016-2 黒沢尻宿(北上市)から花巻宿へ    歩行地図 
 北上市本通-上野町-塚越-工業団地-市境-十二丁目-南城-桜町-花巻市街-市役所  13.40km     

62 黒沢尻宿
 金ヶ崎宿から2里22丁(9.23km)。黒沢尻宿は現在の北上市内で、正式な宿では無く「間宿」であった。 北上川河岸の舟運の最も重要な中継基地だった黒沢尻河岸を擁して栄えた。その為間宿にもかかわらず脇本陣、本陣が置かれた。宿駅の機能は本町と新町が分担していた

 016金ヶ崎-北上からの続き
■北上市本通1~2 画像をクリックすると拡大します
  本通り1丁目の●北上信用金庫本店「脇本陣・三浦屋跡」で、●脇本陣跡碑が立ってます。 すぐ先左に「新町の起こり」という説明板も立ってます。 本通り1丁目は、本通り2丁目南側に造られ、新田町と呼ばれた。 交差点を横断すると本町2丁目、「本町」と呼ばれます。 交差点東北角の●松屋呉服店辺りが「本陣跡」です。 松屋呉服店向かいの「さくら野百貨店北上店」前に 「本町のおこり」説明板。 黒沢尻宿は間宿ではあるが、脇本陣、本陣が置かれ、宿駅の機能は「新町」と「本町」が分担して行い、両町共人の出入り多く、商売繁盛していたと云います。百貨店先の●メガネ店が「脇本陣・井筒屋跡」●碑も立ってます。  11:08 

■本通2~上野町
 街道はこのまま北上してもいいのだけど、一応旧道と呼ばれる、1本右側の道も通ってみようと思い、脇本陣跡の先の交差点を右折、旧道を左折して北上します。 ●突き当たりの丁字路が「黒沢尻宿北口の「枡形」らしく、ここを左折します。
 県道39号へ出て、●本町踏切で北上線を渡り、本宮橋を渡り、●常盤台跨線橋の途中で階段を下ると上野町に入ります。しばらく進むと、新堰川に架かる広野橋になり、橋の東側は●「奥寺堰」といい、340年前、奥寺八左衛門が新田開発で開削した用水路です。  12:10

■上野町~塚越
 このあたりで、33℃の炎天下、朝7時過ぎから歩いているもんで、汗が止まらない。熱中症にかかったか、足がけいれんし始め、かなり痛み出したので、左手の神社の石に腰掛けて(こむら反り用薬)を飲んだりして休憩。ここは●塚腰稲荷神社で石段上に社殿あり。 後ろを振り返ると低い位置に 案内板 が立っていて、●二子一里塚でした。 両側がそのまま残っているのは珍しい。感心してしまった。 日本橋から128里(502.8K)、盛岡まで11里(43.2K)の地点。  12:40

■塚越~北上工業団地
 少し収まるのを待ってゆるゆると歩き再開。かなりスピードが落ちました。 ●一里塚を過ぎたあたり、右手は視界の開けた田園風景なのだけど、足が気になって見回すゆとりがなくなっている。
 右手に大きな鳥居が見えてきて、「伊勢神社」と思うけど、鳥居をくぐる余裕がない。 先に進むと右手に銅像があって、●八重樫長兵衛顕彰像とある。後で調べると、元北上市長だった人だそうだ。 右手が「伊勢山公園」で、もう一つ鳥居が見えて、●伊勢神社の参道になっている。 足の具合で上がれなかったが、上がって行けば、立派な「社殿」(神社のHPより)がありますね。 北上では有力な神社らしく、社務所がでかいです。 その先右折するとラグビーで有名な「黒沢尻工業高校」があります。
 その先●北上工業団地のゆるい上り坂となります。 目に付いたのは「Kioxia 岩手」という会社。前身「東芝エレクトロニクス」というメモリ製造工場。日本のメモリ製造は前途暗いのだけど、うまくいってもらいたいと思います。 13:20

■北上工業団地~花巻市境
 飯豊川に架かる成田橋を渡り、その先の丁字路を左折すると、両側に見事に原形をとどめた一里塚が 目に入りました●成田一里塚です。原型のまま現存しているのは全国でもここだけという、交通史上きわめて貴重な遺跡です。 高さは東が3.2m、西が高3m。 塚の所で休んでいると西塚の隣の民家から婆様が出てきて、しばしお話を・・・。結構街道を歩いている人が多いみたいで、・・・大変ですね-と感心しきり。 説明板   一里塚を過ぎると、左手に●観世音、出羽三山など多数の石塔が集められています。 「成田スポーツ交流館」先で●花巻市に入ります。 宮沢賢治ゆかりの街なので、少し旧蹟を訪ねようかと思います。  14:20

■花巻市境~国道4号
  少し行った右手に、ここにも●観世音、月山三山などの石塔群が集められています。 十二丁目という変わった所に入ると、右手に●薬師神社がある。調べた範囲では祭神が大穴牟遅命、少彦名命、大山津見命、伊邪奈岐命、伊邪奈美命のスターばかり。その割には規模が小さいが、きれいに整備されて気持ちが良いです。
 左手の●円通寺は曹洞宗のお寺。 この先ゆるい下り坂になり、やがて国道4号に分断され●行き止まりになりました。その為手前の民家脇を左折して迂回し、広めの道路へ出て右折します。  14:50

■国道4号~南城
 国道4号を横断して行くと、2車線のせまい狭い道となって、台地上なので右手の●視界が大きく開けてきます。右手に●旧外台村の歴史という標柱が立っていて、ここから北上川の間一帯はかって外台(とたい)村といって、明治22年の根子村発足まで、村に「人家が無し」という珍しい村であったという。
 街道右手にポツンとある松は●旧奥州街道名残の松といいます。説明板    この付近に松並木が作られ、寛文5年(1665)、南部藩士奥寺定恒が自費で 苗木を買入て作ったと云われたが、ほとんど切られてしまい、残っているのはこの松と、左手にある●南城小学校校庭の3本だけという。 15:20

■南城~桜町・賢治文学散歩の道
 学校の先右手に●上館跡の標識があり、ここから南城小学校にかけての一帯に館があった。 前九年の役の時に、源頼義が陣所を置いたところと伝えられます。
 この先すぐ左に分岐する道は「岩崎街道」で、岩崎で旧秋田街道に至る道であり、奥州街道が整備されるまでは本街道と呼ばれていた要路だった。説明板が少し左に折れた所にある様だったけど、行き忘れてしまいました。
 その先●右折して行くと、その先に●「賢治文学散歩道」が「桜地人館」まで続いています。 説明板 賢治が花巻農学校を辞め、自らの「理想」実現の為、この地で多くの作品にを作ることになる。賢治の足跡を顕彰しこの地から生まれた作品を碑として設置された。  というわけで、途中、作品に登場する詩碑、●動物のベンチセロ弾きゴーシュなどのモニュメントなどが置かれています。  15:35

  突き当たりに●旧羅須地人協会跡。 大正15年農業指導のため、この地にあった宮沢家別宅を改造した建物。現在は花巻農業高校敷地内に移転している。奥まった森の中に「賢治詩碑」があるようだが見に行かなかった。
 散歩道を戻ってくると、正面は●同心屋敷跡です。茅葺き曲り家の同心屋敷が保存されている。 向御組町(現桜町)同心の始まりは、天正19年(1591年)、豊臣秀吉による奥州仕置きで、花巻城を支配した浅野長政家臣一隊の屋敷が当地に置かれたことに由来する。 屋敷から旧道の市道へ戻る途中左手に●おくらと呼ばれる小屋がある。「羅須地人協会」がこの地にあったとき、その庭にあった建物で、協会が移築された際に、近所の青年がこれを譲り受け保存していたという。「おくら」とは肥料や農具を入れておく物置と厠を兼ねていた小屋のことを指すらしい。 15:45

■桜町~松庵寺
 豊沢川に架かる●豊沢橋を渡ります。橋の欄干に「雨ニモマケズ」のプレートが架けられていました。渡った先、左側の民家の前に●一里塚跡の標識が立っています。高さは15尺(4.5m)もある立派なもので、城下町花巻の表玄関に威容を誇り、別名「錦塚」とも呼ばれていたという。
 その先左折すると正面に●松庵寺。 浄土宗の寺で、 境内に●文化12年(1815)の餓死供養塔群が建っている。 松庵寺には凶作・飢饉などの際には、粥の施し、看護などの世話をする「救け小屋」が設けられていたと云います。 寺を出て,ドラッグストアへ寄り、経口補水液など買っておきました。相変わらず足はけいれん気味。今日は花巻城跡巡りなど断念し、市役所で終わることにしました。  16:16

■松庵寺~上町
 市道に戻って、左手に●宮沢賢治生家跡の建物がある。門前に石碑が立っているが、一般住宅で非公開。現在賢治の親戚の方が住んでいるという。その先の十字路を左折するのだが、●花巻宿入口の枡形で、すぐ●右折することになる。 曲がった先が●館坂といって市役所へ向かう上り坂になります。  16:35 

■上町~花巻市役所
 坂を上がった、花巻市役所交差点の左手角は、●求康堂跡●石碑が立ってます。求康堂は賢治と親交あった内村鑑三の高弟だった斎藤宗次郎(1877~1968)が営んでいた新聞、書籍類の販売店です。2人の関係が賢治の作品にキリスト教の影響を与えたといわれます。 右正面が●花巻市役所。 本日はここで終わります。 右折して駅前のホテル「ブランシェール花巻」へ向かいました
 16:45 

■市役所~花巻駅
 ホテルへ向かう途中●せせらぎ小路」といって、●大堰川の両側が気持ちの良さそうな散歩道になっていました。 駅へ向かう道を右折した先、左手に●「銀河鉄道の夜と活版所跡」という案内板が立っていて、「銀河鉄道の夜」で主人公のジョバンニがアルバイトする活版所として描かれた場所とされる。詩集『春と修羅』を印刷した場所でもあった。現在は「照井菓子店」になっています。
 ホテル到着  17:10 熱中症でまいりました。

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