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37 大河原宿 金ヶ瀬宿から30丁(3.3km)大河原は江戸時代は宿場の他に、米と特産の紅花の集積所としても賑わっていた。 また明治11年には柴田・刈田郡の郡役所が置かれ、仙南地方の中心であった。 |
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★大河原宿 画像をクリックすると拡大します (前頁からの続き) 如意輪観音堂の前を左折して、●大河原宿に入って行きます。 門構を備えた家やなまこ壁の蔵のある旧家がいくつもあり、街道の雰囲気が残っているので印象深い。 左手に●なまこ壁の蔵造りの旧家があります。 その先、右手にも●蔵造りの立派な家がありますが、この屋敷は「てとてと」という変わって看板が掛けてあり、・・・原発震災で放射能と向き合う暮らしを余儀なくされた私達…。この放射能時代を生き抜くために、宮城県南部で市民と農家のための放射線測定室開設です。愛称「てとてと」です・・・・・といいます http://sokuteimiyagi.blog.fc2.com/ その先左手に●小さいが蔵造りで門構えのある家が1軒。 12:56 |
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■大河原~韮神橋 元の道に戻って、右斜めに真っ直ぐ進むところ、左手奥に●古峯神社というのがあります。 祭神はここも日本武尊。 日本武尊が祭神というのがこのあたり多い感じ。 説明板 ダム工事で沈む所移転してきたという。 大河原桜町郵便局前を通る道が旧道で、やがて道は●荒川に突き当たります。 昔はここに「にらかみ橋」が架かっていたようだ。 今は左の新韮神橋か右の韮神橋かどちらか渡らなければいけないが、 左の方が近そうだったので新韮神橋へ向かいましたが、これが間違いで、土手から直接橋に上がれなく、相当迂回しないと橋に上がれませんでした。 橋を渡って国道を戻ると、土手へ下がる道があったので、土手へ下りました。 にらかみ橋のあったあたりへ行って見ると、なにやら●木製の橋脚が2本立っていて、橋の痕跡かと思ったりしました。 ●土手の旧道を進みます。 13:55 |
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■韮神橋~西船迫 韮神橋から国道渡って、韮神山の裾野に●史跡韮神山遺跡群」が移設されている。 韮神山は奇岩怪石の山で、文治の役の古戦場でもあり、その景観はここを通る多くの人の旅情を慰めたという。 芭蕉句碑、平安の歌人藤原実方の歌碑、三十三観音と遷大悲閣の碑というのが集められています。 説明板 ここから先はバイパスの為旧道は消滅しているので、そのまま国道の左側を進みました。 信号を渡って国道の1本南側の道を進むと、左手に●2本杉の一里塚跡と●柴田町と村田町の町村境界碑が立っています。 説明板 北船岡を出ると、西船迫(にしふなばさま)に入り、西船迫交差点を渡ると、船迫宿となると思いつつ、どこが入口かわからず、 ●左に「大光院」があるあたりを入口ではないかと考えました。 14:38 |
38 船迫宿(ふなばさま) 大河原宿から 1里12丁(5.2km) 船迫の地名は、奥州合戦の時、船迫長門という武将がここで鎌倉軍相手に奮戦したとか、 白石川がここで大きく蛇行して迫ってくる地形からとの説がある。 白石川が大きく湾曲していた形態に沿って宿が形成された。 |
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■西船迫~薬師堂 左へ入って●大光院へ行ってみます。 手前に「船迫宿」の案内図が張ってありました。 それを眺めても船迫宿の入口はどこかはっきりしません 。大光院は1260年以上の歴史を持つ新義真言宗の寺院というが、本堂は新しい。境内が狭く写真に収めるが難しかった。災いを知らせるために水滴を発すると言われいる「汗かき如来」と呼ばれている鉄製の阿弥陀仏があるそうだ。 隣の神社は●熊野神社。 寺の境内から行けるので寺が別当を務めていたのでしょう。 街道の先。枡形が二つ現れます。まず●第一の枡形を曲がると左手高台に阿弥陀堂があるようですが、そのまま通過。 その次の枡形を曲がって行くと、突き当たります。ここを右折して●白石川の蛇行の頂点あたりを通過します。 15:05 |
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■薬師堂~白石川岸 左手の高台に薬師堂があります。 そこから東南の方向に向きを変え、●山裾に沿ってほぼ真っ直ぐに進みます。 左手は「表蔵王国際ゴルフ場」。 その先で、国道4号を越えると「●奥州街道通り」という新しい標石がある。 左へ半円弧状に曲がると、船迫公民館があり、掲示板に「船迫百年」と書かて、明治、昭和36年、平成の人口の推移などが書かれている。 その先は左手に国道4号、右手に白石川の土手の間を通る、車も少ない快適な道となりました。 右手に●「柴田町の一里塚」の案内板と「奥州街道 船迫内余川の一里塚跡」と刻む新しい石標があります。 一里塚は明治9年の太政官府で「有害無益塚丘」とされたそうで、これは知らなかった。 白石川の土手に上って、●白石川をしばし眺めました。 正面の山は何というのかわかりません。 その先、国道をくぐるトンネルの脇に●河川測量基標という半分埋もれた石標があります。明治29年施工の河川法に基づき、測量のために立てたものといいます。 15:50 |
39 槻木宿 船迫宿から1里12丁(5.2km) 交通の要所だった槻木は宿場町として整備され多くの商人な宿場関係者で軒を連ねたといわれる。 |
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007-1 白石宿(前半) | 008 岩沼-仙台 |