009 仙台から吉岡へ       歩行地図
 芭蕉の辻-北山-堤町-北根-杉ノ田-七北田-大沢-西川-富谷-志戸田-吉岡桧木         22.65km

2019年9月24日 画像をクリックすると拡大します
■芭蕉の辻~国分町3丁目
 奥州奥道中4回目。今回は3泊4日で仙台駅から岩手県境の有壁、行けたら一関までという予定で歩きます。仙台から先は東北線が街道と離れてしまい、有壁まで行かないと帰って来れません。 
 朝8時過ぎに仙台駅に到着し、支度を調え、30分過ぎには前回終わった、●●芭蕉の辻へ着きました。 仙台からの旧奥州街道は松前道とも呼ばれ、芭蕉の辻にある道標には「北 津軽三厩迄 四十五次百七里二十二丁」と刻まれ、約422kmの道のりです
 北へ進むと●国分町2丁目。 ビジネス街の1丁目とは違って、こちらは飲んべえの町と云われ朝から酒の搬入車が並んでいました。8:45

44 仙台宿
 長町宿から1里12丁(5.2km)  仙台城下の宿駅としては芭蕉の辻付近の国分町が中心で、国分町、北材木町、北目町、新伝馬町の4町で毎月の伝馬役を分担していた。高札場、」本陣も国分町にあった。 

■国分町~通町
 二日町を過ぎ、本町通2丁目に入ると国分通りから青葉神社通りと変わります。 すぐ左手に元祖仙台駄菓子と書かれた●熊谷屋があり、元禄8年(1696)の創業。 柏木に入ってくると、いくらか旧街道らしい家並みになってきて、左手に●横山味噌醤油店の店蔵がありますが、この店は裏手の●横山家の屋敷の方が広くて立派。
 その先、●玄光庵と熊野神社が並んでいます。 かつての宮城県荒巻村の総鎮守。 その先街道は右に曲って行くのだが、左の角にかつての検断屋敷が残っているはずのところ、残念ながらコンビニに変わってしまっていた。 写真を撮るのを忘れたので、ストリートビューを借用します。  9:20

■北山界隈
 街道は青葉神社の前で右へ曲がります。 突き当たりは北山といって北山五山と呼ばれる寺が並んでいる所。 北山という位だから寺社は高台に位置し、参拝するにはそれぞれ石段を上がっていかねばならない。奥でつながっていればいいと思うけど、そうではないようだ。 ●●青葉神社は、明治7年の創建になる。 祭神は伊達政宗、東隣の伊達家の菩提寺である東昌寺の敷地の西側2/3を割譲して建てられたといいます。 東隣の東昌寺へは神社から行けるように思えたが、よくわからないので、下から●東昌寺石段をテクテクと上がりました。●東昌寺は北山五山の一つで、伊達氏代々の保護を受けた。 尚、ここにマルミガヤという特別記念物の銘木があるようですが、場所がわかりませんでした。   9:32

 次に又、北山五山の一つである●光明寺の石段をテクテクと上がり、 ここには墓地内に慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航した●支倉常長の墓と、常長を案内した宣教師ルイス・ソテロの碑が建っています。
 先に進むとその先には●鹿島香取神社があり、参道入口には道中安全を祈願した●馬頭観世音(1848年)や庚申塔がたっている。9:50

■北山~堤町3
  鹿島神社の前を過ぎるとJR仙山線の踏切を渡る。左手に日蓮正宗日浄寺がある。 しばらく進むと左手に●佐大商店があります。昔は「堤焼き」という焼き物の窯元が沢山あった所だが、絶えてしまって店だけが残っている・・・という話だったが、 もう開いていないようで、無人のような様子で、訪れることはしなかった。 
 店の隣は●「御仲下改所(おすあいどころあと)」という案内板が立っています。 これは城下に持ち込まれる商品から税金を取る北の番所跡で、東西南北にあったものであるとの解説と絵が書き込まれていました。
 その先、県道22号に合流し、進むと左手に●●青笹不動尊があります。 案内板  この先にある北田処刑場に引かれていく囚人たちはここで末期の水を飲まされたという。  10:15

■堤町3~北根黒松
 北根地区に入ると右側は高台で、「台原森林公園」という大きな公園になっています。 その一角に●仙台文学館入口があって、「斎藤茂吉  --そのひとすじの道」 という展示看板がありました。
 ●北根三丁目の交差点で、三叉路になって、その真ん中の細い道を進みます。 ●旧奥州街道は仙台川に沿って進んで行きますが、半分位で道が消失しているので、黒松南入口交差点で旧国道4号に出ます。 その先●虹の丘入口交差点で車道左手の道に入り、県道は切り通しの低い方を進み、旧道は切り通し前の高い道を行くことになります。  10:45

■北根黒松~杉ノ田
 ●切り通し前の高台を進みます。右手の県道との高さの違いがよくわかります。 進んで行くと左手に●●仙台藩の七北田刑場跡がある。   元禄3年(1690)、米ヶ袋(こめがふくろ)刑場から移されたもので、百姓や町民が対象の刑場だった。明治までの178年間、延べ5300人が処刑されたという。 案内板 ●西向き地蔵は県道の東側にあったものが、昭和54年に道路拡張により移転された。  10:53

■七北田~七北田橋
 切り通しの道から先は左へ回り込んで県道へ下りて行くようになっていて、面倒なのでガードレールを越えて下りてしまいます。 下りると●杉ノ田交差点で、県道を横切り、 仙台市営地下鉄南北線の八乙女駅をくぐるようにして進みます。 その先●七北田橋を渡る。下を流れるのは七北田川。 橋の上から左を見ると、きれいなドーム状のスタジアムが見え、●アテックスタジアム仙台といいます。 Jリーグのベガルタ仙台のホームスタジアムとなっていますね。 渡ると、先は七北田宿。    11:05

45 七北田宿
 仙台宿から2里(7.8km) 南北朝の大崎氏が奥州下向の際、上谷刈村、野村、西村を合わせ七北田村と名付けて宿駅とした近世の宿駅としては元和中に現在の七北田に移転し成立した。
■七北田橋~白水沢
 宿場に入ってすぐ左手に●善正寺があり、入口に明治天皇御駐輦址碑があったようだけど、無くなっています。 寺奥にでも移転したのかどうかはわからなかった。
 ●七北田宿の町並。 本陣、制札場、馬継ぎ場があったというが、見あたらない。 特に宿場らしき痕跡はありません。 左手に●二社神社があります。 結構派手に七五三の幟が立っていたりして大きな神社です。  当地の総鎮守。 別名二和多利権現とも呼ぶようです 。明治になって、祭神をイザナギ、イザナミ命として二柱神社と改名された。 由緒  。 さらに進み、宿の終わり頃に●丁切根と呼ばれていた屋敷があった地点で左に曲がって行きます。    11:35

■白水沢~大沢2
 左折して道なりに進むと、右手に「日露戦役紀念碑」があったりし、あたりの地名は将監といいます。 伊達家家臣の横澤将監吉平がこの地区を治めていたことに由来するそうです。 やがて国道4号に合流し、しばらく進むと●東北自動車道の泉インターへ出ました。 普通インターの所は迂回したりして面倒なところ、ここは●2度地下トンネルをくぐるだけで済み、 自動車道本道をくぐると●大きめの交差点へ出ました。 ここから先は国道を夾んでS字状に進み、国道を渡って、大曲坂と呼ばれた坂を上がって行くべきところ、 左側への道は存在していないし、国道の右側へ抜けようにも、ホテルやら自動車販売店などが並んでいて抜けられません。 そこで迂回路的に●ラーメン店の手前を曲がって、丘陵地へ入って行くことにしました。  12:20

■大沢2~大沢3
 国道の右側は丘陵で、かっては大曲坂と呼ばれていたけど、一帯は大規模造成工事で風景が一変したようで、大規模ホームセンター、電気の量販店などが並んでいます。 ●大曲坂のような坂を上がって行きます。 前方のビルはホテルルートイン。 右手に●ケーズデンキが見える坂を上がり、 右手奥に進むと●金玉(きんぎょく)神社というのがあります。 このあたりの区画整理で移転してきた神社で、元はヤマト運輸のあたりにあったといいます。  金玉とは盲人の名前で、由緒には面白い伝説が残っています。 案内板  続いて坂を下ると●国道4号に出ます。 正面に見える塔はシンフォニータワー(富谷配水場)といって展望台もあるとか。          12:53

■大沢3~あけの平団地北
 右手の土手の上に●●大清水石盥(せっかん)というのがあります。新妻豊前という武士が、病気で倒れた家臣ののどを潤すために、持っていた槍の先で岩を掘ったところ冷水が湧き出たといわれている。 よくある弘法大師の伝説のような場所です。 昭和35年くらいまで清水がこんこんと湧いていたと云うが、水は出ていません。 富谷の茶とともにこの街道を行き交う人々から親しまれ、愛されてきたという。      その先、●小さいピザ店の前で右に折れ、ここも●切り通し前の高台の道を進みます。ここは7分程で国道に下ります。  13:32

■あけの平団地北~西川土手~高屋敷橋~一枚沖
 再び国道に合流して進み、「あけの平団地北入口」交差点で、●左手の脇道へ進み、その先は「無明舎本」によると西川沿いに進むようになっているので、●土手の上を歩くようにしました。
 左を流れている川は西川といい、●右手の国道に近づいたり、離れたりして進み、但し土手の右側は途中で灌木に遮られ、進めないので、手前の小さな橋を渡って●左側の土手を通らないといけなかったです。 高屋敷橋を渡り国道に復帰します。 13:57

■一枚沖~富谷
 ●一枚沖信号で右の細い道に入ります。 入って進むと右手の高台に●八雲神社があります。 天保大飢饉のころ、この辺一帯に疫病が流行したので、槻木宿(現柴田町)の入間田から祇園社として勧請したのが始まりという。 祭神はスサノオノミコト。牛頭天王とも呼ばれ、疫病神の主として知られ、天王を祀れば直ちに疫病が平癒すると信じられたと云われる。              
 その先●熊野神社前を右に曲がると、富谷宿に入ります。   14:15

46 富谷宿
 七北田宿から2里19丁(7.8km) 新町宿とも呼ばれる。 南北朝の大崎氏が奥州下向の際、上谷刈村、野村、西村を合わせ七北田村と名付けて宿駅とした近世の宿駅としては元和4年に成立した。

■富谷宿
 熊野神社の前を右に曲がると、●富谷宿の町並みが宿場らしく真っ直ぐ続いている。  富谷宿は富谷新町宿とも呼ばれ、元和4年(1618)、政宗により町場とされた。 富谷村の中に造られた町が富谷町でその別名が新町だった。 当初は北隣の吉岡宿へ出かけて馬継ぎ役を務めていたが、 元和6年に宿駅として独立。  検断や馬継ぎなどの役には、旧黒川家の浪人が任命されたという。 宿内では往時の風景を残す建物が本陣跡を始めmいくつか残されていて風情があります。
 右手に●「恋路の坂」という看板が下がった行灯が立っていて、細い坂道が奥に続いている。 明治から大正にかけて活躍したという女流歌人・原亜左緒(はらあさお)と恋仲になった石原純(東北帝国大学教授)が人目を避けて富ヶ岡公園に通った坂道とか。 その先左手にある●●内ヶ崎酒造店が富谷宿の本陣跡にあたります。現在も営業中。 創業は寛文元年(1661)。 検断を兼ね、札場もここにあった。   14:25
 (本陣の向い側が、一族の子孫で衆院副議長を務めた内ケ崎作三郎(1877~1947)の生誕地でもある、内ケ崎醤油屋跡地で、・・・・ここに「富谷宿観光交流ステーション」を整備する方針を決めた。2020年の開宿400年記念事業の柱として20年10月の開館を目指す・・・・という報道があったようです) 。   

 その先、左手には●古民家カフェ、のような土蔵づくりの店があり、店の右側に富谷宿で宿泊した松前藩、南部藩などの大名の宿札が展示されている。  その向い、右手に●脇本陣だった気仙屋跡がある。 明治天皇の東北行幸のとき御小休の場所となった。 宿の端で左折して行きますが、その突き当たりには●内ヶ崎別邸がある。 案内板 河北新報社の観光百選にも名を連ねています。 公開されていないのが残念。   14:30

■富谷~ひより台
 ●左折して御所橋を渡り、先を右折すると左手に中央公民館があり、庭に●代官松という大きな松植わっています。 昔の代官所がここにあり、その玄関前に植えてあったことから代官松と呼ばれていたといいます。  街道に戻り先に進み、車道を越えて右折すると左手高台に、八雲神社があって、宿入口の八雲神社と同じで、出入口両方の神社で宿場へ疫病が入り込まないようにしたのでしょう。     その先二股は●斜め左へ進み、 ●静かな道をアップダウンしながら進みました。    14:45

■ひより台~志戸田
 左手に●いぼとり太子堂というお堂があります。 お堂の中に、「聖徳太子」と書かれた石塔が安置され、 説明によると・・・「通常このような塔は、職人講の一つである太子講の人々が造立したものと考えられます。 この塔はいぼとり太子堂として信仰され、供えてある小石でいぼを擦ればたちどころにいぼが消え、治った人は石を二倍にして返す習慣がある」・・・という。 案内板の脇に●距仙臺元標五里」と書かれたよく見かける明治22年の道路元標があった。                                  
 その先でバス通と合流し左折、更に●●国道4号線に合流して右折します。 この先国道を進むのではなくて、右側の側道を進んだ方が正解だったらしく、情報では「宮前バス停」の所に「三ケ森遺跡碑」というのがあるそうだ。気がつかず残念でした。  国道はさすがにトラックが多く、排気ガスにはまいりました。  15:12

■志戸田~吉岡桧木交差点
 高田橋を越えると「大和町」で吉岡宿に入るわけだが、ホテルが斜め左にあるので、早めに●桧木交差点で本日は止めにしました。 その前に、右斜め先に●吉岡東官衙遺跡というのが地図に見えるので、行って見ました。 吉岡東官衙遺跡は、奈良時代から平安時代始め頃の役所の跡で、米などの税を納めておく倉庫群の跡が発見され、当時の黒川郡を治めた役所の可能性があり、宮城県指定史跡に指定されています。  案内板   16:15

 008 岩沼宿~仙台 010 吉岡宿~古川宿