015 水沢から金ケ崎へ     歩行地図
 水沢-大畑小路-日高小路-大町-立町-白井坂-胆沢城跡-再巡橋-金ヶ崎-城内地区-金ヶ崎駅 15.36km 

2010年6月30日
■水沢駅~大安寺 画像をクリックすると拡大します
 本日は雨模様、午後から本格的というし、奥方も一緒なので北上までは無理ということで、●水沢駅で一応「六原駅」から帰る切符を買いました。 駅から●大安寺へ向かいます。水沢藩留守氏の菩提寺です。 境内に●高野長英墓があり、説明書 を読むと 中央は長英生誕200年に当たる2004年の建立の分霊墓、右側の自然石の方が、長英没後30年、母親の「美也」没後15年にあたる明治12年(1879)建立。左の方は昭和3年高野家13代長運の建立。3種類あります。 境内奥に●留守家代々墓所があり、3代宗景、5代から12代邦寧が眠る。 初代、2代目はこれから向かう日高神社に祀られています。  8:30

60 水沢宿
 前沢宿から2里30丁(11.11km)。胆沢地方の中心地で,古代は「蝦夷」のリーダー「アテルイ」の本拠地だった。江戸時代は水沢城下町。留守宗利(伊達政宗の従弟)が水沢城に入封、以後、明治維新まで治めた。大町付近が中心地で、大手枡形と南枡形があり、高札場も置かれ、立町に本陣、脇本陣が置かれた。「キリシタン 後藤寿庵」、「高野長英」、「後藤新平」、「斎藤 實」「物理学 木村 栄」等を輩出した“偉人の町”として知られています。

■大安寺~大畑小路
 これから少し水沢市内を巡ります。大安寺南側に、昨日見た袋町ポケットパークの奥に●八雲神社があって、祭神牛頭天王は疫病除けの神として、又胡瓜天皇としても親しまれ、 キュウリを旧暦6月15日の縁日に供えるまで食べないという風習があったいいます。 横町交差点の角に●横町ポケットパークがあって、横町組火消の纏が飾られている。 旧道はここを右折して●横町大町へ入りますが、その前に少々の寄り道として 横町通り、2本西側の●大畑小路へ回ります。  8:40

■大畑小路~日高小路
 大畑小路は武家屋敷が固まっている所で、案内図 右へ少し入ると、右手に●●高野長英旧宅があります。長英の母「美也」の実家で、江戸の上るまでの17歳までこの家で生活していた所。 説明板 
 隣は●武家屋敷高橋家(非公開)。大番士を勤めた留守家の家臣。 説明板  大通りを渡って日高神社への参道、●日高小路へ入ります。召出(正月の宴会等に召し出される資格ある家柄)や小姓等の屋敷が軒を連ね、今も落ち着いた武家屋敷の佇まいが残されているという通りです。8:50

★日高神社
 左手に留守家の大番士を勤めた「武家屋敷 安倍家」 明治9・14年の明治天皇御行幸の避難所に指定され、同22年には臨時緯度観測所が置かれた歴史的建造物です。
 突き当りに弘仁元年(810)創建と伝わる●日高神社。名称には諸説あり、この地が古来より日高見国と呼ばれたり、前九年の役の折に源頼義が祈祷したところ、雨が急に止み日が高く昇り、未の刻(午後2時ごろ)に安倍貞任を討ったことに因むとされる。
 境内に●初代留守宗利公銅像。 留守宗利、2代宗直が眠る●留守家墓所があります。 ●社殿「蟇股」 などに江戸期と室町期の様式が混じり「重要文化財」に指定されている。 9:10

■日高神社~大町
 日高小路の一本北側、新小路と吉小路の間に●長英生家跡があります。長英は、1804(文化元)年留守家臣の後藤惣介実慶と美也の子として生まれ、のち母の実家高野家の養子となり、養父玄斎から蘭学の初歩を学び・・・以下 説明板 にて
 北側の吉小路に冠木門を構えた●●後藤新平旧宅」(公開)。 留守家御小姓頭・後藤佐伝治屋敷で、後藤新平は安政4年(1857)ここで生まれている。母屋は18世紀中頃の建築で、晩年の新平が修理したものを保存している。 通りの斜向かいに●武家住宅資料館(旧内田家住宅)。大番役・内田勘之丞のもので、禄高は96石2升で家中代2位とあり、市内でも格式のある武家屋敷のひとつに数えられています。現在は武家住宅資料館として公開中。  9:30

■大町~
 大町の旧道へ戻って来て北へ向かいます。このあたりが●南枡形にあたり、印房店の脇に●南枡形石碑が立ってます。 その先の「小野徳商店」は●明治天皇行在所跡で、大町の豪商戸坂万六宅跡。脇に●石碑が立ちます。 道向こうの「水沢こども園」の脇を入って行くと、大町川に架かる橋が●長光寺橋(通称めがね橋)という。この辺りは、海鼠壁の蔵や黒壁の住宅が遇ったりして古い町並みが残ります。 

   ~柳町
 街道に戻り、先に進むと左手に、●大町火消の纏。 右手に「御蔵場道入口」碑。 その先に乙女川があり、左手の川沿いの散策道は「お忍び通り」と呼ばれ、「ふるさと名所50景」に選定されています。 しのぶ橋の袂に●●乙女川小公園があって、「長沼町開基の人 吉川鉄之助誕生の地(長沼町は明治維新の際、水沢藩藩士が北海道開拓に入り、開基された。水沢町の姉妹町)」とか、同志社出身で、東北でのキリスト教伝道の礎を築いたという「片桐清治、哲」、「地理学者・箕作省吾」や明治初期の「神学者・山崎為徳」など偉い先人の記念碑が立っていて、水沢は偉人を沢山輩出したという誇りが感じられます。
 ●柳町交差点を左へ曲がるが、正面歯科医院の脇に、「町火消創始者佐々木五平屋敷跡碑」が立ってます。 水沢は何度も大火に見舞われ、佐々木五平が江戸の火消しを習い、水沢の消防組織を創設したとされる。  10:05

■柳町~立町
 柳町交差点を左へ曲がり●立町へ入ります。 立町は本陣・脇本陣が置かれ、土蔵を持つ豪商が立並らび、宿場の中心として栄えた所。右手に●旧の町屋、左手奥に土蔵を持つ家など並んでます。 左手、●松本家の門前に「大久保利通 大隈重信 御宿泊所碑」が立っていて、 明治9年、大久保利通と大隈重信は、明治天皇東北御巡幸で同行し当家で宿泊しという。
 「立町」信号を右折、向こう側の屋敷は●上井沢代官所跡。 10:15

■立町~釜石跨線橋
 交差点を渡ると右手に●川口町の防火纏があり、町毎にこのような纏が立っている感じがします。さすが防火の町。 川口町は安政6年の大火で多くの家屋を焼失、町印「仁」と鎮護の大日如来堂を中心に、「仁」の協働精神が生き続け、町づくりの基盤として今日に引き継がれています・・・と案内板にある。 その●大日如来堂が右手にあります。
 その先、不断橋の欄干に、●鉄道馬車(トテ馬車)のレリーフがあって、明治23年東北本線開通するも、鉄道に縁遠い岩屋堂の商人たちが中心となり、大正2年「鉄道馬車」の運行を開始、水沢駅~岩谷堂船場間(約8K)をラッパを鳴らしながら馬車が往復した・・とあります。 水沢市街を出て、●東北本線の釜石跨線橋を渡り、左前方へ進みます。   10:28

■釜石跨線橋~白井坂
 国道4号との合流手前に●地蔵菩薩坐像外石仏群があります。 次に●中ノ島交差点の五叉路は右前方●旧道へ入ります。中程の十字路で、●正面の住宅の右脇●自然石の「道標」があります。文字は薄いのだが、「右 岩や堂道 左 かねがさき道」とあるのでしょう。 先ほどの鉄道馬車の終点の岩谷堂はここから東北方面の江刺区にあります。ここから左斜めに進むのだが、本来の旧道は直通して、胆沢川へ向かっていたらしい。   10:45

■白井坂~胆沢城跡
 国道4号の●十文字跨道橋をくぐり、「薬師堂温泉」方面へ向かいます、途中、「茂井羅中堰(しげいらなかぜき)」という水路を渡ります。 胆沢平野の開発史において、その中心を占めてきた用水で、元亀年間(1570~)に北郷茂井羅という女性が用水を開削したという言い伝えがあるそうだ。
 左の薬師堂温泉を過ぎ、左へカーブしていき、谷地橋を渡ると、右手に●埋蔵文化財調査センターがあります。ちょうど火曜日が定休日で入れなかった。 センター前に●●胆沢城址の南大路、外郭、築地の櫓などがが復元されています。  延暦21年(802)坂上田村麻呂が築き、後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能した。1辺670mの方形。面積約46万m2 説明板    11:10

■胆沢城跡~八幡神社
 ●政庁跡付近からの風景。さすがに広く、点々と民家が建ち、田畑もありで全部史跡として買収された訳ではなさそう。 案内板に沿って東外周を巡り八幡宮へ向かいます。 ●鎮守府八幡宮は胆沢城の北東(鬼門)に位置して、延暦20年(801)坂上田村麻呂が宇佐八幡宮を勧請したという由緒がある。説明板 境内は玉砂利がきれいに波模様に掃かれ、うかつに踏み入れるとまずいかも。 ●本殿は享和3年(1803)の建築。 11:30

■八幡神社~再巡橋
 神社から、城跡の北縁に沿って真っ直ぐ西へ向かうと、突き当たりに●胆沢城跡の看板が立ち、その下に石塔や石仏が寄せてある。 左へ行くと神社の鳥居、右へ曲がって民家の先を行くと、●三大清水というのがあります。 ここは胆沢城跡の北西角にあたり、胆沢城を築いた坂上田村麻呂 源頼義・義家の三代が飲用したことから命名された。 説明板
 元の「胆沢城跡の看板」の所へ戻り、真っ直ぐ進むと●鎮守府八幡宮「大鳥居」の下をくぐります。 続いて胆沢川に架かる●再巡橋を渡る。橋の名称は、明治9年の明治天皇の巡行の際架橋された橋が後に流失、再度(明治14)の巡幸で再架橋されたことに因むとか。 12:00

■再巡橋~金ケ崎
 金ヶ崎へ向かって道を下っていき、●下城バス停あたりまで来ると、町役場の特徴的な展望台が見えてきます。 泰養寺先のY字路を左へ、ここが●金ケ崎宿南口の枡形です、すぐ右が「鉄砲鍛冶 松本甚之輔屋敷跡」。すぐ左に●奥州街道金ヶ崎宿南町碑がある。 枡形左角に●千手観音堂。 ここを右に曲がって、200m。 右折して、元の県道へ出ました。●金ヶ崎宿です。 12:20

61 金ケ崎宿
 水沢宿から1里24丁(5.92km)。寛永21年(1644)伊達氏一族、大町氏が金ヶ崎城と城下町を整備。城内地区に旧武家屋敷が保存され(重要伝統的建築物保存地区指定)往時の雰囲気が残る

★城内地区(重要伝統的建築物保存地区)
 ここで雨も降ってきたし、奥方もかなりお疲れのようで、六原へ行くのは断念し、早めに帰ることにしました。 時間も少しあるので重伝建地区である「城内地区」を見ることにしました。 県道から右へ入って、城内諏訪地区へ。入口に案内板があります
 金ヶ崎は伊達藩領内の最北で南部領との境に位置する為、「金ケ崎要害(城)」を築いた。城の周辺に武家武家町、奥州街道の南北両端に足軽町、中央部に町人町が形成された。 城内諏訪地区は武家町の旧態を保持していることから、平成13年に国の重要的建造物群保存地区に選定されています。但し地区内ほとんど居住地で、非公開なので外から眺めるだけになるでしょう。
 案内板の立つ角から南へ進みます。 ●道の両側は生け垣で中は覗けません。 左手に●伊藤家侍住宅。食堂になっているけど、定休日だった。 真っ直ぐ進み「枡形」の所を左右と行くと●山林奉行を務めていた大松沢家住宅。中はレストランの様です。隣の「金ヶ崎要害歴史館」は新型コロナの関係で6月30日現在、県外の人入館不可ということでした。 ぐるっと左回りして「歴史館」の裏手に●片平丁・旧大沼家侍住宅があり、ここは公開中だけど、ひっそりとして外観のみの見学でした。 13:00

■城内地区~金ヶ崎駅
 「歴史館」の北側に●金ヶ崎要害(城)跡があります。案内板 規模は東西550m、南北180mというので、残る跡地はほんのわずか。北上川河岸段丘上に築かれて、●北上川の眺めが良い。 跡地から更にバス道に沿って行くと●金ヶ崎神社があります。 前九年の役に源頼義が信州諏訪神社の社に戦勝を祈願したため、信州から勧請したものと伝えられる。 案内板 金ヶ崎城と同様河岸段丘に位置し、眺めが良いため、近江八景になぞらえて「諏訪八景」が詠まれています。
 その後●金ヶ崎駅から帰宅しましたが、北上まで行く予定が狂ったので、次回は花巻までの長距離になります。 13:40

 014 平泉から水沢 016金ヶ崎-花巻