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古代の街道 はじめに 人間を含め動物が生存する所すべて道ができる。最初は獣が通ったけもの道を通って、人間が通る道ができ、古代の人は今我々が想像する以上の広範囲に交易などを行っていたようである。古今東西を問わず強大な中央集権体制を取った古代国家は通信設備のない時代、その体制を維持するため、中央と地方の連絡のため道路網の整備に力を注いだ。ほとんどの場合、中央から地方へ延びる道路に沿って、一定の間隔で人馬、宿泊設備を持った施設を置き、リレー式に連絡する「駅伝」の制度を持っていた。そして権力の力を見せつけるかのように、ほとんど直線で真っ直ぐな道が谷を埋め、丘を削りして造られた。 ローマ・インカ帝国・中国の場合 その典型的な例が「古代ローマ帝国」、中国の「秦の始皇帝の時代」 「インカ帝国」などの道である。ローマの駅制は約80kmごとに駅を置いた。アッピア街道のように、一種のコンクリート舗装道路であって大量の軍隊をを通す事ができた。ペルシアでは1日の行程ごとに作られ、普通の旅人が3ヶ月かかる所を王の使者は1週間で走ったという。中国では紀元前3世紀、始皇帝が作らせたのが「馳道」といい道幅70mあったと言われる。その後「漢」「隋」「唐」の時代には幅150mの道路も作られ、ローマに匹敵する駅制が整備される。インカ帝国でも同様な直線道路が造られ、現在のペル-でも当時の道が普通に使われているらしい。 現在のペル-の 航空写真
飛鳥時代 日本では大和朝廷以前では、「草木茂盛し。行くに前人を見ず」(魏志倭人伝)という状態で、全国的にはこんなものであったであろう。やがて統一国家が作られていくに従い、道路が整備されてくる。日本で初めての本格的な都である、藤原京は持統天皇8年(694年)に成立した。 これに先行して奈良平野には直線的な道路が建設されていたということが近年の研究で判明してきた。 飛鳥から奈良盆地を北上する直線道路が、平行して3本(上ツ道、中ツ道、下ツ道)作られるとともに、それに直交する直線道路が河内方面へ向かって作られた(横大路)。また、河内平野では京からの直線道路が難波に通じていた(難波大道)。横大路は「日本書紀」推古天皇21年(難波より京に至る大道をおく・・・この場合の京は飛鳥のこと)の記事によるという見方が一般的である。藤原京はこれら3本の道を基準として作られたらしい。 これらの道路は、36m~42mという非常に広い幅員を持っていた。こうした直線道路の出現の背景には、7世紀初頭に派遣された遣隋使により、隋の広大な直線道路に関する情報がもたらされた影響があるのだろうと考えられている。 飛鳥時代の古道 奈良・平安時代 645年大化の改新の詔勅第2項・・「初めて京師を修め、畿内国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、鈴契を造り、山河を定めよ」・・・・と この中にはいわゆる駅伝制を布く旨の記述があり、これを根拠として計画的な道路網が全国的に整備され始めたのではないかといわれている。駅伝制とは一定の間隔で駅を置き人馬を置いて、リレー式に馬を使い、通信、荷物運搬の便宜を計る制度で、遣隋使などを通して、大陸の制度を取入れたものといわれている。改新の詔勅の真贋性については論争があるが、真贋は別として日本書紀の壬申の乱の項では「隠駅家」「伊賀駅家」などの地名や大海人皇子が駅鈴の入手を策したことなどの記述により7世紀後半には駅制が整備したことは間違いないといわれている。 律令の駅伝馬制は、駅路と伝路から構成されていた。 駅路は、中央と地方との情報連絡を目的とした路線で、各地方を最短経路で直線的に結んでおり、約16kmごとに駅家(うまや)が置かれていた。律令の地方制度は五畿七道といい、中央である五畿と地方である七道から成っていたが、七道のそれぞれに駅路が引かれた。東海道、山陽道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道である。都から本州、四国、九州の島を含めすべてに達し、その総延長は約6300kmに達するといわれる。 駅路はその重要度から、大路・中路・小路に区分され、当時、国内最重要路線だった中央と大宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部が大路であり、東国を結ぶ東山道・東海道が中路、それ以外が小路とされていた。駅家に置く馬は、大路で20疋、中路で10疋、小路で5疋と定められており、使者が駅馬を利用するには、駅鈴というものをが交付されている必要があった。 伝路は、中央から地方への使者(伝使)を送迎することを目的としており、郡ごとに伝馬が5疋、置かれる規定となっていた。伝路は各地域の拠点である郡家を結んでいたため、地方間の情報伝達も担っていたと考えられている。 駅鈴-> このように、駅路と伝路は別々に整備されていたが、路線が重複する区間では、駅路が伝路を兼ねることもあったようである。駅路は、重要な情報をいち早く中央-地方の間で伝達することを主目的としていたため、路線は直線的な形状を示し、旧来の集落・拠点とは無関係に路線が通り、道路幅も9m~12m(場所によっては20m)と広く、地域間を結ぶハイウェイとしての性格を色濃く持っていた。対して、伝路は旧来の地域拠点である郡家間を結ぶ地域道路としての性格が強い。伝路は以前からの自然発生的なルートなどが改良されて、整備されたと見られており、道路幅が6m前後であることが多い。両者の関係は、現代日本における高速道路と在来道路との関係に類似しているとの説もある。 平安時代になってくると荘園制が発達してきて、中央政府の力が弱まってくる。駅伝馬制においても駅家や駅馬、伝馬の維持が困難になるなどして駅路は荒廃していき、存続したとしても6m幅に狭められることが多かった。そして急速に衰退していき、10世紀後期または11世紀初頭には、名実共に駅伝馬制も駅路も廃絶した。 五畿七道図 ※ 上図は延喜式の記載によるもので、大和国は入っていない為実際は四畿七道である 道路の発掘 10世紀に成立した延喜式兵部省諸国駅伝馬の馬条には、駅路ごとの各駅名が記載されており、駅家の所在地を推定することができる。10世紀ではかなり衰退してきた時期ではあるが唯一具体的な駅名が記された資料である。これらの史料ををもとに1970年代からかなり駅家の所在が明らかにされ古道の発掘が進んできた。 路線の復元で最も確実な方法は、発掘調査であるが、素人ではなかなか発掘現場を訪ねることは難しい。発掘では平行する道路側溝が発見される場合が多い。国分寺市では、約300mにわたって12m幅の道路遺構が発掘され、古代東山道武蔵連絡路だったことが判った。両側の不揃いの黄色の線が連絡道の両溝の跡であり、現在歩道として整備されている。 地名が、路線復元に役立つこともある。古代道路そのものに由来する可能性がある地名としては、大道(だいどう)、横大路、車路(くるまじ)、作道(つくりみち)、立石、仙道(せんどう)、縄手(なわて)などがある。駅家に由来すると思われる地名には馬屋(うまや)、馬込(まごめ)などがある。これらが必ずしも古代道路の痕跡を示すものではないが、路線を復元する上で、非常に重要な手がかりの一つである。 それにしても現代では考えられないような広い幅員を持ちかつ直線的な道路が古代で作られていた。かえって後代になるに従い道路は細く、貧弱になるし、現代ではほぼ直線道路建設などは不可能に近い。古代の中央政府の権力の強大さには感じ入るものがある。
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