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1白河宿 五街道の一つとしての奥州街道の最終の宿駅であり、青森に向かう奥州奥街道の起点でもあった。白河の歴史は古く、5世紀には古代の白河の関が置かれ、蝦夷に対する押えとされた。寛永4年(1627)には丹羽氏が初代白河藩主として10万石を与えられて白河藩が成立し、その後藩主は煩雑に入れ替ったが、特に有名な藩主だったのが松平定信である。 本陣1 脇本陣2 旅籠35 |
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■国道4号~根田 国道を右へ少し進み、きれいな植木のある所を右へ入ると「大清水」という地名になる。かって江戸時代に以来の飲料水が涌いていた所で、跡あたり に●そば屋さんが立っているのが仲々の風情で辺りに 「上水道紀念碑」や馬頭観音などがいくつか散らばっている。 その先が根田宿だけど、その前に左へ行って国道を渡った所にある●安珍の里へ寄ってみました。娘道成寺で知られる清姫の相手方である安珍の墓にちなむ場所で、高台に●安珍堂が建っています。案内板によると中に安珍像があるらしいのだけど、カギが掛かって見れないので、HP(http://shirakawa315.com/sightseeing/post_324.html)によるとこんな感じ。 安珍の墓そのものはお堂から500m位西ということで寄りませんでした。 根田宿の入口に戻ると右手に大きな●根田醤油合名会社があります。創業200年の老舗。郵便局も兼ねている。 9:40 |
2 根田宿 白河宿から1里。 東側の家続きになっている新小萱村と2村合わせて根田宿と呼ぶ。東西3丁25間。本陣などは無く伝馬も常備されていなかった。 |
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■小田川小~小田ノ里 右へ入ると小田川小学校の先で●農道となり、道なりに進むと国道4号へ出ます。旧道の方は跡形も見えなくなり、国道の切り通しの上に出ていたと云われます。 国道に出てきた旧道は国道を越えて右側へ出て、国道に沿っていたと云われるが、国道から脇へ出ることは不可能で、しばらく国道を進みます。 するといかにも●旧道への脇道入口が見えてくるので、横断して脇道へ上がります。 ここが旧道の最後の方の一部分と思われました。 ●国道に沿った旧道は200m程で再び国道と合流します。合流地点の●小田ノ里交差点を横断して右手に進むとその先が小田川宿になります。 10:27 |
3 小田川宿 根田宿から27丁(2.9km) 小田ノ里とも呼ばれ、白河藩領だったが、一時期榊原領になり、文政3年(1820)以降天領となった。本陣、脇本陣共無く、村の中央部の庄屋宅が問屋だった。 |
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■小田ノ里~八幡前 入口左手に●小野薬師堂があります。 創建は大同年間(806~810)と伝わる古社。 小野小町伝説の地で、・・・小町が故郷である秋田に帰郷する際、小田川付近で病にかかり、薬師如来に病が治るよう祈願したところ、全快して秋田に帰ることができたという。・・・ 境内には戊辰戦争の犠牲者を弔う為の「戊辰戦死供養塔」や二十三夜塔など多くの石仏や石塔がありました。 ●小田川宿の町並み。 宿場の雰囲気は残っていない。人出がないものの門構えのある旧家や白壁の蔵のある旧家などが散在します。中央部左手に大きな屋敷が現れるので、庄屋跡と思われたけれど、案内板も何にもないのでわかりませんでした 宿を出て、「八幡前」というバス停の所に東北自動車道っをくぐるトンネルがあり、そこに「八幡神社入口、岩窟切岸城址」とある石碑が立っています。岩窟切岸城址というのが珍しいと思って、くぐっていった先、トンネルをくぐったすぐ右手に●八幡神社があります。後背地が●垂直の切り立った崖でその上に岩窟切岸城という山城があったのだろうかと思いました。 大岩に浮き彫りされた石仏があったりして珍しい光景でした。 10:57 |
4 太田川宿 小田川宿から13丁 1.4km 宿場の長さは南北350mに渡る。中央部左手に旧検断の家がある。 戊辰の役で全焼している。 |
5 踏瀬宿 太田川宿から20丁 2.2km 全長500m。慶長年間に北の旧地から民家を移住させて成立。 中央部に検断の家が残る。 |
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■踏瀬~五本松 宿の入口左手の●愛宕神社の石段脇に庚申供養塔や二十三夜塔、飯豊山碑などが並んでいる。●踏瀬宿も宿場の面影は感じられない。宿場中程の左手に検断屋敷の「箭内家」があったと云われるのが、よくわからなかった。 宿場を抜けて進むと、左手に「踏瀬旧国道五本松」の案内板が立っていて、その先に●五本松の松並木が続いている。 この松並木は白河藩主・松平定信の植樹に始まり、明治18年ごろに補植したという。 その先「あぶくま高原道路」手前、右手に●卯右衛門茶屋と文七茶屋跡の案内板が立って、脇に古井戸が残されている。卯右衛門茶屋は「馬宿」と云われて、井戸からくみ上げる水が名物で、「丑宿」と言われた文七茶屋は眺めがすばらしく、休み所として繁昌していたと云われる。 12:40 |
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■五本松~大和内 県道283号の十字路から先は明治に開かれた旧国道であるという。 ここら辺りの旧道は右手国見山の中腹を経て急坂を下るルートだったといわれる。 右手の山の中腹辺りを眺めながら、しばらく進むと、矢吹町上水道配水用のタンクが現れた。そこに「戊辰戦争関門跡」の看板が立っていました。 看板の脇に細い石段もあって、上がれそうな感じがしたけど、滑りそうなので止めて、その100m位先にゆるい坂があるのでそこを上がって見ました。 すると●旧道らしき道が現れて、藪こぎするまでもなく進むことができます。ここは旧国道の右手高台を進んでおり、やがて●旧国道の出口に到達しました。すると脇に●大和久宿、旧奥州街道→の案内木柱が立っていて、歩いて来た道が旧奥州街道だったのでした。大和久の方から来るとわかるのだけど、踏瀬側の出入口はどこなのか疑問が残ります。 13:10 |
6 大和久宿 踏瀬宿から23丁2.5km 全長300m。元和年間(1620頃)近くの堀越地区引移して成立。全長300m何度も大火に遇い痕跡は残っていない。 |
7 中畑新田宿 大和久宿から11丁 1.1km 大和久宿からの境目は現在ではわからなくなっている。慶慶長年間蒲生氏の命令で中畑村の民家が大和久村の赤坂に移り宿駅となった。元和6年現在地に移って中畑新田宿になった。 |
8 矢吹宿 中畑新田宿から11丁 1.1km 天正6年(1578)に宿駅として開かれ、同18年に町割りが行われた。 長さ7丁17間(747.5m)。 道筋に宿場の面影は残っておらず、本陣跡の門も現存していたが失われが、慶応創業の造り酒屋や大正の洋館が残るなど落ち着いた雰囲気が残っている。 |
9 久来石宿 矢吹宿から23丁 2.5km 慶長年間(1596~)北西2kmの小栗山にあった民家を移して作られた。道の両側に「西側」と「東側」の字名が残ると云われる。 宿場だった趣は残っていない。 |
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■矢吹~久来石 「鏡石町」に入って、500m程先で●左斜め前方に旧道があり、久来石宿に進みます。 ●久来石宿の町並。 ここも宿の面影が残らず、人気が全く見られなかった。街道を挟んで「東側」「西側」という字名が見られるらしいが、地図では載っていないし、地名表示でもわからなかった。 左手に●旧養蚕農家の様な大きな家が見られた。 久来石ポケットパークに「牧場のあ-さ- という鏡石町公式キャラクターの看板があった。 宿を抜けて右へカーブして、●久来石交差点で国道4号を越え、笠石宿へ向かいます。 15:20 |
10 笠石宿 久来石から13丁 1.4km 慶長年間(1596~)森宿、行方野、細谷、笠石新田の4村がこの地に移って成立した。 |
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002 鏡石-郡山へ |