010 吉岡宿から古川宿へ    歩行地図
吉岡-天王寺-松島道追分-吉岡宿-昌源寺-大衡城-クリエイトパーク-駒場-大豆坂-三本木諸絶橋-古川 22.10km

2019年9月25日   画像をクリックすると拡大します
 昨日は大和パークホテルに泊まりました、2食付きで手頃な値段で大満足です。本日は距離が長くないのでゆっくり目に出ました  街道に戻る前にホテルから南へ少し下がった所にある天皇寺へ寄っておきます。 天皇寺は吉岡を開府した伊達宗清の墓所となっている寺で、まず名前が珍しいと云うか大層な名前であります。
★天皇寺
 まず●茅葺の仁王門がきれいで好ましい。正面に●本堂  左へ行って墓地の中に入ると、●伊達宗清の墓があります。伊達宗清は伊達政宗の三男で、城下町吉岡を開府した吉岡城主だった人物。 案内板 墓の様式が五輪の塔と思うけど、ひょろっとした変わった形をしている。   奥に●飯坂の局の墓というのがあって、飯坂の局は伊達市の分流、飯坂宗康の次女で、政宗の側室となり、伊達宗清の養母となっった。  案内板   本道の裏に●ひさご池があります。秀吉の「千成瓢箪」にあやかって、またご機嫌を取る為か、各地にひょうたん池が造られたそうだが、徳川の時代となってから、罰が悪くほとんどは取り壊されたが、徳川に逆らってか、あえて残された貴重な池といわれます。 9:15

■桧木交差点~松島道追分、吉岡宿入口
 前回終了した●桧木交差点へ戻りました。 
 道下」バス停の手前、ラーメン屋さんの前に●一里塚の看板と生け垣があります。案内板がかすれて読みにくい。一里塚の前には"「奥道中歌」"と題する碑がある。仙台宿・国分から一関宿の宿場を詠み込んだもの。
 その先の●十字路は松島道(日本三景の松島)追分です。 旧道はこの信号で左折して吉岡宿に入ります。交差点を右へ行くと松島道(現県道3号線)で、直進方向は一関方面でです。 往時は追分地蔵道標があったが、宿内の九品寺に移設されている。
 9:35

47 吉岡宿
 富谷宿から1里32丁(7.4km)  映画「殿 利息でござる!」で有名になった宿場。 元和2年(1616) 伊達家三男伊達宗清の吉岡入りにより黒河地方の中心として発展した。奥州街道と出羽街道の二重の伝馬役を課され苦難の道を歩んだ。

■吉岡宿入口~
 追分を曲がるとすぐ右側に●九品寺。山門前に石仏群があって、右前に●松島道の追分道標を兼ねた宝暦7年(1757)の地蔵菩薩がありました
 ●吉岡宿の町並み。 平日のせいか人出がありません。 吉岡宿は城下町らしく枡形が3箇所あり、ジグザグに上町、仲町、下町と通ります。  二重に伝馬役を課された割に助成金がなく運営に困難を極めていたが、映画の通り1000両を伊達藩に貸し付け、利子100両で宿場を運営して、幕末いたったというエピソードが残ります。
 ●龍泉院隣の木造の建物。    9:40

   ~上町
 ●右折してすぐ左折、上町に入る  左手に●浅多屋商店。 掲示されたポスターでは滝多商店は映画『殿、利息でござる!』に紹介される「滝野屋」からのれん分けをされたという店   突き当りの手前右手が以前コンビニがあったという本陣跡。現在は●「吉岡宿本陣案内所」というのが造られていました。 興味あったけど時間を取られるので、通過して●突き当りを右折して、中町に入ります。  9:50

■上町~仲町
 その先、左手、七十七銀行の手前に、●今にも崩れそうな蔵が一つ。先を右手に進むと吉岡八幡神社があります。隣は吉岡小学校。左へ境内に入っていくと、右手に 珍しい木造の建物が見えて、学校の体育館かな思いましたが、 調べると●「大和町武道館」というのだそうで、昭和5年、「吉岡小学校」の講堂として建てられ、体育館や集会場として使用されている。正面の方が美しい。 ●吉岡八幡神社は黒川総鎮守。宗清と共に現在地に移転してきた。 ●朱塗りの随身門は明和元年(1764)造営。 ●社殿は昭和63年、落雷により焼失して、現在の社殿は平成元年の再建になる。 その先は街道に戻らず境内の先から下町の方へ出てしまったので、途中の上州屋、大ケ森屋、高札場跡とか見られずじまいでした。 9:56..

■仲町~松本橋
 下町に入って左手の●早坂酒造。当時、吉岡宿下町一番の大店であった。映画では橋本一郎さんが早坂屋新四郎を演じているとか
その先は吉岡宿出口で、●出羽海道との追分となっていた。奥州街道はここは右折します。出羽海道はここを直進して行くようです。右折した先、●左折して坂を下りて国道4号にぶつかるのだけど、先の先、昌源寺までの道は失われて松本橋を通る道は旧道ではありません。 ●刈り入れの終わった田園の中を進みます。旧道は100m程東側を通っていたといいます。   10:15

■松本橋~中央平
 突き当たりを右に曲がって、左折すると●●昌源寺があります。天正9年(1581)の開山で、寛永12年(1635)伊達家家臣戸田定隆が現在地に開基、同氏の菩提寺とした。
 ●昌源寺前の砂利道を行くと、「奥州街道の歴史にふるれ散策路の整備」という案内板がたっている。 これから先が問題で、もみじ広場までの奥州街道は「第二仙台北部中核工業団地」によって喪失してしまったと云われ、代わりに散策路と公園をつくりましたと説明されている
 その為最初から「万葉クリエイトパーク」まで、迂回するつもりでいました。 先人の歩いた情報を色々探ってみたのだが、団地造成前か、造成中のことばかりで、 「クリエイトパーク」右側の「村道大日向線」を迂回している多く、 自分もその通りにしました。 現在、帰ってから最近の情報を見てみると、「クリエイトパーク」の東側、「すかいらーくMDセンター」右側あたりから旧道が残っているらしいことのようですが、後の祭りで通れませんでした。 というわけで●昌源寺案内板の先の草地の中を上がって「村道奥田工業団地西線」へ出ました。ここは標識がほしい所ですね。 10:45  

■中央平~大衡城
 ●案内板で云う村道に出ました。散策路と行っても普通の舗装路で車も通ります。 高台を通ってい左手の眺めがい。右手は原っぱだけが広がる。  途中で左折して「大衡城」へ向かいます。 埋川脇高台に立地する、●大衡城は天文13年(1544)下草城主で治部大輔の大衡宗氏により築城され下草城主黒川景氏の次子大衡宗氏が天文13年(1544)築城し、天正18年(1590)豊臣氏の奥州仕置で所領没収、廃城となったとある。天守閣を模した建物は青少年交流館、民族資料館となっています。 さすが城跡だけに●眺望が良く、歩いてきた田んぼ道や吉岡、大衡村の町並みが望めます。  11:05

■大衡城~県道57号~古井待
 村道に戻って、馬頭観音などが置いてあるという「中央平公園」がわかりませんでした。 大衡こども園前が公園らしかったけど、ここも案内板くらいあって良いかなと思います。 ●県道57号を通って、●万葉クリエイトパークの中を散策して見ました。案内図  「トヨタ紡績東北」の左側、「村道大日向線を通って、●バス道へ出ます。 途中で無くなった旧道が合流してくるはずの道です。  11:54 
■古井待~駒場・須岐神社
 ●戸口バス停付近で県道16号線と合流します。 戸口バス停反対側に 一里塚の案内板があります。●雲泉寺前に一里塚があったといいます。このあたりは●駒場といい、奥州合戦の際、頼朝がここに陣を置いて兵をねぎらったとことに由来すると伝えられる。 この先の左手に●須岐神社がある。 式内神社で黒川郡四社の一つ。祭神は素盞鳴尊。  式内社らしく社殿はすっきりとした風格ある形で好ましい。   12:45

■駒場~御殿森橋
 駒場バス停の先、右手に●明治天皇の小休止跡碑があります。明治9,14年の東北巡幸の際和泉宅に2回小休止をしている。 その先、、左手に「奥州街道」についての案内板が立って、・・・・奥州街道はこの先東北自動車道により寸断されているが、三本木伊賀へ通じていた・・・・・と書いてあり、左斜めに少し旧跡が残っている。
 迂回路として、●高速道路下をくぐった先で左折し、真っ直ぐ進むと●三本木伊賀地区に入ります。 馬頭観世音の石仏などが左手にあったり、右手に茅葺きの民家があったりします。 東北道を伊賀南橋で越え、左側に並行する旧道を北上。次第に東北道から離れて行って、大日向地区に入ります。左手に「駒場一里塚跡碑」があったらしいのだが、気がつかず通りすぎた。
 その先●御殿森橋で東北道を渡り返し、道なりに進みます。   13:53 

■御殿森橋~大豆板
 御殿森にあるという「明治天皇鑾輿航渡聖蹟碑」をうっかりして見落としました。 全く、一人で歩いていると、ちょくちょく見落としてしまうことが多くて、帰ってから後悔しきりです。 県道に進むと●左側がかなり開け眺めがいいです。 ●急な坂を下ると、●国道4号線との交差点・大豆坂交差点に出ました。 14:12

■大豆坂~三本木宿
 国道を横断すると●大豆坂地蔵尊がある。明和2年(1765)、火あぶりで処刑された人を弔うため、 仙台の広瀬川から採った高さ4mの巨石を彫って造ったという。  しかし何故か、「私有地につき立入禁止の」札が立ち、立ち入れません。
 右手奥に「道の駅 三本木」があるので、しばし休憩。 この時間まで食べる所が見当たらなかった。
 ●大豆坂地蔵尊の前、鳴瀬川の堤防脇を通り、●国道の下をくぐると●三本木宿に入ります。   14:53

48 三本木宿
 吉岡宿から3里10丁(12.9km)  鳴瀬川に面し川を挟んで南側が南町。北側が北町として発達した。宝永17年に宿場として成立。南側に大崎氏の家臣、渋谷氏の桑折城があり、北町の端に本陣があったが、外の宿駅関連施設も含めて、河川改修で失われた。

■三本木宿南町~三本木橋・北町
 三本木宿は川を挟んで南町、と北町からなり、中世大崎氏の家臣渋谷氏の居城桑折城の城下町として発展した。 江戸時代では特に川沿いの南町は鳴瀬川舟運の拠点として発展し、 藩米を保管する御蔵場が立ち並んでいたという。 現在では特に旧跡らしいものは残っていないように思います。 地図を見て、途中南下して、●清水澤不動尊を見に行きましたが、荒果てた小さなお堂が石段の上に乗っかっていただけでした。 街道に戻った先、右手に●●八坂神社がある。こちらの方は規模が大きく、裸祭り、どんと祭りで賑わうという。境内に鐘楼があり、神仏習合の跡が残っている。
 南町出口付近に●門構えのある旧家・岩渕家があります。 現在胃腸内科クリニックになっていますね。 街道はここで左折して、鳴瀬川に架かる三本木橋を渡ります。    15:10

■北町~国道4号・多田川
 ●三本木橋を渡り、●北町に入ります。 北町の端には御仮屋(本陣)があったが河川改修で失われてしまったといいます。
 右手に門構えの旧家があり、左手に●蔵を備えた重厚な屋敷があります。 隣の「ささくに」という衣料店の屋敷のようです。 最初 新澤醸造店かと思ったら、この先に店があり、違いました。 新澤醸造店は東北震災で製造蔵が倒壊して建物が新しくなっていました。この先で●国道4号線に合流します。   15:30

■多田川~祇園八坂神社
 
多田川橋で●多田川を渡ります。その後、ひたすら国道を進み、●鴻巣の交差点の手前より左へ国道は曲がって行き、街道は●真っ直ぐ進みます。 右手に鳥居が見え、「日本三社之一宮大崎之郷総鎮守 祇園八坂神社」の社号標が立ち、参道は長そうで、足も痛み出したので止めようかと思ったが、エイとばかり、行ってみました。 天慶3年(936)、藤原秀郷が東夷征討の武運長久を祈願する為、京都祇園社より勧請し、京都祇園、鳥取祇園と共に日本三祇園の一社とするという。 その割には●社殿は小さく、境内も狭い。ここにも鐘楼があった。16:17

■祇園八坂神社~諸絶橋
 陸羽東線の踏切を越えて進むと、左手に●西宮神社。・・・本来神明社と称して伊勢神宮の遥拝所として陸前七神明の一社に上げられた社であり・・・・ 長いので 案内板
 その隣が●瑞川寺。 荒廃していた寺を伊達政宗の重臣鈴木元信が再興した寺であり、●風格のある山門は古川城の搦手門を寺門風に改築して寄進したものという。 先に進むと歌枕の地として有名な●緒絶橋があります。 下を流れるのが諸絶川。 脇に藤原道雅の・・・「みちのくの をだえの橋や 是ならん ふみみふまずみ こころまどはす」・・・という歌が書かれた案内板が立っている。 元来、川が氾濫し、以前の川筋が変わって、取残されてしまった川のことを「緒絶川」と呼び,そこに架かる橋を諸絶橋と呼ぶらしいが、 この地の場合、・・・嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いたが、その恋人であった白玉姫は恋しさに、皇子の後を追うようにこの地に辿り着いて、行方がわからなくて、意気消沈した姫はそのまま川に身投げをして亡くなってしまった・・・という悲恋物語によるという。   16:50

■諸絶橋~
 橋の北側にあるのが●橋平酒造。 寛政2年(1790)創業。酒造の外、味噌、醤油等の醸造や魚問屋、質屋など幅広く手掛けた豪商であった。現在は酒造を止め、委託製造となっている。 その敷地は広く、珍しいことに、●曳き家の作業をしていて、レールが何本も敷かれ、曳き作業を見たかったところ。 ●裏手に蔵が沢山見えて、往時の豪商ぶりがうかがえます。●店の前の交差点を曲がると古川宿に入ります 17:00

49 古川宿
 三本木宿から1里20丁(6.1km)  古川は大崎平野の中心に位置し、古代には多賀城の前線基地である玉造軍団が置かれた。中世は大崎市の拠点だった。 宿場は慶長後半に旧古川城下に整備され、三日町、七日町、十日町から成る御仮屋、外人屋などは七日町にあったが残っていない。

  ~十日町交差点
 交差点を右折すると●七日町となり、本陣、問屋などがあった中心地だったけど、面影はもうありません。●十日町交差点を左折して街道は進みますが、今日はここで終わります。ホテルはこの先の「プラザホテル」でした。 17:05  

 009 仙台~吉岡 011 古川~築館