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2020年8月27日 ■金ヶ崎駅~三ケ尻 前回、三沢から北上へ行く予定のところ、雨で金ヶ崎で終わってしまい、今日は強行軍で花巻へ行ってしまいます。その為「新宿-矢幅」間の夜行バスを使い、金ヶ崎駅まで戻りました。駅に7時前に到着。朝飯食べたりして●金ケ崎駅、7時20分に出発。 朝からかなり暑いです。 街道に戻って北上。 矢来交差点の先で、県道の方は左カーブして行き、旧道は右へ曲がる●金ヶ崎宿出口の「枡形」にあたるのでしょう。 宿内川を渡ると三ケ尻集落へ入り、左手に「奥州街道碑→」があり、その先右手、加藤商店前バス停脇に●清水端一里塚があります。 街道を挟んだ東西に杉を植えた塚が築かれたが、現在は東塚に樹齢400年の杉の切り株部分だけが残るだけ。 説明板。 その先の右手に●丸子館跡説明板が立って、このあたり一帯は三ケ尻氏(葛西三郎詮義三男清義を祖とする)の館「丸子館跡」とされる。 説明板 7:45 |
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■三ヶ尻小学校~浄化センター南 学校を通過した先は●杉林の続く気持ちの良い道が続きます。 右手に●色々の旧蹟を示す案内標が立っていて、隣に史跡地図もあり、右折して行くと「工兵隊兵舎跡、穴山堰、御蔵場跡、東浦洞窟跡、岩手青年師範学校跡」へ至り、真っ直ぐは「奥州街道 瘤木足軽屋敷跡 馳蔵社 乳富久社 愛宕社」などへ至る。 右手の方も興味深いですが、あんまりたいしたものではないように思ったので、そのまま先に進みます。 すぐ隣は●藤明神社。地図の愛宕社にあたります。 先に進みますが、この先北上浄化センターで分断されてしまうので、足軽屋敷跡などは見ることはできないでしょう。 更に北上すると、●林に遮られて通行止め標識。その先を入って行くと、●ヤブで進めない。 あえて進んで浄化センターを抜けたという記録もありますが、無理することもないと思って、少し戻って「国道4号」を通過する迂回路へ向かいます。 8:15 |
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■浄化センター~岩の目公園 ●センター前からまっすぐに北上します。林を過ぎて。右手の「岩の目公園」一帯は、明治天皇が東北巡行小休された千田力之助邸跡です。 右の崖下で湧き出る清水を御前水として差し上げ、以来御前水と称され、園内に●明治天皇行在所碑が建っています。 説明板 更に進むと。下り坂になり、●三叉路の右手に見事な桜の樹が伸びて、根本に「巳己供養碑と庚申供養塔」と彫られている石板が置いてある。ここらあたりの旧道は消滅しているらしく、道は左カーブして県道に進むのだが、●道標の「奥州街道← →奥州街道」に従い鋭角に左へ進みます。(振向写真 右が下ってきた奥州街道) 9:00 |
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■相去~鬼柳 ●相去町の町並み。宿駅ではないが、仙台藩の北端に位置し、番屋が置かれた足軽町だったといわれます。左手に●「相去御番所跡」。明暦2年(1656)南部領との北境の当地に番所が設置された。 説明板 すぐ先の左手に●南部藩と伊達藩の「境塚」がある(塚は復元のもの)。天正19年(1591)秀吉による全国統一後、領地を接する南部氏と伊達氏との間で度々境界争いが起きた為、 寛永18年(1641)江戸幕府による裁定で、境界が定められた。説明板の位置が当時の境界だそうです。 説明板 塚の所を左折して、東北新幹線高架に向かい、高架に沿って右折すると、畑の前に説明板が立ち、●南部領鬼柳御仮屋跡になります。 南部藩はこのあたり鬼柳町を作って町割りを実施、寛永7年(1630)宿駅が置かれ、本陣同様の設備を持つ「御仮屋」が設営された。 明治2年の大火で町内35軒の民家と共に焼失しましたという。 説明板 9:55 |
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■和賀川~北上市大通り 九年橋を渡り、交差点右手の「ファミリーマート」裏に●和賀寺観音堂。当国観音霊場第三十三観音33番札所というお寺。住宅の中にポツンと一軒。 交差点から●二つ目の角を曲がると、すぐ左折し、ここが「間宿黒沢尻宿南口の枡形」といわれます。 公園横を通って進むと、●県道112号とぶつかり、真っ直ぐ北上するのが旧道と思われます。「調査報告書の地図」、無明舎本の地図共、県道の1本右手を通っており、それがこの北上する道にあたると思います。しかしここは人通りのあまりない、寂れた道で面白くなく、本陣跡とか旧蹟は左手の県道にあるので、左折して●本通1~3丁目を北上します。黒沢尻宿に入りました。 ここまでが前回歩く予定だった所になります。 10:50 その2に続く |
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016 水沢宿~金ヶ崎宿 | 016-2 黒沢尻宿~花巻宿 |