古河街道を歩く1 
            (太田~館林
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太田市追分地蔵-天神山-龍舞-石打-松本-多々良川-館林市内-松原-原宿-谷田川-合い橋-三国橋-古河駅 36.90km

古河街道(往還)
 古河街道は例幣使街道の太田市追分から館林を経て茨城県古河市に至る街道です。鎌倉時代「親鸞」が愛知五穀から常陸国に行く途中、通行した道と考えられます。このように中世以前には主要道路として良く利用されていたという。ここを2回に分けて歩きます。距離36km程度。
 資料 「群馬県歴史の道調査報告書 古河往還」外
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2025年1月26日 画面をクリックすると拡大します
■太田駅~天神山古墳
 9時半頃、●東武太田駅到着。ここから古河街道(往還)を歩きます。古河街道は例幣使街道の太田市新島の追分から、茨城県古河市に至る街道です。東山道の一部であったり、親鸞が通行した道とかそれなりに由緒ある街道と思います。太田駅北側、「スバル」のビルの前、例幣使街道との追分の所に●追分地蔵が立ちます。"説明板" 。追分地蔵を過ぎ、県道2号を東へ進みます。東武鉄道の踏切を越えると、右手前方に、いかにも古墳といった形の"「太田天神山古墳」"が現れます。この古墳は墳丘長が200mを超す東日本最大の古墳であり、残念ながら、県道が古墳を分断しており、●左斜めに円弧状に続く道が古墳の回りを巡る旧道になります。
9:53

■天神山古墳~休泊川
  一度県道へ出ると、左手に●女体山古墳がある。直径108m、高さ8mに一辺18mの方形の土壇が敷設されていて、いわゆる帆立貝式古墳です。五世紀中頃の豪族の墳墓として築造されたものであるという。「内ヶ島信号」の手前で、左斜めに曲がり、広い道路を横断。●ぐんま国際アカデミー中高学校の前を横切ります。以前は「太田工業高校」だった所です。途中で右手に折れ、南東方向へ県道2号へ近づき、本来は「休泊川」へぶつかるように、水田の中を斜めに入る訳だが、行かれないので、そのまま真っ直ぐ県道に向かいます。●休泊橋から休泊川を見る。休泊川は「上休泊堀」といい、16世紀中頃 、上杉憲政の臣、大谷休泊が桐生市から渡良瀬川の水を引いて、太田市東部から邑楽郡内を灌漑した用水堀である。中世末から近世初頭における上野国内の三大灌漑用水のI つに数 えられている。 10:12

■休泊川~竜舞十字路
 旧道は橋を渡ってすぐ、左へ曲がり、●龍舞地区の住宅街へ入ります。そのまま円弧状に曲がりつつ、「正運寺:前の県道に出てくる訳だが、途中寄り道しました。 左手奥の●浄光寺。田原藤太秀郷の四男秀純より十五代 藤原秀高が息女の為に尼 寺を建てたことに始まる。寺城の西側に中世の五輪塔4基があり、市の重要文化財らしいが、見逃した。 その東側「休泊小学校」に隣接して、●賀茂神社があります。結構どっしりとした、由緒ありそうな神社であって、貞観3年、大納言藤原長良が京都賀茂神社の分霊をここに移し 賀茂明神と称したことに始まる。祭神は上賀茂社と同じ別 雷神である。近郷きっての名社であるといいます。"説明板" 10:40

■竜舞十字路~石打
 賀茂神社から真っ直ぐ南下して、県道に出てしまったので、「正運寺」は通り過ぎてしまいました。しばらく県道を真っ直ぐ進みます。「八重笠信号」左手奥に●山王神社が鎮座。ここから右手一帯は"「八重笠沼」"といい、かって相当の広さの八重笠沼を中心とする湿地帯であったという。現在は埋め立てられ、水田化され、かつ、南北に長い●二面のプール状の沼に整備され、休日には釣り人で賑わうそうです。道は「邑楽町石打」へ入ります。 旧道はその先、●廃業した「コスモ石油」の裏手に続いているというのだが、廃道になり、ガードレールに阻まれて、進めません。スタンドの先で裏手に回り込み、県道の1本北側、「松本公園」方向へ向かいます。 11:30

 ★こぶ観音・菅原神社
 「石打」信号の北側で右手に曲がり、県道の南、450mほどの「こぶ観音」に向かいます。●山門と本堂。こぶ観音は正式名を「月音山明言寺」といい、元久元年(1204)天台宗として創建されたが、 その後天正2年(1574) 年に曹洞宗寺院として再興されたと伝えられる。本尊は千手観音。「こぶ観音」の名前は、子供が生まれる「子生」と「瘤(こぶ」を除く観音の2説話に由来するものであるという。(https://www.kobukannon.com/)。 県道に戻って、「石打信号」の脇に●菅原神社が古墳の上に鎮座します。12:00

 ★慶徳寺・松本公園(松本古墳群)
 先ほどの右折地点から、「松本公園」方向に向かいます。 道の左側一帯は南北朝時代の「石打城」跡であるというのだが、よくわかりません。このあたりは「松本古墳群」と呼ばれ、大小22基の古墳が残っているそうだ。「菅原神社」もその内の一基の古墳に乗っかっている。左手奥に「八王子大明神」がある。 また左手に「慶徳寺」の石柱が建って、参道を入って行くと、●慶徳寺の山門が風格ある姿を見せている。"説明板" 寺は天正元年(1573)年の創建だが、享保10年(1725) 年に火災に遭い、楼門を残して他は焼失してしまった。という。 その先、●松本公園の雑木林が広がっています。公園のあたりに「松本古墳群」と呼ばれる古墳が集中的に残っています。"説明板" 12:20

 ★古墳群
 先ほどの左手奥にあった●八王子大明神も古墳群の一つで、古墳群最大の規模であるという。 公園の中に●第9号古墳があるが、日露戦役記念碑と大東亜戦争の英霊碑が乗っている。公園東側にある●第12号古墳などは盛上がりを確認できるだけ。 その他案内板には沢山掲載されているが、民有地内であったり、わずかな盛り上がりが見られそうな感じがするだけのものでした。

■松本公園~千原田
 旧道は古墳群の中を進み、●左へ折れるあたりで、消滅します。左へ大きく迂回し、県道152を右折して、国道122号「大根村」信号へ向かいます。旧道そのものは消滅地点から真っ直ぐ進み、旧「ヤマハ製作所」、現「三蔵」の建物を斜めに貫いて国道に合流しています。 この先、「琵琶橋」を過ぎた先で、旧道は北へ折れ、高正寺の門前を東へ抜けていたと思われるという。この道は高正寺までで、その先は東へ、水田の中を斜めに進み、「中野向地」交差点あたりで国道に合流しています。この間、県道を進むしか無いので、県道を進み、●「中野向地」交差点を通過。「中野向地」交差点へ北から向かってくる「県道20号」は昔、「江戸道」と呼ばれ、南方500mの所の「神光寺」境内に「神光寺の大カヤ」があります。県道を進み●「千原田バス停」先、で旧道は左へ曲がります。 13:05

■千原田~
 曲がった先、「山田うどん食堂」の裏手で、旧道は"水田の中で"消滅します。左手に●長良神社があります。水田の中に消えた旧道は「いかつち」信号の先で県道と合流し、少し先、●「うずら交差点」で左斜めに、入って行きます。この道を弓状に進み、又県道に合流するのであるが、途中、真ん中あたりで左折すると、●寛政の文字庚申塔と馬頭観音碑がある。 13:35

     ~東武土手
 石碑のすぐ東側に●長良神社があり、神社の参道を南下し、鳥居をくぐって旧道に合流します。 そのまま道なりへ進むと、県道に合流しる角に●日向の義民地蔵のお堂があります。延宝4年( 1676)、館林藩領内の山田郡台之郷( 現太田市) の名主小沼庄左衛門ら18名が直訴の重罪にょり磔刑に処せられた。30年後の元禄17年(1704)、18人の冥福を祈るため 近郷ょり浄財を集め地蔵尊を造立したという。"説明板" "義民地蔵" 。 さて、県道は600m程先で右へ曲がって行き、●右手から東武鉄道の土手がのびてきて、旧道は東武鉄道土手の先へ消えている。13:5

 ■東武土手~木戸堰
 旧道は●水田の中を大きく円弧状に消えてるので、なるべく痕跡の跡をたどるように、畦地を進みます。目標は正面奥に見えている、「木戸堰」と呼ばれる水門まで。 水田の畦地から「多々良川」の土手に上がり、●木戸堰水門の側面に付いている、歩道橋を渡ります。渡って土手に沿って進むと、右手に●旧道に架かる土橋跡らしい痕跡が残っています。 14:15

 ■木戸堰~高根跨線橋
 旧道の痕跡をたどりつつ、●県道8号が左へわずかに曲がるあたりが、旧道との合流点らしく、右斜めおくから、細道が合流してきています。 「高根北」交差点を右へ曲がると、右手に見えるのが●大山祇神社"説明板" 。 更に県道を下っていくと、●東武線高根跨線橋にぶつかります。跨線橋は線路向こうの「国道122号」が「県道2号」と分岐して、線路を越えて「県道2号」である、旧古河街道(往還)に合流してくるもので、我が古河街道は下をくぐり抜けるだけであります。 14:47

 ■高根跨線橋~法泉寺
 くぐりぬけた旧道は、その名も「大街道」という地区へ入り、●分岐は左へ曲がります。 道は●旧館林城下町に入り、道は真っ直ぐ、家が建て込んできます。 左手に●法泉寺があります。室町時代、8代将軍足利義政の隠居後、文明16年(1484)義政によって創建されたという。寺紋は足利氏紋という。  15:04

 ■法泉寺~愛宕神社
 法泉寺の脇を抜け、住宅街の中を巡って行くと、●邑楽護国神社があります。護国神社というので、大きい神社かと思ったが、そうでもなく、こじんまりしている。年譜によると、戊申戦争と西南戦争の戦死者を祀っている。
 元に戻って、「西本町西」交差点から、館林駅に向かう途中、右手に●愛宕神社があります。後ろの●社殿は古墳上に鎮座している。境内には、"県指定重要文化財の青石地蔵板碑"がある。"説明板"。 15:22

 ■愛宕神社~館林駅
 神社から南下した、右手奥、●応声寺がある。時宗の寺院で、鎌倉時代、二代真教が建てた念仏道場がその始まりといわれる。
境内の鐘楼は●館林城鐘といわれ、寛文13年(1673)館林藩主徳川綱吉が時の鐘として、天命( 栃木県佐野市) の長谷川次郎左衛門に錄造させたものでという。天和3年(1683)に館林城が廃城となった時、応声寺に下げ渡された。
 その後●館林駅に到着。少し休憩して、帰宅しました。  15:42

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