019 盛岡から好摩へ      歩行地図
 盛岡駅-四ツ家上田-高松ノ池-東黒石野-県立博物館-小鳥沢-笹平門前寺-渋民-芋田-好摩  20.81km

2020年10月16日
■盛岡駅~四ツ家惣門跡  画像をクリックすると拡大します
 盛岡へ来て二日目。今日は好摩辺りまで行こうと思います。駅前から四ツ家惣門跡へ向かうため、まず「旭橋」を渡ります。橋渡ると「材木町」で、橋の左手川岸沿いに、江戸期から明治期にかけて、材木町の各店が負担して築造した●「材木町裏石組」が残っています。舟運の荷積み、荷下ろし用の14ヵ所の石段が設けられ、洪水防止に現在でも役立っているといいます。説明板
 中央通りを右に曲がって、北側に●「石川啄木新婚の家」というのがあり、啄木と堀合節子が明治38年6月から3週間、新婚生活を送った。屋根は茅葺きだったと思うが、銅板葺きに変わっている。その先「岩手山神社」など見つつ、●四ツ家町惣門跡へ到着しました。 9:00

■四ツ家惣門跡~岩手大学農学部
 ●上田通りを北上し、JR山田線を渡ると、「上田町」へ入ります。右手の「県立中央病院」の前に「上田町町名由来の説明板」があって、足軽同心組の武家屋敷だったことに由来し「上田同心町」とか「上田町」とか呼ばれたと説明してある。
 西側に入って行くと●「県立盛岡第一高等学校」があり、「公立岩手中学校」として明治13年創設。石川啄木・宮沢賢治が学んだ母校です。 その西隣が「岩手大学農学部」。前身は日本最初の高等農林学校として設立された「盛岡高等農林学校」で、明治35年、冷害の克服や食料の安定供給の実現のため、農業振興と技術革新、指導者の育成の為に創立された。大学に南側が「植物園」になっており、南門から入って、まず西側に造られた●「旧正門」へ向かいます。こちらが農林学校時代の正門で、門を入った左に、明治36年建築の●寄棟風八角造り「門番所」(国文化財)があります。案内図 9:25

★岩手大学農学部付属植物園
 園の中程に、大正元年、盛岡高等農林学校本館として建てられた●「農業教育資料館」(国文化財)がある。木造2階建て欧風建築です。説明板 資料館南西の温室辺りが●啄木の妻節子の実家跡です。 節子の生家は「南岩手郡上田村上田新小路11番地」とされて、現在の温室辺りであったことがわかったという。 温室横に節子の生家の●「車井戸」が復元されている。節子の生年が明治19年で、明治23年新山小路に移り、その後明治35年に農林学校設立となっています。 

■植物園~高松神社
 街道に戻り、先に進むと右手に●「正覚寺」。盛岡三十三観音霊場第18番札所です。入口に読みにくいながら案内板があって、浅田次郎の小説『壬生義士伝』主人公の吉村貫一郎が、のちに妻となるしづと初めて出会った場所としてある。
 国道4号とぶつかる「NHK前交差点」で地下道を潜り、「高松池」方向に出て進むと、右手に桜の名所として知られる●「高松ノ池」が広がります。盛岡城下の治水を目的として、このあたり一帯の沢に上・中・下の堤が築かれ、その内の中堤跡です。桜1000本が植えられ、 日本の桜の名所100選に選ばれている。
 北上した右手に、●●「高松神社」(参道と社殿)があります。寛永2年(1625)寺町の三郎兵衛三太夫の発願により創建された神社とのこと。祭神は猿田彦命、古くより「お庚申さん」と呼ばれ、古くから親しまれてきたそうだ。 10:08

■高松神社~東黒石野
 「高松4丁目」交差点で、広めの市道と合流し、真っ直ぐ北上します。左側に「盛岡三髙」、緑ヶ丘に入ると、左のアネックスカワトク前の歩道に、●「上田一里塚西塚」がある。盛岡城下、鍛冶町(紺屋町)里程元標から北1里にあたる。 現在は西塚のみが残る。その先街道沿いに●甲州街道名残の松並木が少しばかり残っています。その先は黒石野地区に入り、● 長い下り坂が続く。 市道は「黒石野バス停で右へ曲がっていき、旧道は手前の●フェンスが切れる所を左へ入って行きます。 10:48

■東黒石野~県立博物館
 落ち葉の積もる細道を下って行き、●五叉路を横断した先から、急坂の「松屋敷」になります。 夏だとどっと汗が噴き出す様な坂で、かつて「座頭転がし」と呼ばれたらしい。ピークあたりに●「壱願観音堂」というお堂が建っている。堂内には●沢山の仏が祀られていますね。新興宗教風であんまり詳しくは見なかった。 その先ピークを過ぎて●県立博物館に向かう下り坂になります。
  11:05

★県立博物館
 岩手県立博物館第1駐車場前に●「明治天皇駐蹕之地碑」。 明治9・11年の東北行幸の記念碑。 ●岩手県立博物館は岩手県制百年を記念して、昭和55年にオープンした博物館です。地質時代から現代にいたる地質・考古・歴史・民俗・生物などの資料が展示され、岩手県の自然と文化が理解できるようになっているというのがコンセプト。 
 南側に屋外展示されている、●直屋(すごや)の「旧藤野家住宅」は江刺市から移築され、江戸後期の建築。 ●「曲がり屋」の「旧佐々木家住宅」は岩泉町から移築された、右に馬屋付きの片入母屋茅葺のいわゆる南部曲家。幕末から明治初期の建築という。左側に馬屋が付く例もあるそうです。徳丹城址に建つ「佐々木家」に比べると大部小さい。  11:10

■県立博物館~小鳥沢2
 博物館を出て進むと、左には盛岡少年刑務所、県立青松支援学校等が続きます。旧道は右へ曲がって行き「水辺公園」あたりでT字路にぶつかり左折、●黄葉化始めた道路を気持ちよく歩きます。道路から見えないけれども、左手奥に「南部片富士湖」というダム湖があるはず。やがて●小松野一里塚が見えてきます。東西の塚が現存しています。奥州奥道中は両側の塚が残る例が多く、街道らしくて大変素晴らしい。  少し先右手へ入ると、●「小野松観音堂・里宮」というのがあって、朱の両部鳥居が建つ。こちらは山麓の里宮であって、奥宮は右斜め先にある「小野松山」山腹に鎮座しているという。  11:40

■小鳥沢2~南部片富士湖
 市道の方は「小野松橋」を渡るため高さを上げていくが、旧道はその脇を右へ進み、大きく右カーブする左に同名の●「小野松観音堂」があって、こちらには「やすらぎの里」と刻まれた石碑が立ち、奥に石造り観世音菩薩像、十三重塔などが建つ。
 その先は湖畔に沿って左回りに大きく回るルートを取ります。しかしこのルートも北上川がダム湖により水位が上昇して、旧道は水没していると思われるので、迂回路かもしれません。回り始めのすぐ右手に●「おの松かんのん清水」という清水が湧き出している所があります。「小野松観音堂奥宮」は右手の登山道を上るようです。道はやがて●「小野松橋」を渡って来る市道と合流し、旧道は渡り終わったあたりから、ダム湖である●「南部片富士湖」真ん中辺りに水没して北へ向かっています。12:02

■富士湖~岩洞第二発電所
 しばらく湖畔を巡る迂回路をクネクネと歩きます。途中の左手に●二十三夜塔、金比羅、青面金剛等の「石塔群」がある。 やがて右手からの県道16号に合流。 左手ガードール脇に「新奥の細道 岩手山眺望のみち」の案内板が立っていました。左折して県道を進みます。すぐ先左手に先ほどの案内板の終点である●春日大明神の小さい洞がありました。
 しばらく進んだ●分岐点(左手 岩姫橋 右手 柳平水辺公園)へ到着。 この分岐点手前に玉山村の歌人「田鎖清歌碑」があるはずのところ、看板だけが立っていて(田鎖清歌碑は「滝沢市大崎261-17」)へ移転したという。左手の岩姫橋を渡った先の「滝沢駅」の所にあるようだ。またこのあたりに水没していた旧道が湖から合流してきている。
 右へ進む,左手に「柳平水辺公園」があり、トイレ休憩できます。その先「笹平大橋」から前方に●「岩洞第二発電所」の長い導水管が伸びているのが見える。 12:50

■岩洞第二発電所~門前寺
 橋の左手に「第二発電所」の水を灌漑期間のみ岩手山麓の水田に水を送る●「導水管」が北上川を横断しています。 「笹平」に入ると左手集落入口に●標柱「笹平一里塚」が立って、 民家の中に塚があるはずのところ、標柱にはテープが巻かれているので、現在は無くなっているようです。 その先、20分程クネクネと進むと右手に、●「明治天皇御小休止址」碑が建つ。明治9年行幸の際、野立を楽しんだと云われる。説明板  すぐ先の峠下には「東北新幹線柏木平トンネル」が通っている。その先で、やっと湖畔のクネクネ道も終わり、真っ直ぐな●「柏木平集落」に入ります。 13:30

■門前寺~門前寺橋
 両側が広い牧草地になって、「玉山区重要眺望地区」の看板が立ち。左手に●「岩手山」右手に●「姫神山」の両方の眺望が大変素晴らしい。 ●「門前寺集落」入ってきました。酪農農家が多いせいか、「柏木平集落」と同じようにマンサード形式の建物がが多くみられます。 「濁川」が造る河岸段丘の上から下って行き、●「門前寺橋」を渡った先で県道169号は左へ曲がり、旧道は正面の急坂を上ります。河岸段丘を上がる形で、ちょっとうんざりしますね。 13:45

■門前橋~渋民入口
 坂を上がって行くと、両側は「盛岡工業団地」が広がり、●「ミクニエーム」という看板の所が頂点らしい。そこから下りになり、左へカーブして、国道4号の高架を潜る。 小川手前の右民家前に●「渋民一里塚跡碑」の標柱が立ってます。脇に小さい塚の様な形の土盛りがあるけれど、これは民家の人が作ったものでしょう。
 その先で県道に合流。●「渋民愛宕神社前交差点」で、「渋民宿」に入ります。 いうまでも無く、石川啄木の故郷ですね。交差点の手前右には●「愛宕清水」があり、愛宕神社境内から湧き出る泉で、古くより地元の生活用水として使用されてきたという井戸があります。  14:15

67 渋民宿
 郡山宿から4里20丁46間(17.94km)。石川啄木の出身地として有名だが、渋民宿は盛岡を出て最初の宿場で、入口と出口には柵戸が置かれてあった。 盛岡以北の奥州街道を参勤交代に 使ったのは松前氏と八戸南部氏くらいで、 この為、宿場の間隔は長めになり、旧城下町以外の宿場は規模も小さいものが多かった。 渋民は元岩手郡渋民村であったが、平成18年に盛岡市に編入されている。

★愛宕神社
 交差点右手が「愛宕神社」で、●森に上がる参道が続いている。この参道は石段では無く、四角柱が並べてあるだけなので、雨上がりなどは滑って危険な感じです。上ると●愛宕神社の社殿が鎮座。啄木はこの愛宕神社のある森を「命の森」と呼び、好んで散策したと云われています。説明板  森から●「渋民宿」を俯瞰してみた。神社から宝徳寺まで散策路が続いているということでした。(行かなかったけど) 14:20

★渋民宿
 ●渋民宿の町並み。宿内には真っ直ぐな県道が貫き、両側に柵戸が置かれたと云うので、枡形があるのでしょう。 左手に正面「里程標五里」と刻む●「里程標」があります。
 「薬王堂ストア」でおやつを買い、看板の所で食べていて、ふと横を見ると、「明治天皇行在所」の石碑が立っている。隣が●「大塚屋」というコンビニ。ここが先に見た「天皇小休止址」説明板による・・・渋民村駒井太兵兵衛(大塚屋)宅で昼食をとった・・・、という「大塚屋」とわかり、店の右端に●「明治天皇渋民行在所碑」がありました。
 その先、啄木記念館交差点を右折、奥に●「啄木記念館」がある。啄木の自筆書簡やノート、遺品等が展示されているけど、中は撮影禁止。(写真は撮らなかったので「東北DC観光素材集」から借用)  15:00

 敷地内には啄木が代用教員をしていた●渋民尋常高等小学校と 啄木が間借りしていた●斎藤家が移築されている。 小学校は明治17年村民の寄付により「愛宕神社」脇に設立。斎藤家住宅は江戸末期、渋民宿駅の南側に建てられた町屋。
 記念館の南に●宝徳寺があり、啄木が1歳から18歳まで過ごした寺で、「啄木」のペンネームは境内の樹木をたたく「啄木鳥」から生まれたという。 なお、啄木が生まれたのは、明治19年2月20日、隣村の南岩手郡日戸村で、 常光寺住職の父がここの宝徳寺に転任、一家で渋民村に移住している。 県道西側の「渋民公園」に向かうと●現在の「渋民小学校」があります。

■渋民~芋田
 渋民公園内に●「啄木歌碑」。 雄大な岩手山を背景に大正11年建立された。「やはらかに 柳あをめる 北上の 岸邊目に見ゆ 泣けとごとくに」と刻まれている。  ●県道に戻り北上、左の「文化会館」辺りが「渋民宿出口」で、しばらく進むと「芋田」に入ります。右手の赤いコーヒードリップ用ケトルの看板が印象的で面白い。「芋田バス停」手前の右手に●「芋田駒形神社」の看板が立っているので、入って行くと、●大きな鳥居が立っていて、参道が続いています。 16:00

■芋田~好摩駅
 ところが行けども神社らしき社殿が見当たらず、国道の高架をくぐりそうになるので、おかしいな・・と思ったら、目の前に小さな洞が一つ。石段を登って見るかと思いつつ、よく見ると草で覆われ、急坂で、足も疲れていて、滑落しそうなので止めました。後で調べると●「芋田産土神社」というらしく、旧芋田村の産土神でしょう。 駒形神社は帰ってから「グーグルアース」で調べると、高架をくぐった先左手に小さな鳥居があるので、そこを上がって行くのであろうと思います。結構由緒ある神社らしく、義経が蝦夷入りのとき、たおれた馬を葬り供養したのがはじまりで、「チャグチャグ馬ッコ」という祭りの発祥地として知られているということでした。 この先●「好摩口」交差点で本日は終わりにして、左折、北上川を「芋田橋」で渡り、●好摩駅から盛岡へ戻りました。駅周辺にホテルなどありません。ちなみに好摩駅は明治24年の開業で、渋民駅は昭和25年の開業。渋民宿の最寄り駅は好摩で、啄木はここから上京しています。 16:25

 018 紫波中央-盛岡 020 好摩-御堂