018 日詰郡山宿から盛岡宿へ    歩行地図
 紫波中央駅-高水城-徳田-徳丹城-見前-仙北-鉈屋町-下ノ橋-紺屋町-本町通-上ノ橋-旧四ツ家町  19.55km

2020年10月15日
■紫波中央駅~御幸新道  画像をクリックすると拡大します
 前回熱中症に罹ってしまい、盛岡まで行けなかったのでリベンジです。夜行高速バスを矢幅で下車。JRで紫波中央駅まで戻り、駅で朝食など食べ、●「日詰郡山宿北口出口」まで来ました。まだ7時前です。左折するとすぐ国道4号に合流し、道向いは●勝源院。 勝源院は慶長16年(1611)開基の曹洞宗のお寺。山門は風格ある二重四脚楼門で、二階に仏像が安置されている。本堂裏手に●逆さカシワというのがある。 説明板  枝が根のように見える為にその名が付く。前九年の役の折りに源頼義・義家父子が手植えしたという伝説がある。 国道に出て、城山入口交差点を右折しますが、正面の石垣辺りが●二日町一里塚跡で、以前は標柱があったようですが、見当たりません。  7:10

■御幸新道~高水城跡
 城山交差点を右折したすぐ左に●「大元帥陛下御幸新道」碑が立っており、明治の行幸の為に整備された道でしょう。その先●三差路を左折しますが、真っ直ぐ行くと、山の上が城山公園として整備された「高水寺城址」なのでそちらにへ向かいます。石段を上がろうとすると「熊注意」の看板のお出まし。一瞬ギクっとしたが、まあ大丈夫だろうと上って行きます。「高水寺城」は標高180mの北上川段丘に築かれた山城で、中世斯波氏累代の居城。 天正16年(1588)の南部氏攻略まで続き、その後南部氏により「郡山城」と改名。寛文7年(1667)に至り破却されている。 説明板 最頂部に●「御殿跡碑」、御殿跡に勝負の神、災害除けの神●愛宕神社があり、破風の上に「愛」の文字が乗っかっています。 7:30 

■高水城跡~走湯神社
 三差路に戻り北上、●二日町向山の町並み。左右はりんご林。右に曲がるあたりに「代官所」があったといわれるが、見当たらず。左に曲がると●高水寺(右)、左に「走湯神社」が並びます。高水寺は城山の北西麓に位置した古刹で、寛永年間(1624年~)盛岡城下に移され、明治初年廃寺となったという。称徳天皇の勅願によって創建されたと伝えられ、往時は40余の坊が荘厳さを競ったといわれます。現在のはその寺跡。 収蔵庫に木造十一面観音立像があるという。
 ●走湯神社は文治5年(11189)源頼朝が高水寺の鎮守として伊豆の走湯権現から勧請し、祭神は天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)。  藤原清衡が勧進したという小さな「大道祖社」もあって、頼朝がその後ろにある大ケヤキに戦勝祈念に矢を放ったというその●大槻(ケヤキ)が参道に残っていました。  7:55

■走湯神社~高水寺
 その先、T字路手前に●木宮神社がある。 延暦年中(782~)、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐、東奥開拓で下向の折に志波城を造営、城内の鎮守として伊豆国、来宮神社を勧請したのが起源とされる。代々斯波氏に尊崇され、後に南部氏歴代藩主からの篤い崇敬を受けてきた。境内に樹齢400年を超す3本の「ケヤキ」(町天然記念物)があります。
 道は左に曲がり、右斜め前方で国道に合流します。 すぐ先で又右前方の「高水寺地区」へ入ります。●高水寺の町並み
右手に●幡龍寺。当国三十三観音第7番札所にあたります。寺の左隣に●に明治19年創業の「横澤酒造店」がある。「月の輪」という酒の蔵元で、入母屋・千本格子の風格ある建物です。  8:15

■高水寺~東徳田
 ●国道へ出て、三枚橋を渡ると矢巾町に入ります。 そこから結構長く、右手の「エコレストランあいのの」を過ぎた右側に●奥州道136番目「間野々一里塚跡碑」がある。標柱だけで塚は残っていない。「南部藩士清水右衛門秀全画「増補行程記図」より」と書かれた絵図も描かれている 案内板 が立っているのだが、絵図が摩滅しているのが残念。
 東徳田を過ぎると左右に徳丹城址が広がります。入口 ●右手奥に参道が続き、●徳田神社が鎮座しており。徳丹城の南門跡にあったとされる。  9:10

★徳丹城
 徳丹城は坂上田村麻呂によって築城された志波城が雫石川の氾濫により 使えなくなり、弘安3年(812)頃、文室綿麻呂により移転、造営された、律令制最後の城柵です(国史跡)。説明板 規模が大きすぎ素人の写真に収めきらないので、資料館の航空写真を見て下さい。  規模は一辺約350m四方。外郭を築地と材木で囲み、内部に官衙の建物群が置かれた。 左側の1/3位が国道で分断されていて、右手矢巾小学校南側一帯が●官衙跡。 左側に●西辺柵跡。 資料館とその隣に●曲家が建っており、村役を勤めた佐々木家の建物(建坪90坪)で、南部地方特有の居住区と●馬屋が一体となった形式です。 9:45

■徳丹城~東見前
 国道の左側を北上。「矢幅駅入り口」交差点を過ぎると、左手に●高田藤沢稲荷神社。祭神は宇迦之御魂命だが元々の地主神は熊野神。 前九年の役の頃、源頼義が熊野社を勧請したのが起源。宝永4年(1707)現在地に遷座以後、歴代藩主から篤く崇敬され、幕府巡検使も奉拝しています。
 この先は少し長く、髙田を過ぎ、●見前橋を渡ると、盛岡市に入ります。右手に●今宮神社があり、参道手前に「見前町と御制札」という案内板が立っていて、それによると・・・見前町は藩政時代の宿場町であり、百姓一揆などを取り締まる制札が立っていた。またこの町は「塚根」と呼ばれ明暦3年(1657)に築造した一里塚が残されていた・・・とある。この塚はすでに無くなっている。 すぐ先から街道は大きく左カーブし、正面に●岩手山が良く見えた。  10:50

■東見前~川久保
 この先、1時間以上旧蹟の類は何もなく、ひたすら国道を北上します。 やっと到着した「大国神社前」交差点の左角に、●広い境内地があり、●大国神社、八坂神社などが固まって鎮座してます。大国神社は文化7年(1810)10代藩主南部利敬が津志田の総鎮守として創建した。 その昔、この界隈は津軽町と称した遊郭街として賑わい、 遊女や楼主が奉納した「絵馬献額」などが盛岡市有形文化財に指定されている。 境内に馬頭観音、月山 湯殿山 羽黒山などの石塔群や「吉田松陰遊歴之地」などの石碑も置いてある。
 その先、津志田交差点左手に、身寄りのない遊女を葬った●いたこ塚というのがある。説明板 その先の●歩道橋手前が左に折れていく「稲荷街道」との追分で、案内板によると、この辺りに盛岡城下の鍛冶町(紺屋町)元標から南一里にあたる「川久保一里塚」があったという。 説明板(摩滅して見にくい)。 稲荷街道とは分岐点から南西方向(写真の左方向)へ向かい、天保5年(1834)13代南部利済が志和稲荷神社参拝の為、川久保一里塚を起点として日光道中を模して整備した街道をいいます。このあたり、追分として茶屋などが置かれ賑わったそうです。 12:30

■川久保~南仙北
 ●歩道橋上から稲荷道との分岐を見ます。 左が歩いてきた国道4号(ほぼ奥羽旧道を踏襲)、右前方へ行くのが矢巾町赤林、広宮沢、紫波町上松本を経て志和稲荷神社へ至る稲荷街道(約16Kの行程)。左右に土手を築き、松並木、一里塚が築かれた。
右手、オーロラ薬局後方に●赤い鳥居の小社と「明治天皇小次遺趾碑」がある。 
 歩道橋から国道4号と県道16号が別れ、旧道は県道の方だが、国道を少し行った左手に、悲運の武将という●北十左衛門の墓碑が建っている。 説明板  街道へ戻り県道を北上すると、感音寺の斜向かいに●題目供養塔が建って、「盛岡藩の小鷹刑場」跡地です。少し行った所に足軽同心組の屋敷や枡形があったといわれているが無くなっている。  12:50

■南仙北~長松寺
 「仙北北町」の広い交差点は地下道を通らねばならず、地下道から東北方面へ出て、●脇の細い道を右斜めに入ります。「仙北小学校」脇を通り、進んで行くと右手に●千日堂不退院がある。盛岡三十三観音霊場第13番札所で、享保の大飢饉の時に南部藩が死者を千日河原に埋葬した時に当所に不退院なる草庵を造ってその霊福を祈ったといわれます。
 左手から抜けて行くと●長松寺があって、こちらは第12番札所。 境内には仙北町の火災除け為、寛政年間(1789~)遠州秋葉神社を勧請した「秋葉三尺坊大権現」を祀る●鎮守堂秋葉殿というお堂があります。 13:15

■長松寺~明治橋
 寺の裏手、墓地脇を進んで行くと高屋稲荷神社跡があって、神社は無くなっているが、 跡地にはゆかりの●大ケヤキが残っています。 細い旧道を抜け北上川へ出ると、●「新山舟橋」が架かっていた跡へ出ます。 北上川はこのあたり最初は渡船によっていたが、延宝8年(1680)舟橋が架橋された。詳しくは対岸の船橋跡に説明板がある。 明治7年に明治橋が架橋されるまで存続していた。舟橋の下手に「新山河岸」があり、北上川舟運の起点として栄えたと云われます。
 現在は左手の●明治橋を渡ります。後方に「岩手山」。橋から●新山河岸跡を見る。 北上川は明治橋上流で、雫石川、中津川などと合流し、 この辺りから川幅が広くなり、舟運の起点としてふさわしくなってきます。 「明治橋南交差点」向こう側に豪商徳田屋清右衛門が創業した「徳清倉庫群」が連なります。  13:25

■明治橋~圓光寺
 明治橋を渡って新山舟橋跡へ向かって、土手沿いへ行こうとすると●道路工事で通行止め。「明治橋北」交差点から迂回して行くと新山舟橋跡となり、●明治橋碑があります。 説明板  江戸時代、このあたり盛岡城下入口に当たり、北上川舟運の起点だったことから、人が集まり物資の流通も多く奥州街道の要所として栄えた・・などと説明してある。 
 明治橋北交差点から●南大通りへ進むと、古い商屋風な民家が続きます。右に折れると●円光寺になり、山門前に南無阿弥陀佛碑、何故か大きな擬宝珠が造られてます。 13:36

■圓光寺~惣門前
 ●本堂は入母屋造りの妻入りが珍しい。左手に●首塚とお堂があって、キリシタンで処刑された父の首を盗み出して供養したお蓮にまつわる伝説があります 。詳しくはこちら(岩手県歴史散策より)  。 この寺は盛岡市出身の海軍軍人・政治家の「米内光政」の菩提寺でもあって、その●光政の墓があります。 先に進むと●T字路で旧道は左折して城下南枡形に入りますが、右折して鉈屋町界隈を少し寄り道します。 右折すると「遠野街道」です  13:45

■鉈屋町界隈
 右折して進む●鉈屋町●伝統的な町屋建築などが続く風情のある町並で、散歩するには面白い。元は京都の富豪鉈屋長清が当地で、釶屋山菩提院を建立したことに由来し、変遷を経て文化9年(1812)城下の一町となったという。 説明板 
 右手に●大慈清水という清水が湧き出ている場所があって、右から一番井戸(飲料水)、二番井戸(米とぎ水)、三番井戸(野菜や食器洗い)、四番井戸(足洗い)と用途により使い分けがされている。 当地は江戸時代より良質で豊富な湧水に恵まれたことから、酒 醤油 味噌等醸造業が盛んでした・・と案内にもある。 その先右手の旧岩手川酒造跡に、●観光案内所や特産品を販売する「もりおか町屋物語館」、奥に望楼を乗せた「鉈屋町番屋(第二分団)」があります。 13:52

 番屋の対面に●「三喜亭」という町屋が一軒。旧毛皮商「藤原峯治商店」で、女優「三原葉子」生家となっています。 ここを左折し、すぐ先右奥に、由来は不明だが、昭和4年に建立されたという●三面地蔵尊というのがある。三面に顔が造られた地蔵は見たことがない。あらゆる方向を見守るということかな。
 その先右手一帯に●」あさ開酒造」の工場が広がる。 突き当たって右へ行くと●らかん公園があり、公園内ににコの字型に並ぶ十六羅漢像・五智如来像が並ぶ姿は壮観そのもの。これは南部藩四大飢饉(元禄・宝暦・天明・天保)のときの多くの餓死者を供養するため、起工から13年目の嘉永2年(1849)竣工したものという。説明板  14:07

 らかん公園から少し戻って右折して行く。大慈寺小学校の北側に珍しい●中国様式の山門が建つ寺は●黄檗宗「大慈寺」です。寛文13年(1673)の創建。 盛岡三十三観音霊場第6番札所で、政治家の「原 敬」の菩提寺です。境内にその●原敬の墓所があり、叙勲等を嫌った遺志ににより単に「原敬墓」と刻まれ、奥は奥様の墓となっています。
 寺の斜め前に●青龍水という清水が湧いていて、先の大慈清水と並んで盛岡三大清水の一つ。 水を汲んでいた人の話だと、水は「大慈寺」のある高台から染み出して来るのだそうだ。ちなみにあと一つは「御田屋清水」といって、盛岡藩主の別荘「御田屋」(おたや)に湧く泉で場所は大通り1丁目、盛岡城跡公園の西北の角にある。 これで大まかな散歩は終わりです 14:20

■惣門前~下ノ橋町
 元の城下南枡形の所へ出て右折すると、右手に●盛岡城警備総門趾碑が立って、盛岡城内の南の玄関口である「穀丁総門」が置かれて、出入の通行人や荷物等改めの番屋が置かれていたという。 すぐ先右手に立つ大きな商屋建築は●木津屋本店で、寛永15年(1638)池野屋初代小間物商として創業した老舗。現在の建物は天保5年(1834)のもの。木津屋池野藤兵衛住宅として、隣接する土蔵と共に、 岩手県の有形文化財に指定されている。 説明板 
 南大通り2丁目交差点はそのまま横断、突き当たりの●T字路を右折します。右に曲がると左手に●レンガ造りが特徴的な洋館が一棟。「東北総業」という看板が架かってます。調べると明治末期の建築で、木津屋の分家「池野七太郎」により倉庫として造られ、銀行、印刷所を経て現在に至るということらしい。 14:35 

■下ノ橋町~紺屋町
 左手一帯は「盛岡城址公園」だが、時間があれば見てみようと思う。先に進むと左角に●「もりおか啄木・賢治青春館」がある。(国文化財)。 明治43年旧第九十銀行本店として建てられた。設計は盛岡出身の横濱勉。外観にロマネスク建築様式を取り入れ、当時の欧州の自由な建築運動を、いち早くこの建物に反映させていると云われる。 その先、左角に見られる堂々としたレンガ造りの建物は、明治44年旧盛岡銀行本店として建てられた●「岩手銀行旧本店本館」(国文化財)。 設計者は東京駅を手がけた「辰野金吾」と盛岡出身の「葛西萬司」。説明板 中は見学できます。
 右斜めの ドーリア式柱を用いたギリシャ建築を思わせる重厚な建物は●「盛岡信用金庫本店」。昭和2年に「盛岡貯蓄銀行」の店舗として開設し、昭和33年に同信金がその建物を譲り受けた。市保存建物に指定されている。
 その先街道は大きく左、右にカーブして、枡形の様な感じになり「盛岡宿」へ入って行きます。 カーブする所にある町屋建築は●「茣蓙久(ござく)」。 文化13年(1816)創業で雑貨屋を営む。江戸後期、明治中期、末期と次々に増築されて、ここも市の保存建築物に指定されている。 14:55

66 盛岡宿
 日詰郡山宿から4里11丁(16.88km)。南部氏20万石の城下町。中津川、北上川の治水を治め盛岡城を根拠にしたのは寛永10年頃(1633)。その頃から北上川舟運を中心に栄えてきた。宿場のとしての中心は鍛治町(現紺屋町)にあり、宿場の中心としてだけではなく、盛岡城下の中心として栄え、豪商達の店が軒をつらねていた

★紺屋町
 ●紺屋町に入ります。旧盛岡宿が置かれた所です。交差点左角に屋根に六角形の望楼が付いた不思議な建物がある。●紺屋町番屋といって、明治24年「盛岡消防よ組番屋」として現在地に建てられた建物を、大正2年、「消防組第四部事務所」として改築されたもの。現在は「盛岡市消防団第五分団」が使用しているようだ。 左手に●菊の司酒造。「七福神」という酒の蔵元。安永年間の創業になる。土蔵の前に、「城下盛岡町名由来 紺屋町、鍛冶町、紙町」と題する案内板が立っていて、一帯が職人町だったこと、鍛冶町に一里塚があったこと、駅所が置かれたことなど書いてある。ただ、現在、鍛冶町が地図になく、紙町は「上の橋」両詰めに置かれたというし、鍛冶町とはどのあたり・・というのが疑問です。 左手に紺屋町らしく、染め物屋さんがあります。その先の●マンションの前「鍛冶町一里塚跡碑」がある。 日本橋から139番目にあたり、ここが盛岡藩内の全ての道の起点になっています。
 15:05

■紺屋町~本町通り
 「上ノ橋町」交差点を左折します、右角に●「旧井弥商店」(現盛岡正食普及会)という古めかしくも黒漆喰の土蔵造りの建物がある。明治末期のもので、呉服屋の店舗だったが、現在でも事務所で使われている。1970年に屋根が火災に遭い、二階は現代化されているという。
 左に進むと中津川に架かる●「上ノ橋」。 上ノ橋は、南部藩主南部利直が盛岡城を築くと同時に中津川に架けた橋。擬宝珠18個の内慶長14年のものが8個、慶長16年のものが10個あり、現在まで続いて、国の重要美術品に指定されている。
 渡ると「本町通り」に入り、昔は「 京町」といって、京都から移住した豪商達が住み着いたという所。 ●本町通り交差点は「小本街道(おもと)」との追分で、右角に●「是よりは小本街道 牛追の道」と刻まれた追分道標があります。 ここから早坂峠を
経て小本(岩泉町)へ至る街道が分かれ、牛の背に塩・木炭などを乗せ、牛方が南部牛追い歌を歌いながら峠を往復したという。
  15:25

■本町通り~本町通2(旧四ツ家町)
 ●左角に四ツ家教会がある交差点を右折、「本町通2丁目」で左折します。北の枡形があった所です。本町2丁目は旧四ツ家町といって、宿出口にあたる。●大きく右カーブする辺りが「四ツ家惣門跡」で左手に●「大智田中地蔵堂」がある。祀られている● 地蔵は4代南部重信夫人「於俊の方」の菩提を弔うため、5代南部行信が元禄7年(1694)荼毘に付した火屋跡(那須川町の東禅寺門前)に創建して後、大正元年現在地に移転された。 説明板  街道はこの先JR山田線を越えて行くが、本日はここで終了し、左折して駅に向かいました。ホテルは駅前の「ルートイン」でした。時間があったので盛岡城を少し見ました。15:45

 017 花巻-紫波中央 019 盛岡-好摩