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布施街道を歩く (根戸~小張T字路) |
歩行地図はこちら 地図 |
根戸十字路-布施入口-布施弁天-新利根橋-戸頭-乙子-守谷上町-常総橋-市野深-寺下-小張T字路 16.6km |
布施街道 布施街道は享保15年(1730)頃に開かれた水戸街道の脇往還で、根戸(柏市)で水戸街道から分かれ、布施弁天、七里ケ渡し、守谷、板橋、谷田部を経由し、土浦の中高津で水戸街道に合流する。 谷田部藩、笠間藩の参勤交代の道となり、布施弁天、板橋不動尊などへの参拝の道として利用された。その為利用者が多く、水戸本街道の宿場が衰えるので、布施街道を通らないようにとの触書が出た程であったいう。 参考資料 「新編 旧水戸街道繁盛記」 山本鉱太郎 崙書房 「利根川図志」 赤松宗旦 岩波文庫 |
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2016年9月17日 ■根戸十字路~布施入口 今回は布施街道を北柏から土浦まで歩く。水戸街道の脇往還にあたる街道で、布施弁天への参道道として使われたので布施街道と呼ばれる。コースのしっかりとした資料が見当たらず、コース選定に手間取った。 明治の迅速測図と照らし合わせてみたら80%位は適合している思われたのでここを歩いてみたい。 JR常磐線北柏駅の北口から国道6号を越えて、一本北を通っている旧水戸街道に入り、右へ向かうと●根戸十字路に着く。ここが水戸街道都の追分にあたり、ここから北へ向かうの布施街道である。(写真では真っ直ぐ進む方向) 北へ向かう●県道7号に入る。左手にとみせ幼稚園などがあり、「富勢商店街」の看板も架かっている。「布施」ではなく「富勢」の文字が使われているが、「富勢」の方が縁起がいいとか理由があるのだろうか?。 左手富勢郵便局の向かい側、道路の右手に●庚申塔群があった。ちょっとは街道らしいところ。 9:15 |
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■布施入口~南龍寺 その先の「布施入口」交差点の手前で右に折れ、県道47号の合流点を右に入って行く。ここの角の「追分蕎麦」の前に● 常夜燈と道標がある。 ●道標には貞享4年(1687)のもので、「従是布施道」 と刻まれている。 富勢小学校と富勢出張所の間を通り、●布施新田バス停の手前を右折して、細い方の道へ進む。ここの通りは短く弓状に進んで、また元通りに合流してしまう。荒屋敷に入ると右手に●南龍寺がある。 明治6年に富勢小学校の前身の寺子屋、天真学校がこの寺に開設されたという。 新四国相馬霊場の第26番札所にあたる。 9:40 |
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■南龍寺~寺山坂下 その南龍寺の門の向かい側は二又になっており、追分地点に●道標がある。 「左江戸道、右流山道と刻まれているので、逆方向に見なくてはいけなく、いままで歩いて来た道が「江戸」へ向かう「江戸道」となるわけである。 道標のすぐ先の左手には●由緒ありそうな旧家が見えている。この家に限らず、この辺りは大きな敷地に大きな家を備えた豪農らしき家が多く見受けられた。 その先左手に●面白いビルが建っていて、恐竜の模型が看板になっていた。「オリエント企画」という看板、標識を作る会社であった。 そこから先は下り坂になり、●寺山坂というそうだが。利根川段丘から河原へ下りて行くことになるのだと思う。 9:50 |
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■寺山坂下~布施弁天 坂を下ると●交差点にぶつかる。街道は真っ直ぐというか左斜めに進む。 右折すると布施弁天に通じている。ここは弁天に寄るために右折しておく。すると左手に●大日如来堂や安産不動明王堂、 薬師如来堂などがある。布施弁天の東海寺の管理になるお堂群である。右奥に入ると●多数の庚申塔が あった。 9:50 |
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★布施弁天 さらに進むと小山にぶつかり、山に沿って行くと● 布施弁天と呼ばれる東海寺の楼門入口に出た。入口の横には案内図があるので読んでみた。小山の上に建っているので、てっきり古墳の上に建っているのかと思ったら、利根川の前身の常陸川の流路にあった藺沼に突き出した地形に建てられているということだった。。開山は大同2年(807)、空海作といわれる弁財天を本尊とし不忍池の弁天堂、江島神社とともに関東三弁天のひとつに数えられ、地名から布施弁天とも称されている。 石段を上がると●ハデな本堂が建つ。享保2年(1717)の建立になる。境内の●三重塔は古いものではなく、昭和48年の作である。 有名な●鐘楼は残念ながら修復工事中で足場、カバーが掛けられて見えず。 「からくり伊賀」と呼ばれた飯塚伊賀七が設計したもので、全国でも珍しい多宝塔式の総欅造りのもの。工事中というわけできちんとした姿は寺のHPから拝借。 |
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■寺山坂下~新利根橋 先ほどの交差点に戻って、今度は利根川の方向へ進んでいく。利根川の堤防はすぐ先に見え、堤防の上に上がると●河原には田圃や畑が広がっており、その中を真っ直ぐ道が通っている。これが昔と変わらず旧道らしい。正面に堤防がもう一本見えるのでこちらは外堤防であちらが内堤防にあたるのかと思う。 外堤防を下りて河原敷を進むとへ河川敷を進むと●庚申塔などが並んでいる。これなど旧道を彷彿させるものだろう。内堤防にやって来て、新利根川橋の下をくぐって堤防に上がる● 七里ケ渡説明板が立っている。その先の河原はロープが張ってあり、立ち入り禁止のような感じ。それに灌木が繁茂していて下りられそうになく、プラタナス)の大木の根元に享保の渡船事故の水死者供養の水神の小祠があるというのだが、わからなかった。 10:22 |
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■新利根橋~戸頭神社 長い●新大利根橋を渡り取手へ入る。橋の途中で戸頭側に下りることが出来、右手へ土手を下りて戸頭方面へと向かう。●河川敷の雑草の間に一本の細い道が通してあり、 前掘橋を渡ると戸頭の家並みが見え始めた。 集落に入ると、右手の角に●道標があった。「戸頭渡船場」と刻まれている。ちなみに渡船場は昭和30年頃まであったという。 そのすぐ先の左手の戸頭神社参道の入口に●道路元標がある。 その奥には●戸頭神社がある。創建は不明だが足利尊氏公が観応3年(1352)に天下安泰と武運長久をこの神社で祈願したという記録があり、往時より利根川沿岸の交通の要衝として栄えていたところという。 11:05 |
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■戸頭神社~乙子交差点 神社の先、左に折れるところに●永蔵寺というお寺が ある。薬師堂には将門の守り本尊と伝えられる薬師如来像があるという。 旧道は永蔵寺のところを左に曲がり、道なりに進むと県道に出る。ここで旧道は一旦消滅してしまい、この先の「つつじ公園」のあたりで復活するようなので、この先は適当にかつ旧道に沿う様な感じで進んだ。●戸頭公園で昼食休憩として、戸頭西小学校の脇を通過、「つつじ公園」の先まで来ると旧道が復活している。 公園から真っ直ぐ進むと●乙子の交差点だが、県道と国道294号が交差していて旧道は消滅している。 そこで歩行者専用の通路を通って国道の下を潜り、左へ県道の高架橋を渡って県道へ階段を下りた。少し北側に進んでから信号で左折して行くと旧道に戻ることができた。 11:55 |
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■乙子交差点~西林寺 乙子交差点から●西北に真っ直ぐ進んでいるバス道が旧道であるので街道復活点から西北に真っ直ぐ進む。 静かな良い感じ道である。右手に●嘉永3年の二十三夜塔や地蔵が立っている。 しばらく進むと右側の奥深くに●愛宕神社がある。由緒よりも「青銅製の鰐口がある・・・・・」の説明があるとのだが、多分無いであろうと思ったらそのとおりなかった。 その先の信号の二叉で左へ折れ(ほぼ真っ直ぐ)に進むと、左手に名主のような旧家があった。バス道を横断して細い道へ入るとまたバス道に合流した。そのまま進み、左手のコンビニの所を右へ入って行くと●西林寺がある。塀のないあっさりした寺だが、小林一茶が何度も訪れたという有名な寺で、境内に●一茶の句碑がある。 12:33 |
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■西林寺~上町 再び街道に戻り先に進む。守谷駅に向かっている道で左手に●本陣の様な冠木門を備えた旧家がある。 一見宿場の様な落ち着いた雰囲気を感じる。 その先右手奥へ守谷小学校に向かって進むと、学校の正門前に●守谷城跡碑が立っている。 鎌倉時代になって、平将門の叔父に当る平良文の子孫、相馬師常によって築城されたもので、城域は先ほどの西林寺から守谷駅の方までを含む地域でかなり大きい。右奥の守谷城址公園が城跡らしいが遠いので行くのはパスした。 街道に戻る途中に●八坂神社がある。守谷の総鎮守である。創建は大同元年(806)といわれる。 街道に戻って先に進み、●駅の手前を右折して、その先TXの線路の所で街道は消滅している。 12:55 |
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■上町~TXガード下 旧道はTXのガードを斜めに横断しているようだが、その様には歩けないので直角に●ガードをくぐり線路の一本北側の●北東に真っ直ぐ進む道を行く。やがて県道46号に突き当たるが、旧道は渡った先●林の中に続く細い山道のようなところのようだ。中に進むと●少し広い道となってガード下まで来た。 すると突き当たりにはガードに沿って戻ってしまう舗装路とガードを越す北へ続く道だけになってしまった。舗装路を戻るのも何だしと思って、正面を見ると林の中に入って行く細い道がある。地図にはないがここへ入ってみることにした。 13:17 |
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■TXガード下~常総橋 林の中へ入ると●山道の様な道で何か出そうで不安になるが、どんどん進むと●赤法花の一里塚に出た。道は間違いなく旧道であった訳だ。現在は庚申塚と称し、頂上に庚申塔などが建立されている。 県道にぶつかるが、本来はここを越えて左折し小貝川の河原へ下り、渡船となるのだろうが県道の先がなくなっているので、左折して県道を行く。●常総橋の右手から河原に下りる道があるがこれが旧道だかははっきりしない。●常総橋を渡る。つくばみらい市へ入る。 13:30 |
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■常総橋~市野深 ●常総橋から小貝川 を見る。往時は渡船で渡ったのだろうと思う。旧道は橋を渡って土手沿いに下り東北方面に斜めに通っている道がそれにあたるらしいが、土手から下りるようにはなっていないようなので、県道をそのまま進んだ。コンビニがあったのでトイレ休憩とした。 この先県道を2kmほどただひたすらに真っ直ぐ進むことになる。暑くはないがかなり単調で疲れた。途中右手に●庚申塔群、道路の向かいには●二十三夜塔があった。 中通川にかかる大橋をを渡るとすぐ右手に●太郎兵衛煎餅の大久保熨斗吉商店という店がある。「のしきち」とは珍しい名で由緒があるような感じ。 14:11 |
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■市野深~寺下 その先はまた●1km以上ある田園の中の真っ直ぐ道。ここは歩道が付いていないし、案外交通量も多くかなり危険を感じる道であった。やがて用水路に架かった橋を渡り坂を登ると●小張の集落に入った。すぐ左側にあるお寺は●高雲寺。松下流綱火創始者、松下石見守重綱の開基になる。綱火とはあやつり人形と仕掛け花火を結合し、空中に張りめぐらせた綱を操作し、囃子に合わせて人形を操る伝統芸能で、小張城主であった重綱が戦勝祝いや犠牲者の供養のために陣中で行ったと伝えられている。 14:40 |
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■寺下~小張T字路 その先街道の左手には●大きくて立派な長屋門があった。小張は宿場だったかどうかわからないが、宿場らしい風情を感じる所だ。 その先の●小張丁字路交差点で街道は右折して、板橋不動尊へ向かう。 14:50 ここで中途半端であるが本日はここで終了としてT字路を真っ直ぐ行って●つくばみらい駅から帰宅した。 15:20 |
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2 小張T字路~中高津 |