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2018年11月8日 ■鏡石駅~須賀川一里塚 画像をクリックすると拡大します 奥州奥道中2日目。 最初は●鏡石駅から。●県道を行きますが、昔は行方原と呼ばれる真っ直ぐな道で、奥州街道を踏襲した旧国道(陸羽街道)です。 行方野は前九年の役の際に源頼義と安倍貞任・宗任の兄弟が戦った古戦場の一つと伝えられているという。 左手に●西光寺があります。ここは永禄年間(1560年代)、当時の須賀川城主であった二階堂氏の家臣・鏡沼藤内により建立されたと伝えられる。 ここには「凌煙閣功臣画像」を描いた板絵が保存されていて福島県指定重要文化財に指定されています。 その先国道4号と合流して、旧道は●国道に沿ってから右手に進みます。旧道の一部が残ります。 9:10 |
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■須賀川一里塚~県道355号 目の前に●須賀川の一里塚が現れます。 日本橋からは59番目のもの。説明板 切通しで少し切り下げられているように思います。 その先は国道118号で分断されてしまい横断できませんが、●旧道はその先に続いています。 そこで左折して信号を渡ってから旧道を進むと、今度は東北本線で遮られ、踏切がありません。 国道に戻ってから東北線のガードをくぐり、左折して線路に沿うようにして旧道へ入ると、●県道355に出ました。 9:27 |
11須賀川宿 笠石宿から1里18丁(5.9km)。蒲生氏の時代に城下が再編され、天正18~19年頃から整備が始まった。代官、町会所が置かれ城下町というより宿場町、町人町として栄えた。宿は南から本町、中町、道場町、北町を真っ直ぐに奥州道中が貫き、磐城街道、棚倉街道、三春街道、会津街道が分岐する交通の要衝だった。 俳諧が盛んだったことから、芭蕉は「奥の細道」の旅で8日間滞在しています 本陣1 |
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■並木町交差点~南町交差点 右手の東北電力ビルの前に須賀川宿の出入口である●南の黒門跡の標識が立っている。 番小屋が置かれ朝夕に開閉されたという。 番屋前に鈎の手があったといい、その名残か●街道が少し左へカーブしている。 その先の交差点を横断した右手に●「大町よってけ広場」というのがあって、脇に正面「庚申」、右面「いしか王道」、左面「がんふうじ道」と刻まれた寛政11年(1799)建立の●「追分道標」があります。しかし 説明をよく読むと、・・・元々、この先の本町2丁目の奥州街道と石川道(国道118)との分岐点に建てられたもの・・・とある。 昔の道標とはいえ、こんな場所に移設されていると、誤解を招くようで疑問に感じるところです。 広場の右手奥に●東京オリッピックで銅メダルをとった円谷選手の記念碑がある。 円谷選手は地元大町出身だという。 10:00 |
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★須賀川・本町界隈 ●須賀川中心部・本町に入ります。電線地中化で電柱が撤去されていて、すっきりとした感じ。 左手に●軒の栗庭園という小さな公園がある。松尾芭蕉が須賀川宿に滞在したときに詠んだとされる・・・「世の人の見つけぬ花や軒の栗」・・・の句碑が建つ「可伸庵跡」の前庭として整備した庭園で、その「可伸庵」というのは左へ入った路地にあるようなので、後ほど訪問することにします。 中に芭蕉と曾良や相楽等躬の可愛い石像があったりします 公園を左に入っていくと●須賀川市役所で、左脇の黒い石碑は●明治天皇行在所跡記念碑。 天皇は明治9年と14年に須賀川に巡幸されている このあたりは古い商屋が散在しているようで、市役所前に●八木甚本店。味噌、醤油の店らしいのだが、営業していないみたい。 10:17 |
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市役所の真ん前の大きな商屋は●フジ薬局で、裏手の●派手な蔵も薬局のものらしく、相当に大きな老舗には違いない。 薬局の裏手にあるのが●可伸庵跡。 NTTビルの裏手にあたるが、ビル自体が相楽等躬の広大な邸宅跡いあたる。可伸とは等躬の友人で、等躬の屋敷の一隅に住んでいたと伝える僧の「加伸」(俳号栗斎)のことでその庵跡。 大きな栗の木の下にあったという。 説明板 NTT須賀川ビルの一階に●芭蕉記念館があります。 10:30 |
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★諏訪町界隈 県道を越えて、諏訪町へ。 ●二階堂神社。 ここは須賀川城の本丸があった所。 須賀川城は応永6年(1399)、3代鎌倉公方・足利満兼の家臣、二階堂行続が築城したとされる。 二階堂氏は1589年(天正17)に伊達政宗に攻められ滅亡している。 その少し先、左手から参道が続く●神炊館神社と●社殿。須賀川の総鎮守。 初代石背国造建美依米命とその親・建許呂命を主祭神に祀ります。.「曾良旅日記」にも参拝の記録があるようです。 境内の●天満神社は(岡天神)ともいって、道真と共になんと数学者の岡潔が祀られている。生家を高野街道の紀見峠の所で見た覚えがあるけど、須賀川とどんな関係あるのでしょうかね。 11:20 |
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■諏訪町~釈迦堂川 須賀川の町歩きを終えて奥州道中へ戻ります。 県道に戻ると、交差点の角に●「明治天皇行幸所「須賀川舊産馬會社」標柱がある。 説明板 明治9年東北地方巡行で須賀川産馬会社を訪れたことを記念して昭和10年に建てられた。 次の北町の十字路の右手角に「東堂山及三春道」道標がある。 このあたりが須賀川宿の終わり「北の黒門」があったといわれます。 その先県道は左に曲がってしまい、道中は●右手を直進して、脇道に入り●釈迦堂坂といわれる坂を下って行きます。途中に「岩瀬の渡しの案内板」があった。 ●釈迦堂の渡し跡。 現在は中宿橋を渡ります。 11:45 |
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■釈迦堂川~上人坦 橋を渡って最初の交差点を右に折れると、左手に●鎌足神社がある。落ち葉で滑りやすい石段を上がると社殿がある。藤原鎌足の子孫である関東将軍藤原義定の次男の小次郎義政により建久元年(1190)に創建されている。 その先上人坦にある、上人壇廃寺跡付近までは工場で寸断され旧道は消えて、東北線の先から復活している。 現在はJR東北線を渡線橋で越え、旧道まで脇道を下りて行くことになる。 跨線橋の脇から●旧道が真っ直ぐに復活して続いています。 旧道に入ると左手、宝来寺参道脇に●文化10年(1813)の二十三夜塔などの石仏群があります。 その上髙台の参道を上がると宝来寺(無住らしい)があって、境内に●浮彫阿弥陀三尊来迎石仏というのが並んでいます。 12:05 |
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■上人坦~滑川橋 茶屋池公園の先、右手に●馬頭観音碑など数十基もの石碑、石塔群がまとまっていて壮観。 ここが一里塚とばかり思っていたら、ちょっと違って奥が●森宿一里塚跡だった。盛り土は失われて基壇だけ残っているという。 案内板だけ立っていた。 一里塚跡からは先は左手に工業団地が並び、特に何もなく歩くだけで時間が過ぎた。 柏城小学校の先二手に分かれる真ん中に●筑後塚供養塔群がある。 4枚の板碑と一字一石塔や庚申塔なども横に集められている。 この付近の奥州街道は古代の東山道の道筋でもあったといわれる。 元は柏城小学校前にあったが、 学校建築と道路改修のため、ここに移されたという。 供養塔群の左手を下って行く途中、左側にも廿三夜などの石塔がある。 その先は●滑川橋。 現在、橋の架け替え工事中で、そのせいか奥州街道と明治時代の新道(旧国道)との分岐を示す道標がいくら探しても見つからなかった。 13:02 |
12 笹川宿 須賀川宿から1里28丁(7.0km)。室町時代、足利氏の東北支配の拠点となった笹川御所のあった所。慶長9年(1604)、奥州道中が整備された際に、回りの集落が沿道に移され宿場と定められた。 |
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■東館稲荷~耳語橋 ホームセンター「ケーヨーD2」の先で●旧道は左手の脇道へ入ります。 すると●笹原川に突き当たる。 昔はここに耳語橋(ささやきばし)がかかっていたという。 旧道は対岸の先から続いている様な感じです。 そこで土手を右に曲がり●現在の耳語橋を渡ります。 橋を渡った右手のささやき公園に●耳語橋の碑というのがあります。 耳語橋は安積采女のエピソードと共に歌枕の地となっており、碑の説明によると、・・・天平時代の頃、葛城王が按察使として陸奥に下向の際・・・・ 詳しい説明はこちら・・・・・ 対岸の土手からは旧道に戻れず、「郡山中央交通」の先を左折して旧道に街道に戻り先に進むと日出山宿に入ります 14:50 |
13 日出山宿 笹川宿から18丁(2.0km)。慶長の奥州街道建設により家屋を四日町から日出山に移し、日出山宿を設置した。笹川、日出山、小原田にかけて現在ではほとんど連続して境目がわからなくなっている。 |
14 小原田宿 日出山川宿から8丁(1.0km)。 奥州道中開設に伴って、慶長9年(1604)から慶長18年(1613)に成立したと考えられている。日出山宿とは連続している。 |
15 郡山宿 小原田宿から15丁(1.6km)。中世には交通・経済の要衝となっていた。1604年(慶長9年)に徳川幕府の命により奥州街道が開設され、開村したというのが定説である街道は阿武隈川沿いにあったが、慶長年間(1596年〜1615年)西寄りに改修・整備され宿駅が置かれた。 |
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