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2020年6月29日 ■平泉温泉~柳之御所跡 画像をクリックすると拡大します ホテル武蔵坊を出て、すぐそばにある●義経妻子の墓に寄ります。源義経の正妻は、河越重頼の娘で郷御前という。有名な静御前はお妾さん。父、重頼は義経の舅であることを理由に誅殺されている。義経の東北逃亡と行動を共にし、文治5年(1189)閏4月30日、藤原泰衡に衣川館を襲撃され、義経と子と共に最期を遂げた。 宿から東へ向かって進み、JRの線路を渡ると民家の塀に説明板が架かって、●伽羅之御所跡です。 藤原3代秀衡・4代泰衡の屋敷跡ですが、発掘もされず説明板があるだけ。 少し北上して東へ向かうと、突き当たりの広大な空き地が●柳之御所跡です。初代藤原清衡が康和年間(1099~1103)に築造した居館・政庁跡とされる遺蹟で、奥州藤原氏の栄耀の跡といえるでしょう。 南側にある資料館は改築中らしく、入れません。 所々立っている説明板では「便所跡」、「井戸跡」などが発掘されているようで面白かった。 9:15 |
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★高舘義経堂 御所跡に沿って北上して行くと、高舘義経堂への長い木段がある所へ出て、上がって行くと●高舘義経堂への入口へ来ます。拝観料を払って石段を上がると左手に●義経堂があり、中に武者姿の●源義経像が祀られます。 平泉に落ち延びた義経は、秀衡の庇護の下、高舘に居館を与えられたが、文治5年、頼朝の圧迫に耐えられなくなった4代泰衡により攻撃され、妻子共に自害したと伝わります。 お堂は天和3年(1683)に伊達藩4代目藩主伊達綱村が義経を偲び造営したもで、義経像もその時のもの。 但し義経は醜男らしいと伝わっていたりして、姿にいささか違和感がありますね。 脇に●「源義経主従供養塔」。お堂の手前に●頼三樹三郎詩碑というのが建っています。説明板。 右手眼下に東北最大の河川「北上川」が流れ、眺望は素晴らしいものがあります。 9:30 |
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■義経堂~中尊寺入口 義経堂の石段を下りて、右手へ坂を下ると、東北本線の踏切前に●卯の花清水碑というのがある。文治5年の高舘落城のとき、義経と妻子の最後を見届けて奮戦し、死を遂げた、忠臣兼房を偲び、元禄2年芭蕉と曽良が「夏草」と「卯の花」の2句を残した。古来ここに霊水が涌き、里人は「卯の花霊水」と名付けて愛用してきたといいます。・・「卯花に 兼房みゆる 白毛かな」・・説明板 踏切を渡り、県道300号に出るとすぐ先に、●武蔵坊辡慶之墓碑が建つ。 弁慶は義経居城「高舘」が焼き打されるや、主君を最後まで守り衣川にて立往生(弁慶の立往生)のまま憤死。 遺骸をここに葬られ五輪塔が建てられた。●墓石は右脇に置かれている。 すぐ先の●中尊寺参道入口から参道を上がります。 9:50 |
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■愛宕下~本浄寺坂 旧道は●東北道前沢IC手前で消滅してしまい、左に迂回して行くしかありません。しばらく迂回道を通ります。途中●「フタバ平泉」という工場前を通過し、ジグザグに曲がって行くと、●奥州街道の案内板が立つ旧道へ出ました。 右手土手の上に「徳沢一里塚:の遺構があるらしいが確認できず。案内板 左手は「前沢工業団地」で、脇を北上し●「本浄寺坂」を下ります。 12:15 |
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■本浄寺坂~五十人町 東北自動車道をくぐり、すぐ先で左前方の旧道へ入ると、左高台に●●白鳥神社が鎮座します。坂上田村麻呂が蝦夷平定の折、日本武尊を奉じ創建したのが起源とされる古社。 説明板 旧道はこの先、県道の左側の高台、「西岩寺」の前を通るように書かれます。「無明舎本」では街道はほぼ旧国道筋ともあるので、「西岩寺」を左に見ながら県道をこのまま進むと、●枡形の形で曲がり、五十人町、前沢宿へ入って行きます。枡形を左へ曲がって、そのまま進むと●観音坂という坂につきあたり、 説明板 道は右に曲がって続きます。 この辺りは古名「小前沢」と言い、三沢氏時代の武家地の名残の道が残ってます。 13:00 |
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■五十人町~前沢宿(三日町) 小路をそのまま進むと、左手に●「裏小路」の標柱。 「閑居」と称された中級の武家屋敷へ入る入口。説明板 続いて●閑居坂の標柱。上野原へ至る作場道だったという坂で、殿様の隠居所を通るので「閑居」の名が付いたという。説明板 その先の●前沢小学校正門は江戸後期の前沢城主・三沢氏居館の「表門」を修復再建したものです。前沢小学校は廃校になってしまっています。 校門の前を右折して●前沢宿・三日町へ戻ります。 説明板 13:15 |
59 前沢宿 一関宿から3里6丁(12.4km。山目からは不明)前沢城下町、江戸時代には伊達家の所領として、大内、成田、飯坂氏が入り、 最後に三沢氏が8代計190年間明治維新まで3千石で治めた。 |
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■七日町~岩堰橋 街道へ戻り、枡形を右折すると●七日町。 右手に●太田家住宅(太幸邸)と呼ばれる屋敷があります。 当家は初代から4代まで幸蔵を襲名し、5代目からは幸五郎と続くことから「太幸邸」とも呼ばれます。 説明板 新町を進むと左手に、●岩手銘醸という酒造所。創業安政5年、昭和30年に蔵元2社が合併して設立されたという会社。 その先新町に●枡形があり、ここが前沢宿北口の出口といわれます。 13:35 |
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■岩堰橋~古城 ●岩堰川を岩堰橋で渡る 岩堰川の先で右から国道4号が合流し、左手に「大儀寺」があります。 「古城バス停」の先で●左へ入る旧道が残るので、左へ入り、左奥に●大林寺があり、山門の奥に回廊が付いた「鐘門」があります。こういう場合、下から直接上がる、直登階段形式が多いと思うが、回廊が付いているのは珍しいと思います。 14:20 |
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■折居~真城が丘3丁目 旧道は●右にカーブする辺りから消滅しています。 往時の街道はここからほぼ真っ直ぐに北上し、真城ガ丘3丁目あたりを通り、水沢市内、袋町へ進んでいました。又このあたりから明暦4年(1658)、小山崎、妙法寺を通る新道に切り替えたらしく、「歴史の道調査報告書」、「無明舎本」はいずれも旧道のみ記載しています。 ここから先は水路、田畑、住宅地で全く街道沿いに進めません。 簡単なのはこのまま国道に合流して水沢市内に入る方法が一つ。 旧道ポイのは手前の小川沿いに左手に入る道で、これは北上後水路で行き止まり。 旧道沿いにこだわるとジグザグに大きく迂回しながらになります。 先達の人の進み方を見ると様々に進んでいますね。 今回は一応、折井集落をそのまま進んで、国道に合流し、手前に「奥州街道と桜並木」という看板が立って、通って来た道が「桜並木」だったと思わされました。(振り返り写真)。 大深沢川を渡ってすぐ左折し●真城が丘方面への上り坂を行きます。その先で右折し●真城が丘3丁目付近を通過。このあたりが旧道に沿っている感じです。 15:45 |
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■真城が丘3丁目~中上野 「雇用促進住宅前バス停」の先で右折、水路に沿って進み、南中学校の手前で左折、●南中学校の西側を通ります。ここは旧道と云って良いでしょう。 中学校先で●再び旧道が途切れるので、右折して一度国道へ出ます。 国道を左に曲がって進むと、●分岐点が現れるのでここを左手に進んでいく。 すぐ先左手の民家の庭先に、草に隠れて「一里塚の表示板」がありました。●「真城一里塚 西塚」です。 脇に案内板が立って、古奥州街道は折居町から西側の高台を通って水沢公園の愛宕参道を通過していたが、明暦4(1658)に小山崎から妙法寺、七軒小路にぬけるルートに切り替えられたと絵図付で記されています。 16:15 |
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014 有壁-平泉 | 015 水沢-金ケ崎 |