古河街道を歩く2 
            (館林~古河市
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太田市追分地蔵-天神山-龍舞-石打-松本-多々良川-館林市内-松原-原宿-谷田川-合い橋-三国橋-古河駅 36.90km 

 1太田~館林  2 館林~古河市

2025年2月23日  画面をクリックすると拡大します
■館林駅~西本町
 前回から一ヶ月近く経ってしまったけど、館林駅から●西本町西交差点に到着。古河まで進みたいと思います。少し先、右手に●龍神酒造の蔵造りの建物が風格ある姿を見せています。 その先●西本町交差点あたりが、城下町館林の北西の関門があった所。館林の五つの木戸の一つで「太田ロ木戸」と呼ばれ、日没後は木戸を閉じられた。昔はこの部分はカギの手に屈折していたというが、明治1 1年の道路改修で現状に近いものになったという。 9:28

■西本町~館林駅入口
 更に東へ真っ直ぐ行くと、館林郵便局のある●本町交差点にぶつかる。直進すると館林城の大手門跡である三角公園があります。 左右に通過する道は「八王子千人街道」で、左へ曲がると「熊野神社、法輪寺、法高寺、円教寺」などがあります。この内、法輪寺は、明治維新の時に小栗上野介の首が葬られたが、1 年後に上野介の遣臣に盗み出されるという逸話が残っているそうです。 今回は右へ曲がります。すぐ左手は「本陣跡」だが、何もありません。 少し先右手奥に●青梅天満宮がある。案内板によると・・菅原道真が大宰府に左遷させられた時、4つの梅の実を楊枝に刺し東西南北に投げ、東へ飛んで根付いた所が館林のここ。(外は出雲、太宰府、高松)。入口の石碑に"日本四社 青梅天満宮"と刻まれていて、四社の内東の一社という。 その先「館林駅入口」交差点を左へ行くと、「つつじが岡公園」があり、館林城跡になります。ここは「八王子千人街道」で歩いた時、訪れているので、割愛。
 ●新宿一丁目の交差点を左へ曲がります。 9:50

■館林駅入口~松原2丁目
  ●平成通りと呼ばれる、「県道2号」は電柱が撤去され、スッキリした印象。少し先、旧道は●宇沢整形外科の所から左斜めに入ります。 ここはほんの少しで、県道に合流し、そのまま真っすぐ横断。●松原2丁目の三差路にぶつかる。正面のガソリンスタンドの壁の前に"道標" が立っている。道路工事の際に50cmぐらい埋没しているそうだが、正面に「右ゑくろ、せんつい、左いたくら、こが」と深く彫られている。もぅ一つあるらしいが、個人宅内のようなので、わかりません。  10:08

■松原2丁目~普済寺
 旧道は左の道を取り、すぐ左手に変わった形の●一本松が立っている。説明によれば・・安政年間、この付近一帯は松林であったそうで、「松原」という地名もそれに由来してつけられ、現在唯一残る"一本松"で、安政以来の名残という。 道なりに数分行くと左手に曹洞宗の古刹、●「普済寺」がある。徳川家康より寺領として朱印百石を賜わったというくらいで、寺域もかなり大きい。●古い茅葺きの山門を入ると、門の脇に、ガラスケースに"銅鐘"が納められ、館林市の指定重要文化財にされている。"説明板"  10:35

 ■普済寺~第五小学校
 東南方向に「子ノ権現」があるので、地図を見つつ、「慶友外科クリニック」の先で、右斜めに曲がり、しばらく行くと●子ノ権現社があります。ここは足の病に良く効くといわれ信仰されていた。"説明板" 。境内に"金属板製ぞうり"を 絵馬代わりに納めるようになって、色々と「足の具合が良くなりますように~」などと書かれていました。 「館林第五小学校」手前の道を左へ入って行くと突き当たりに●富士御嶽神社がある。この神社は古墳の上に鎮座している。もとは前方後円墳だったらしい。
 そのまま東へ道なりに行くと、●他宗場と呼ばれる真言宗と曹洞宗の墓地がある。地元ではこれを「タシバ」と呼んでいるそうだ。
 11:10

 ■第五小学校~館林インター
 旧道に戻って東へ行くと、「本宿」という所。左手に●八坂神社。 そのまま進むと●宝秀寺に突き当たります。旧道はここで寸断するので、右折して「国道354」に出ます。この付近は東北自動車道の開通にともなってインタ-が出来たこともあって様相が一変してしまったという。旧道は宝秀寺を突き抜けて、●高架下あたりに出ていたようです。  11:26

 ■館林インター~板倉町境
 高架をくぐると、右手に「競輪・オートレース場外売り場」の大きなドームがあって、旧道は●その先の信号を左へ入ることになります。その国道の右手角に●馬頭観音と西国供養塔の道標が立っている。摩滅して読めないが、明和3年(1766) の銘があり、「西たてばやしみち、北こ加みち、東 いいのかしみち、南せんずいみち」とあるそうです。 旧道は信号を左へ入り、ここは弓状に右へ行くと、国道に出てしまうが、その前に、左へ力—ブしなからそのまま行くと四辻に出る。この角に●大きな道標が立っている。如意輪観音が浮彫りされ、十九夜供養塔と刻まれているもので、台石に色々刻まれているが、摩滅して読めない。ここも昔はかなり利用されていたのでしょう。11:35

■板倉町境~原宿
 旧道をくの字形に入って、市道の方へ出て板倉町に入ります。「岩田観音前バス停」先を、右折して行くと、左手奥に●筑波神社が「筑波山古墳」の上に建っている。"説明板" 。 そのすぐ南に●舟山古墳があるがあるが、一見単なるこんもりした塊で、"案内柱"がないとわかりませんね。 旧道に戻ってしばらく進み、「原宿地区」の左手に●原宿神社があります。ここは寺院のような形態でした。 12:25

■原宿~変電所前
 更に東へ進み、「県立板倉高校」の東隣に「宝福寺」がある。ここに、県指定の重要文化財になっている●木彫性信上人坐像が安置されているはずのところ、日曜日ということで、寺自体に鍵が架かっており、入れなかった。 「宝福寺」は中々の由緒を持っており、用明天皇の時代に聖徳太子の開基とされ、親鸞聖人が建保2年(1214)、第一高弟性信に導かれ、関東へ布教した最初の土地とされています。また、親鸞が自力本願から他力本願へ回心の転機となった地とも言われているそうです。 少し先、左斜めに入る細道は「雷電神社」への参道らしく、入口に道標があるらしいが、見当たらなかった。 「板倉」交差点で県道364に合流します。 
 旧道は●板倉東の信号を左へ曲がり、ここは右回りの円弧状で元の県道へ戻るが、 途中左手に●御嶽山神社があります。
 13:05

 ■変電所前~板倉ゴルフ場
 「変電所前バス停」先で、●旧道は左へ入ります。 左に●長良神社があります。この道の先は国道の土手に阻まれて、右へ迂回するのだけど、本来は県道を横切って国道につながっていたという。 途中で右に曲がり、国道へ出て、●板倉ゴルフ場に沿って進みます。 13:15

 ■板倉ゴルフ場~矢田川土手
 ●ゴルフ場に沿って、右へ曲がり、しばらく●矢田川土手の上を進むことになります。このあたりは水害などによりしばしば河道が変化したと思われるが、この堤防上の道はある程度安定した道として考えられていたのであろうというのが、「歴史の道調査報告書」の説明。 左手に●筑波山が見えます。 13:32

 ■矢田川土手~合い川橋
 「八間樋橋」を過ぎると、土手は荒れた細道の様になり、車が来なくなりました。左手は民家の農地と屋敷林の様な林が広がります。 途中"古河往還の説明板" が立っていて、この土手が間違いなく「古河往還」の道だと安心できました。 ●東武鉄道の鉄橋と合の川橋が見えてきました。  旧道は橋の手前を右へ下りて、川を渡って対岸に出たという。谷田川の中洲には今でも馬頭観音が建っているのでそれとわかる、というが、橋の向こう側の土手に●石仏、一九夜塔などが集められているので、それらが該当するのかもしれません。 土手はここで終わり、45分程でした。 14:05

■合い川橋~小野袋
  橋を渡ると「旧埼玉県、北川辺町」。現在は合併して「加須市」の一員。 この地域は南と東を利根川と渡良瀬川、北と西を谷田川と合の川(今は無い)に囲まれた輪中の様な低地であり、水害の多発地帯ありました。この先ほぼ道なりに一路古河市へ向かいます。
 左手に●養生寺。室町時代の創建で、真言宗豊山派。本尊は「地蔵菩薩半跏座像」。子育地蔵として親しまれているとか。
 ●柳生駅前交差点は左斜めに進むと、地図上に「平地の三県境」という記号に気がつき、面白そうと思って、踏切を越えてから、左へ曲がり行って見ました。5分ほどの寄り道で到着し、●三県境碑がありました。栃木県栃木市・群馬県板倉町・埼玉県加須市にまたがり、水田上にあって、三点が交差する地点です。"説明板"  山の中では三県境は珍しくないようだが、平地に存在することは大変に珍しいとか。 14:40

 ■小野袋~渡良瀬川土手
 旧道に戻って、左手にポツンとお社みたいな建物が建っています。入口に●田中正造翁之霊と書いてあり、田中正造といえば、「足尾銅山の鉱毒事件」や「渡良瀬川遊水池化」阻止などで活躍した人物なので、扉を開けてみると、"神棚""写真"が祀られ、地元民の田中正造への遺徳が感じられます。 そのすぐ先に●柏戸出流神社。 ここは「加須市柏戸」といい、「カシワ」には砂丘、自然堤防の意があり、「戸」は津の意とみられることから、村名は渡良瀬川の自然堤防に位置したことによるとされる。また相撲の「白鵬時代」の横綱大鵬と並び称された、横綱柏戸の四股名はここの地名にルーツがあるそうだ。 県道46号跨線橋をくぐって行くと、●渡良瀬川土手に出ました。 15:07

 ■谷中湖~三国橋
 土手の向こう側に●波瀬川遊水池が広がります。歴史などは(https://watarase.or.jp/about/)などにお任せしたいが、面積33km2、貯水量2億m3の我が国最大の遊水池であります。 "三国橋"に向かって土手を進むと、右手に●カスリーン台風決壊口碑が立っています。昭和22年9月台風による大雨により、東北、関東地方に記録的な大災害を引き起こされた。北川辺町では堤防の決壊により死者9人、被害家屋1910戸を出したという。"説明板" 15:15

 ★古河の渡し
 三国橋を一度横断し、右手、土手下の●鷲神社境内に、●万葉古河之渡碑が立っていて、●三国橋下流の、神社のあたりが「渡良瀬川古河渡し」があった所といわれます。万葉集には古河の渡しとして2首が詠われているという。 "説明板"  15:25

 ■三国橋~頼政神社
 三国橋を渡り、古河市へ出ました。渡った先一帯は、室町時代、古河公方である、足利氏の本拠となった「古河城」が広がっていた所です。渡って左折。道路一段下に、●渡良瀬川河川治水紀功碑と工事関係者殉業諸氏記念碑が立っています。
 右に曲がった先、すぐ左手には●永井寺。江戸時代の古河城主、永井家墓所などがあります。 街道の右手に回り込むと●頼政神社があり、源三位頼政が祀られています。 治承4年(1180年)、以仁王の挙兵に呼応して、敗退。宇治で自刃したが、頼政の首を従者がたずさえて逃れ、古河に葬ったものと言い伝えられています。 元は古河城内頼政郭にあったが、渡良瀬川改修工事のため、現在地へ移された。 15:40

 ■頼政神社~
 さて、この先、ゴールの古河駅まで真っ直ぐ進むだけです。 右手に●作家永井路子旧宅跡の建物。永井路子は東京生まれで、間もなく母親の郷里である古河へ移り、結婚するまでの約20年間を過ごした。 旧宅は江戸末期に建てられたもの。 その先●街角美術館という建物。古河市ゆかりの作家を中心とした美術作品を展示する美術館で、平成7年の開設。 すぐ隣に●篆刻刻美術館があります。大正9年に建てられた「酒類卸業 平野家」の耐火石蔵を改修した建物。 15:50

    ~古河駅
 ●本町2丁目交差点は、旧日光街道との追分に当たる。ここを2007年4月に通過しています。 ●旧日光街道側の県道261。電柱が撤去され、すっきりとした感じです。 最後に●JR古河駅に到着。 本日は寒くもあり、寄り道もあって、24kmを越えてしまいました。 15:55

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