の面影はあまり残っていない。昔は宿内に合計8本の松があったので八木と呼ばれ、文化・文政(1804~29)頃には繁昌し、旅籠屋総数95軒中32軒は飯盛女をおいていた。木崎宿同様越後から来た女が多く、越後に伝わっていた口説き唄が入って、のちの八木節の源流になったようである。明治に入ると、両毛線や東武鉄道の開通でむしろ足利の方が繁昌するようになった。一時は、八木と梁田の遊女屋が八木の北の栄町に集められて昭和10年代までは賑わったといaう。
 宿入口左手の●荒物店寺山商店が「八木宿本陣跡」。途中右手に●八木宿碑が立ち、碑の後ろに八木節会館がある。その先左側、昔の面影を良く残している木造の建物の●島岡印刷所は女郎屋跡だと云われている。   11:30
 八木宿
 昔は宿内に合計八本の松があったので八木と呼ばれ、文化・文政(1804~29)頃には繁昌し、旅籠屋総数95軒中32軒は飯盛女をおいていた。彼女たちのふるさとの越後に伝わっていた口説き唄がのちの八木節の源流になったようである。 明治に入ると、両毛線や東武鉄道の開通でむしろ足利の方が繁昌するようになった。一時は、八木と梁田の遊女屋が八木の北の栄町に集められて昭和10年代までは賑わったという。 
 本陣1 旅籠19

 
 ■八木宿~福居
 左手に母衣(ほろ)輪神社がある。母衣とは甲冑の後ろにつけて、馬で駆けると風をはらんでふくらみ、背面からの矢を防ぐ役割を果たした武具の一つ。。倭建命が東征の折この地に駐屯され、武具(母衣)を奉納し天地地祗を祀り武運を祈願した神社と言い伝えられる。境内の●イチョウとクスノキは天然記念物に指定されている。その先右手の穀物・雑貨を扱っていた●大黒屋は元庄屋ということだが・・・・・?はっきりしない
 少し先の左手奥に東武福居駅がある。駅向かって左手に●赤レンガのトチセンの工場が広がっている。工場全体が赤レンガ造りで、・・・・外壁と木造の内部軸組からなる広大な工場建築で,6連の鋸屋根を架ける。頂部まで立ち登る柱型と重厚な軒蛇腹とで縁取る妻壁の意匠や,出入口・窓の大きな開口部を一石のまぐさ石で支える手法に特色がある。・・・(文化遺産オンラインより)。
 ●東武線の踏切を越える。宿はこのあたりまで。    11:56

 ■福居駅~梁田町交差点
 踏切を越えて行くと左手にある公園の一画に●スラッとした美しい地蔵供養塔とその後に石仏群があった。その先は水田の広がる上渋垂町の道が続く。、やがて●二股となるが、その分岐点に大きな庚申塚があって、その前に●新しい道標がある。「東 梁田ヲヘテ 佐野方面ニ到ル」と読める。やがて●「梁田町」交差点に到った。   12:17

 ■梁田町交差点~梁田宿
 交差点を右へ行き、●コンビニの所を左折する。今井本によると、手前右手は中山氏宅で昔の遊女屋で連子格子が目立つとあるが、建て替わっているようで表札がわからなかった。
 左折すると●旧梁田宿の町並みである。車も通らないような静かな落ち着いた町だけど、昔の風情はあまり感じられない。右手には連子格子の二階家だった五十部氏宅があるというが、ここもわからず。
 左手に●「旧日光例幣使街道梁田宿」と書かれた新しい石碑が立って、その奥に●長福寺がある。梁田宿において、慶応4年(1868)中山道を進んだ官軍と幕軍との間で戦いが起こり、幕軍が100名以上の死傷者を出して敗退したという梁田戦争が起きている。このときの遺体は渡良瀬川畔の戦死塚に葬られたが、その戦争碑は明治末年に長福寺に移されたという。その●戦争石碑は境内の左手に立っていて、その奥に●東軍戦死者追弔碑が建っていた。
 寺の先に元郵便局長荒井氏宅があり、その向かい辺りに本陣があったというが痕跡がない。荒井氏は大きな地主らしく、荒井という表札があちこち架かっている。まもなく渡良瀬川に突き当たって宿は終わる。      12:50
 梁田宿
 梁田宿は、渡良瀬川を控えているのでアイヌ語で舟着場を意味するヤンタから転じた名という。宿場としての登場は、明和3年(1768)、八木とともに飯盛女で評判だった。明治以後も町の半数以上が女郎屋であったが、八木の北の栄町の遊郭に統合された。また東武鉄道敷設の折に梁田経由に反対して、他の町から隔絶し衰退してしまった。  本陣2 旅籠32 

 ■梁田宿~県道128号
 ●渡良瀬川の渡しはこの辺りから右斜めに川崎橋の方向へ向かっていたようである。河川敷はゴルフ場になっていて川の流れが見えない。堤防を10分程歩いて崎橋を渡る。橋の上からの眺めが良くa。赤城山や、妙義山(?)や浅間山と思われる山が見えた。
 橋を渡り、堤防伝いに左折して行くと、堤防下に●川崎天満宮がある。昔は30mほど南の、堤防になっている辺りにあり、例幣使は、必ずここに立ち寄って参拝、野立を催したという。例幣使の残した和歌の短冊も残されている。その中の一首。 中に天保14年(1843)の綾小路有長の歌。
              「行かえり 旅の願ひも 天満るかみのめぐみを やなだにぞ知る」
 ●土手沿いの道を道なりに東へ向かう。左に曲がると突き当たりの民家の庭先に小さな●半分欠けた地蔵尊と不動尊、すぐ前の公民館脇に石仏群がある。その先は足利東部工業地帯になり、旧道は消滅している。そこで工場の前を左折して●県道128号に合流した。   13:45

 
 ■県道128号~元三大師
 日曜なのかあまり交通量の多くない県道をしばらく進み、出流川を渡った先、●厄除け祈願寺元三大師の大きな看板の立つ交差点で県道と分かれ左に 曲がっていく。
 左に曲がった先に見えるのが●岡崎山古墳群で、ふもとまで来ると●御野立所址と書かれた看板が立っている。昭和9年の陸軍大演習が行われた際に昭和天皇が指揮をとった場所だそうだ。ここを右に曲がって元三大師に寄っておく。古墳のふもとに沿って行くと、●厄除元三大師がある。正式名称は施薬院薬師寺で、聖徳太子の命よって建立され、「下野八薬師」と称されていたと伝えられている。元文年間(1736~)、元三慈恵大師尊影御真筆が寄進され、以来厄除大師として信仰を集めている。  14:25

 
 ■元三大師~寺岡町
 県道に戻って先に進むと又●元三大師看板があるので、ここを右に入って行く。その入口左手高台に●一本松地蔵尊がある。旗川の土手沿いに進み●県道67号と合流する。合流点左手角に●道標が2基ある。左側の大きい方は元文5年(1740)の建立で、正面に「佐野道、右側面に 足利道、左側面に 太田道 」 と刻まれている。右側の小さい方は、寛政3年(1791)の建立で、正面に「日光道 道祖神 佐野道、左側面に 江戸道 館林道」などと刻まれている。例幣使道はここを右に曲がる。曲がってすぐ右手のガソリンスタンドを廃業した風情のクリーニング店が「お休所 山本屋藤吉」といわれた所。     14:40

 
 ■寺岡町~両毛線踏切
 ●寺岡町に入るが、お休み所があって立場の機能も持っていたと云われる。左手に●両社神社というのがある。イザナギとイザナミを祀る(大己貴神、事主神の説もあり)。ここの社殿の彫刻がすごくて見応えがある。
 ●白旗橋の手前を左折するのが旧道となっている。少し進むと左手に地蔵があり、旗川にぶつかる。ここが昔の渡河地点である。渡河地点を確認後県道に戻り、白旗橋を渡ると足利市から佐野市へ入る。旗川土手を左折、●佐野車検整備組合手前の所が渡河地点の対岸で、ここを右折する。15:03

 ■両毛線踏切~中橋
 道なりに進み●両毛線の踏切を渡り、すぐ斜め前方に行く。左手に●佐野市指定文化財「芦畦の獅子舞」の収蔵庫と案内板がある。約700年も前に始まったという獅子舞で、三頭の獅子が町内を練り歩くという。脇に庚申塔などの石仏群がある。同じ敷地に常夜燈がある。「薬師尊」と書かれ、亀の背中に乗っている。
 その先両毛線の「第一足利街道踏切」を横切り、斜め前方に向かう。大橋町歩道橋を越えて、旧道を行くと、●秋山川に突き当たった。左手に●諏訪大明神 帝釈天王 水神宮」と書かれた石碑がある。この辺り、昔猿橋があった所。今は無いので右手の中橋を渡る。  15:40

■中橋~佐野薬師
 街道に戻る前に佐野に来たからには、佐野厄除け大師に寄らねばならないと思い、寄り道しておく
 中橋から南下して行くと右手に●涅槃寺の「日限地蔵」がある。●日限地蔵は人の形をしたお地蔵で、天和2年(1682)、江戸・松秀寺より勧請したもの。日を決めて願をかければ叶うという。
 ●佐野厄除け大師は、正式には惣宗寺という。今は佐野駅北側の城山公園になっている春日岡に藤原秀郷が平将門降伏を誓願して、春日明神の社殿とともに建てたと伝える。佐野氏の新城築城の折、ここに移転したもの。元三(慈恵)大師が祀られていることから厄除け大師として多くの参拝客を集めている。境内右手に●東照宮がある。家康の遺体を久能山から運ぶ途中天明宿に2泊したのが縁で、文政11年(1828)になってから建てられたという。     15:50

■佐野薬師~本町
 街道に戻る前に大町交差点から少し北上した熊野神社に行っておく。小さな神社だが、境内裏手に●出流天狗殉難碑がある。出流天狗とは佐野近隣の農村の若者などが尊王攘夷を叫んで、水戸天狗党に倣って慶応3年(1867)に栃木市の出流山・満願寺などに立てこもった。幕府の鉄砲隊が山を包囲して射殺や捕縛した。捕縛された者は「慶応三年十二月十八日 天明河原で四十一人斬首」されたという。
 街道に戻って●県道67号沿いの天明宿を歩く。宿は秋山川を渡った所から始まる。真っ直ぐ続く街並みには蔵造りの家がちらほら見えて歴史を感じることができる。左手に●古民家が3棟建って、一番右側が味噌まんじゅうで有名な新井屋。昭和4年の創業だが、建物は明治10年頃に建てられた見世蔵で調剤薬局の土佐屋といっていたそうだ。    16:15
 天明宿
 天明は佐野市の中心部にあたる。歴史は古く、天慶の頃(938~47)藤原秀郷が北東4.5kmにある唐沢山に城を築いたのが始め。子孫は佐野周辺を領し佐野氏を称した。第30代信吉の慶長7年(1602)、家康の山城禁令で唐沢山城を廃し、春日岡に城を移したが、この時すでに天明の集落が当時の東山道の宿駅だったという。この佐野氏は慶長19年に改易となり、佐野藩は井伊家領や天領に細分された。 例幣使が宿泊した場所であり、本陣1 旅籠8 宿の大きさに比して旅籠の数が少ない。

■本町~佐野駅
 新井屋の先を左に入った奥に●産土神の星宮神社がある。参道の●銅造鳥居は享保20年(1735)鋳物師棟梁大工職刻銘があり、天明鋳師達が協力して、天明宿総氏子が奉納したもの。
 街道に戻り先に進むと右手●大坂屋は弘化元年(1844)創業の老舗和菓子店。その先群馬銀行の辺りに本陣があり、前に案内板がある。16:25

 街道沿いでは屋根付き看板や黒漆喰の土蔵なども見ることができる。その中で土佐屋や●小沼呉服店が屋根付き看板を 掲げている。この後、ゆっくり回れば色々と旧蹟が沢山あることだろうと思うが、時間も17時に近づいてきたので、ここらで切り上げて佐野駅へ向かうこととした。駅に向かう途中に、●天明鋳物で造られた〈囲まれた)電話ボックスがあった。佐野は鋳物で栄えた町なので、さすがって感じ。上に金色の擬宝珠も乗っている。最後に●佐野駅から帰宅した。佐野駅はJR両毛線と東武線の共用駅となっている。今回は太田、梁田、佐野と旧蹟も多く、面白く歩くことが出来た。  16:40

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