奈良街道を歩く 1
      (京都から 奈良へ  小倉堤経由)
歩行地図はこちら 地図
 五条本町通-本町22丁目-稲荷大社-直違町-墨染-京町-観月橋   8.2km (全38.4km)

大和街道
 京都と奈良を繋ぐ街道は奈良(大和道とも)街道といい、宿場としては秀吉の時代、伏見、長池、玉水、木津の4宿があった。距離は京都、奈良間40km程度である。ルートは京都南部に「巨椋池」があった為、迂回するルート、縦断するルートなど複数あった。
1 山科から巨椋池をさけて、六地蔵、宇治を通り、奈良へ至る古代からのコース。
2 平安遷都後、京都から巨椋池をさけて、深草から東へ折れ、六地蔵、宇治経由で奈良へ至るコース
3 東海道の髭茶屋追分で分岐し、小野、醍醐を経て、六地蔵経由で奈良に達するコース
4 秀吉が巨椋池に小倉堤を作ったので、伏見から堤を経由して奈良へ至る最短のコース。
  今回このコースを歩きます。ゴールは奈良の北の入口という東大寺転害門
 参考書
 1 京都から伏見までは「伏見街道」と呼ばれ、手持の図書で間に合った。
 2 伏見から観月橋を渡り、小倉堤を経由して城陽までのコースは「京の古道を歩く、増田潔」、「地図で読む百年 近畿Ⅰ」を滋賀県立図書館で借りた。
 3 城陽から木津川までのコースが、資料もなく、歩いた記録も見あたらず一番難航した。 結局 
   http://mailsrv.nara-edu.ac.jp/~asait/map/kyouto/kyouto.html#section3
   これは東海道五十七次京街道を歩いた時もお世話になったHPですが、ここに見つかり、ここでの地図を借用しました
 4 木津川から南の東大寺へのコースは適当な図書がなく、ネットで色々収集して、コースを決めました。     
    

2011年6月26日 7時55分 ※ 写真をクリックすると拡大します
 ■京都五条本町通~豊国神社
 大和街道は「畿内五誌」では五条から豊後橋(観月橋)へ、長池、木津を経て、奈良へ至るということになっている。そこで●五条大橋へやって来た。西側に●弁慶と牛若丸の像が立っているが、童謡で歌われている弁慶と牛若丸の五条橋はここではなく、現在の五条橋は秀吉が方広寺参詣人の為に、昔の五条橋を2町分南へ移設したものなのである。
 五条大橋をわたり、3筋目の●本町1丁目を起点として、伏見区墨染まで一直線に南下する。その後右折して京町通を又真直ぐに南下して観月橋に至る。人工的なわかりやすい道で、伏見街道とも呼ばれる。
 本町1丁目から入りますが、2車線もない小路なので、墨染めあたりからず-と北向き一方通行。伏見まで車では真っ直ぐ行けないという、すごいことになっている。歩く場合は所々古い家並みも見られ、良い感じの道である。  8:07

  350mも歩くと「正面通」が交差し、豊国神社への参道が左手へ延びている。参道にはいってすぐ右手に小高い塚の上に五輪塔が乗っている。●「耳塚」という。秀吉が朝鮮半島に侵攻した文禄・慶長の役で、武将が戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ塩漬けにして日本へ持ち帰ったものを、供養のためこの地に埋めたものだという。あんまり気持の良い物ではない。回りの石柵に彫ってある名前で、歌舞伎役者の名前が多いのはなぜなのだろう?。
 石段を上がって正面が豊臣秀吉を祀る豊国神社で、当初は墓所がある東山阿弥陀ケ峰の麓に建てられたが、豊臣氏滅亡後徳川家康によって破却された。明治になって旧方広寺大仏殿跡地に再建されたものである。正面の豪華な●唐門は伏見城の遺構と伝えられ、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つである。
 境内の北側に方広寺がある。境内は非常に小さいが、元は秀吉が東大寺の大仏を凌ぐ京都大仏の為の巨大な寺であったが、地震、火災で焼失し二度と再建されなかった。境内に有名な豊臣家滅亡の原因になった、●「国家安康の銘のある梵鐘がある。あまり例を見ない大きな梵鐘で、鐘楼に上がって見ると「国家」「安康」の所にチョークで印がしてある。   8:20

  ■豊国神社~本町10丁目
 
左手に●創業元禄12年(1699)という京漬物店があった。建物はごく普通で、伝統を感じる・・・というわけではない。
 街道は●JR線で寸断され、歩道橋で越える。越えると本町9丁目。すぐ10丁目になり、左手に市立一橋小学校があり、運動場奥に昔街道に架かっていた●「一の橋」が復元されている。親柱に「伏水街道第一」と彫ってある。伏見街道を昔は「伏水街道」と呼んでいたようだ。伏見街道には東山から流れる川に「一の橋」から「四の橋」まで架かっており、この橋は昭和35年ここに移された。寶樹寺の角に元あったという石柱が立っている。いずれも幅3間、長さ2~5間という。  8:43

  ■本町10丁目~本町16丁目
 右手の●寶樹寺の本尊薬師如来坐像は俗に「子育て常盤薬師」と呼ばれ、常盤御前が今若、乙若、牛若の3児の生長を祈願したと伝えられる。 東福寺駅のすぐ脇、本町13丁目と14丁目の間の九条通高架橋の下に●二ノ橋が残されている。川は暗渠化されたか見えない。 本町16丁目左手に●法性寺がある。法性寺は今では小さいお寺であるが、元は藤原忠平によって延長3年(924)に建立され、以後藤原氏の氏寺として広大な寺域を有し、現在の東福寺以上の規模であったらしい。しかし,その後藤原氏の没落と共に衰退の一途を辿り、堂宇も焼失し、明治維新以後旧名を継いで再建されたもの。   8:55

 ■本町16丁目~本町18丁目
 本町17丁目と18丁目の境を三ノ橋川がながれ、現役の●三ノ橋が架かっている。橋を渡ると東福寺への参道が続いている。あまりに広大な境内な為、街道歩きのついでに参拝というわけにいかないが、ちょっとだけ寄っておきたい。
 桃山時代の●中大門をくぐり、中に入る。大きな仏殿、三門、珍しい形の●経蔵などが目に付いた。
 東福寺は摂政九条道家が,嘉禎2年(1236)より19年を費やして、奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したの始り。大きすぎて時間がかかりそうなので早々に寺を出た。紅葉の秋にじっくりと訪れたいものと思う。   9:05

 ■本町18丁目~稲荷大社
 本町20丁目右手に派手な朱色の鳥居を構えた稲荷神社がある。伏見稲荷の境外摂社●田中神社である。案内もなにもないが、伏見大社のホームページの周辺マップに紹介があった。和泉式部にまつわるエピソードが載っている。きれいな神社の割には無住の神社らしい。 本町通22丁目右手に伏見人形の伝統技術を唯一今に伝える●老舗「丹嘉(たんか)」がある。屋根の上に看板代りか、金太郎や、布袋などのな人形が載せてある。伏見人形の伝統を伝える店はもうここ1軒だけになってしまったといわれる。
 本町22丁目で伏見区深草に入る。ここが京都と伏見の境界で、江戸時代は「伏見奉行所」の管轄内に入るのであった。 
 次は伏見大社。 稲荷神社の総本山、伏見稲荷大社である。ここも広大で、見て回るのは無理であるので、ちょっと覗くだけ、。裏参道にあたる、「御幸道」から入ると、両側には八ツ橋、京つけもの、伏見人形、清水焼やあま酒、などの店が並んでいる。本殿は工事中であり、●楼  門を見て、表参道から出た。修学旅行生が沢山いた。   伏見大社のホームページはここ   9:26

 ■稲荷大社~深草直違橋11丁目
 
神社参道の向かいはJR奈良線稲荷駅で、南側に●赤レンガの建物が残っている。東海道線は明治の13年の開通当時と現在とでは経路が違っており、当時は稲荷駅を通って京都駅へ向かっていた。その当時使われていた稲荷駅のランプ小屋である。大正10年、新逢坂山トンネルの完成にともない旧線は廃止され、京都~稲荷間は奈良線に編入された。
  稲荷駅南側の踏切の左手に「摂取院」があるが、その脇を稲荷神社の方へ入って行くと●「ぬりこべ地蔵尊」というのがある。病気を塗り込める・・というわけで、とりわけ歯痛にご利益があるそうだ。地蔵さん宛、歯痛が治りますようにと祈願したハガキを出すだけでも願いを聞いてくれるという。見たときもハガキとか封書が2.3通置いてあった。
 地蔵から街道に戻らず、南下してこのあたりを少し見て回ることにした。地蔵のすぐ南側に●石峰寺がある。黄檗宗萬福寺の第六世千呆性侒禅師が退隠後創建したお寺で、伊藤若冲が下絵を描き、石工に彫らせた「五百羅漢」が有名である。しかし見学料の上に、撮影禁止だったので、境内を見るだけですませた。  9:55

  石峰寺から南に少し行くと宝塔寺に出る。平安時代に関白藤原基経創建した極楽寺がその前身である。 極楽寺町の地名も残るように敷地は広大で、稲荷山の南側に続く丘陵地一帯を寺領としていた。鎌倉時代日蓮宗日像(にちぞう)上人が、極楽寺住職の良桂(りょうけい)と法論の末、宗派を日蓮宗に改めるとともに寺名を宝塔寺としている。
 総門をくぐり、緩やかな石畳の参道を上がり、途中左手に日像上人の「荼毘処」の碑が立つ。●仁王門、本堂へと進む。その右奥に優美な二層の●多宝塔が建っている。屋根は行基葺きという丸瓦を使った古い葺き方で、これを見るのは奈良の元興寺、極楽坊以来。
 宝塔寺からすこし北方斜めに、街道へ戻っていったら、偶然●茶碗子の井というのに出くわした。石峰寺の案内板に載っていたのだけど、わからなくてそのままにしていたので、ちょうど良かった。茶の湯に使う水を使用人に命じて宇治川まで汲ませに行かせていたが、使用人がこの付近で水をこぼしてしまい、この湧水を汲んできたが、いつもの水と違うことに気付いた主人に問い詰められ、怒られるどころか宇治川の水より良いと褒められた。・・という名水。今では井戸の上にステンレス製の覆いが掛けられて使用できないようになっている。   10:15

 深草直違橋11丁目~藤森神社
 稲荷駅の南側の●JRの踏切を過ぎたあたりの街道は両側に、虫籠窓に出格子を備えた旧家が程よく残り、旧道の雰囲気が濃くなっている。 左手にある●聖母女学院の建物は明治41年に建てられた、陸軍第16師団司令部の庁舎として建てられたもので、レンガ造の外観が美しい。女学院と軍事的建物の組み合わせがちょっと面白い。
 「名神高速」のガードをくぐると、右手に●西岸寺がある。小さなお寺で見逃す所、案内板に興味を引かれた。法性寺の小御堂が建っていた所で、後白河法皇もしばしば御幸され、後に法皇の御製にちなんで西岸寺と号したという。法性寺の寺域はここまで伸びていたわけだ。現在は浄土真宗本願寺派の寺で、親鸞の最初の妻といわれる説がある、「玉日姫」がここで亡くなって、墓があるという。結構由緒のある寺でした。  10:42

 その先七瀬川に架かる●四ノ橋をわたる。橋下をのぞくと眼鏡橋の片方の様な形をしており、この橋が街道を真っ直ぐ通すために、川に対して斜めに架けられているところから直違橋という名がついた。町名にもなっている。
 やがて左手に藤森神社があらわれる。創建は神功皇后によるという古社である。祭神が大変多く、素盞鳴命から始り、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰、舎人親王、天武天皇、早良親王、伊豫親王、井上内親王など、神話の世界から実在の人物にまでわたる。 菖蒲の節句発祥の神社として知られている。●鳥居には後水尾天皇による扁額が掛けてあったが幕末、近藤勇が取り外してしまったという逸話がある。●本殿は室町時代のもの。本殿の背後には摂社の大将軍社があり、平安京遷都の際、王城守護のため四面に大将軍が祀られ、南面の社がここである。  11:03

藤森神社~墨染町
 街道は墨染交差点ではじめて右折する。京阪踏切をわたり●疎水をこえ、左手細い道を入って行った所に欣浄寺がある。 ここは深草少将の邸宅跡といわれ、境内に●少将塚と小野小町塚が並んであり、深草少将姿見の井戸などがある。深草少将は小町に、100日間通い続けたら結婚しようと言われて、ここから通い、哀れにも雪深い99日目の夜に途中で凍死してしまったのだ。
 隣は墨染寺。別名墨染桜寺と称される。墨染寺の歴史は古く、貞観16年(874年)清和天皇の勅創によるという。平安時代に藤原基経の死を悼み、上野峯雄が「墨染めに咲け」と歌を詠んだ際、桜が本当に薄墨色になったとのことから、 墨染桜寺と呼ばれるようになった。現在の●薄墨桜は三代目     11:20

 ■墨染町~京町4丁目
 墨染寺の先を左折して行く。ここは東海道57次といわれる、京街道と同じ道である。左折して税務署の斜め前の右手に石柱が2本立っており、「撞木町廓入口」と彫られている。大石内蔵助が山科から通っていたという、●橦木町遊郭入口である
 慶長元年頃に開設されたという古い歴史をもった遊郭であった。伏見街道や伏見城下の発展に伴い、元禄の頃大変な賑わいをみせまたという。現在はごく普通の住宅地で、遊郭の痕跡は残っていない。通りの奥には大正7年の板碑「撞木町廓之碑」が建っている。
 街道は国道24号を渡ると●京町通と名前を変え、いよいよ伏見城下町にはいる。京街道は京町10丁目を曲り、両替通りを下っていくのであるが、このまま真っ直ぐ観月橋へ向う。
   ●近鉄「桃山御陵前駅」まで来ると、左側奥に赤い鳥居が見える。右手は大手筋の商店街があり、人出が多かった。左折して御香宮神社へ向う。  

 ■京町4丁目~御香宮神社
 300mほど行くと左手に御香宮神社●表門が建つ。伏見城大手門の遺構である。日本第一安産守護大神、神功皇后神功皇后を主祭神として、仲哀天皇応神天皇他六柱の神を祀る。貞観4年(862)、境内から香水がわき出てこれを飲んだ人の病気を癒したことから清和天皇がこの名を賜ったという。本殿脇の竹樋から絶え間なく流れ出てくる御香水は「日本百名水選」に指定され、ポリ容器を手にした人が列をつくって汲んでいた。派手な●拝殿は京都府指定文化財。寛永2年(1625)、徳川頼宣(紀州徳川家初代)の寄進にかかるもので、いやに彩色がきれいだと思ったら、平成9年の復元修理されたものだった。
 境内に●伏見城跡残石という大きな石がころがしてあった。この神社は慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いで薩摩藩の陣営となり、大手筋をへだてて南の伏見奉行所に陣を構えた幕府軍と戦った。  12:05

 ■御香宮神社~観月橋
 ●京町3丁目から2丁目にかけて虫籠窓、格子、犬矢来を備えた品のある京町家が残っている。伏見奉行所跡は「桃陵団地入口」にあるというので、探しに行ったけど、入口とはどこやら、広くてわからず、結局団地を一回りしてしまったが、「伏見公園」の北側にあった。団地の壁が木造風に塗られて、屋敷塀を模した塀が立つ所が●伏見奉行所跡で、石碑が立っている。明治維新の時、幕府軍の籠る奉行所は官軍の攻撃で焼け落ちてしまった。 そのまま南下すると水路にぶつかったので、左折をして●観月橋へ向う。
  街道2へ続く。       12:35

     2 観月橋~城陽駅