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佐倉・成田街道 1 (新宿から八千代台まで) |
歩行地図はこちら 地 図 |
新宿-小岩-江戸川-市川-船橋-成田分岐-八千代-佐倉-酒々井-成田 52km |
佐倉・成田街道 徳川譜代、土井利勝が佐倉藩主となってから、江戸、佐倉間の街道が整備され、参勤交代にも利用される程の、重要な道となっていきました。当時、この佐倉街道を通行した大名は佐倉藩をはじめ房総方面の大名あわせて十数藩に及んだといいます。 又、この街道は江戸中期以降、成田山参拝がさかんとなり、江戸から佐倉を通り、成田山へ参拝する道としても盛んに利用されるようになっていったので、単に成田街道とも呼ばれました。尚成田街道は外にいくつかルートがあり、日本橋小網町から船に乗り、小名木川、新川を経由して本行徳へ上陸し、行徳街道を北上して八幡や船橋へ向かうルートもよく知られていました。 経路としては、日本橋から葛飾区、新宿までは水戸街道と同一経路。新宿で水戸街道と別れ、小岩、市川、八幡、船橋、八千代台、佐倉、酒々井、成田と続きます。今回は日本橋、新宿(にいじゅく)間は水戸街道と同一なので割愛し、新宿から成田まで約52kmを2回で歩きます |
成田街道 1 | 成田街道 2 |
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![]() 移動された道標 (在葛飾区郷土博物館 |
![]() 国道の拡張工事で移転したらしい。道標は葛飾区郷土博物館で保管されている。 正面に●「左 水戸街道 右 なりたちば寺道」右側面 に「さくらミち」と彫られていた。佐倉街道は中川大橋東交差点を渡り、南に向かう細い道である。9:45 |
![]() ![]() ![]() 天祖神社の手前を右に入ると、左手にある。以前は茅葺きの風情ある寺であったが、現在は普通のて寺になってしまった。●門前に青面金剛と馬頭観音が祀られている。右に入る道は●奈良時代の東海道であった道である。まっすぐ谷中の方へ続いていた。上小岩遺跡通りともいう。 |
![]() ![]() ●市川橋を渡ります。高所恐怖症なもので、相変わらず、橋を渡るのは好きではないです。明治38年に江戸川橋が掛けられるまで、江戸川には橋がなく、渡船によりました。 橋を渡った左手に●「市川の関所跡の碑」が立っています。しか、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっているとのことです。 11:20 |
![]() ![]() 市川西消防署の先、歩道の角に●青面金剛碑が建っており、道標も兼ねている。ここも読みにくいが、「左側面に「西 市川八丁 江戸両国三り十丁」右側面には「東 八わた十六丁 中山一里」と彫ってあります。 11:40 |
![]() ![]() 左手、京成菅野駅へ向かう道の角に●道標が2基建っている。左側の方は「左 宮久保山道」と彫ってある。右側の方は、正面の寛政11年以外はよく読めなかった。 ●諏訪神社 両側に黒松が植わる、風情ある参道の奥に鎮座する。すっきりとした社殿と思う。諏訪大社を勧進した神社で、御柱が両側に立っている。境内に黒松が沢山あって、「松平田緑地保全地区」として保護されている。 11:56 |
![]() ![]() ●葛飾湧水群「二子藤の池」 法華経寺の先右側は、二子の地というそうで、このあたり湧水が湧く池が多くあり、生活用水や茶道に使われた名水もあったという。ここの池は藤の木が屋根のように覆い、二子藤の池といって親しまれた。 武蔵野線手前の国道の真ん中に分離線替わりに●松の木が数本立っている。船橋西部の旧葛飾地域は、かっての海岸線の面影を残す松の木や寺院が多く残っているといわれている。 |
![]() ![]() 海老川に掛かる橋の名前であるが、昔はもっと川幅が広く、流れも急だったので、橋を架けるのが困難で、川に船を並べて板を渡し、橋代わりに使ったのが船橋の地名の由来とされる。以前東金街道を歩く際には気づかなかったが、橋の真ん中が●船橋の形になっていて、船橋の形を感じさせることができる。道は船橋大神宮の所で二股に分かれ、左方向が成田街道、右へ行けば千葉へと続く、房総街道である。 |
![]() ![]() 意富比(おおい)神社とも呼ばれた下総一の宮。創建は古く、景行天皇の御代、日本武尊が船橋に到着した折り、東国平定の祈願をしたのが由来という。境内には明治12年に建てられたという。 ●灯明台 がある。木造3階建てで、高さ12m下が和風で3階が洋式という和洋折衷型の灯台。今では海岸は遠方になってしまった。また木が邪魔して写真も撮れないくらいで、灯台の面影はない。 14:20 |
![]() ![]() ●宮坂 大神宮の北側の坂を上がって行く。ここ「宮坂」は戊辰戦争で政府軍と撒兵隊とで衝突して激しい戦いが繰り広げられた場所であった。政府軍の砲撃で神宮が炎上させられてしまったりした。 街道を東へ真っ直ぐ進みます。この道は家康が鷹狩りに使った道で、東金まで真っ直ぐ進む、「東金街道」となっている。やがて前原西交差点の成田街道入口の丁字路に出る。 14:50 |
![]() ![]() 習志野ノ原」は昭和20年まで陸軍演習地として使用された。その後、陸上自衛隊に受け継がれ、街道の右側には●習志野駐屯地、習志野演習場とが延々と続いている。元々江戸時代には、このあたり、前原から薬円台にかけては広大な原野が広がっていて、幕府が設けた小金牧の一つで下野牧という馬の放牧場があった所であった。16:22 |
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