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  五街道制度
  伝馬制
  宿場制度
  飛脚制度
  宿場の設備
        古代の道 その3 

  近世の街道
江戸時代

五街道制度の確立

 
 徳川家康は、慶長5年(1600)関ケ原の戦いに勝利し、翌年から街道の整備を始めている。
東海道中山道、日光道中奥州道中(江戸~白河)・甲州道中(江戸~下諏訪)を五街道と呼び、町村に「伝馬朱印状」が下付され、宿駅が定められていった。 江戸時代の街道で最も重要視されたのは五街道であり、幕府はこれを直接支配していた。具体的には道中奉行が置かれ、宿駅の伝馬・旅宿・飛脚などの取締りや、道路・橋梁以下道中に関するすべてのことを管掌させた。 道中奉行の支配下にあった街道は、五街道以外にもあった。五街道に付属する街道で、脇街道などと呼ばれ、美濃路・佐屋路、日光道中に壬生通・水戸街道、佐倉街道。日光例幣使街道・本坂迎も五街道の付属街道となっている。
  幕府では享保元年(1716)に五街道の呼称を定めた。東海道は海国の道筋を通るので良いが、中仙道は古来東山道の中筋であり「山」にして中山道、日光・奥州・甲州は海道ではなく道中と呼ぶべきであると命じ、幕府はその名称を以後統一していく。

五街道図
     



 江戸幕府は幕藩体制維持のため街道を重要視し、各宿場に次のような負担を課した。
 1 伝馬制

 宿に一定数の伝馬を常備させ、将軍の朱印状や老中などの証文によって無賃で貨客を宿継ぎに輸送した。大名や旗本などが伝馬を利用する場合は、幕府が定めた駄賃(御定賃銭)を宿駅に支払ったが、安く抑えら
れた。一般人が利用する場合、御定賃銭の二倍程度を支払う必要があり、これは相対賃銭と呼ぶ。高札場
には駄賃代が明記された「駄賃高札」が立てられていた。
各街道の宿場では決められた数の馬と人足を毎日用意しておかなくてはならない。東海道では各宿が1日に100人・100疋、中山道の各宿では50人・50疋、その他の街道は原則として25人・25疋と定められていた。この負担が宿場では大変であった。運搬は原則次の宿までで各宿場では荷物をの積み替えが必要で面倒なことであった。このことが後々争いの種となってくる

 
2 宿場制度
 
 本質的な役割として、旅行者が休憩(食事を含む)や宿泊するための旅館、宿を提供することがあります。大名などが休泊する施設が本陣・脇本陣、その他庶民などの宿が旅籠(食事を提供する)、木賃宿(旅行者が自炊する)です。

 
3 飛脚制度
 
 幕府の公用文書・書状を入れた御用箱を宿から宿へと輸送する継飛脚という役も果たさなければならなかった。現在の郵便業務である。 普通の旅で12日~13日かかった江戸~京都間で、早飛脚だと3日間で書状が届けられた。

 
4 宿場の設備

 本陣・脇本陣
  本陣・脇本陣は、大名や幕府役人などが休泊する専用旅館で、門・玄関・書院の建物を設けた。玄関先には板敷きの式台があり、大名駕籍が横付けされ直接建物に入れた。その奥にはいくつかの部屋が連なり、
一番奥に書院があり、ここが他より一段高い上段の間で、大名や幕府役人の居間となった。こうした構造の
建物は本陣・脇本陣以外には建てることが許されていない。なお、本陣職には宿場きっての由緒・家格をも
った有力者が任命され、世襲でその職につくことが原則だった。
 問屋場(といやぱ)
 問屋場は、ここには問屋・年寄・帳付などの宿役人が勤務していた。宿継ぎの荷物や駕籍はここで継ぎ代え、次の宿まで輸送された。したがってこの側には馬屋や人足の詰め所があった。 
 旅籠
 一般の旅人の旅館で、食事に風呂、寝具を提供する平旅籠と、飯盛女のいる飯盛旅籠があった。なお、部屋は個室とは眼らず、温み合っていれば他人と相部屋となった。その他に米を持参して炊いてもらう木賃宿もあった。
 飯盛り女がいる旅籠には女、子供などが安心して泊まれないので、安心できる宿として、浪花講などの組織ができ、指定した旅館には看板が掲げられ、旅人はそれ見て宿泊した。現在の旅行会社の協定旅館のような制度がこの時期に作られていた。

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