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追分宿 中山道の宿場であるが、西端で北国街道が分かれるので、追分宿と呼ばれる。「追分節」の発祥の地であり、飯盛女が最盛期には200人以上もいたとされるほど栄えた。 |
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右手に●高札場が再現されている。右手に●泉洞寺。堀辰雄が愛したという「半跏思惟像」があるらしいが、パスした。 国道に出る手前が宿が終わりで、枡形があり、●枡形の茶屋「つがるや」が当時の面影を残して建っている。 ●一度国道に出ます。 9:50 |
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~濁川 ●国道を下っていきます。しばらくして●馬瀬口への分岐は左へ入るところ、重要な史跡があるので、真っ直ぐ進み、「三ツ谷東交差点」を右折し、濁川を越えて、右折し川を少し、遡ります。「馬瀬口一里塚入口」の標柱にそって右に入ると、あるのが●馬瀬口一里塚。両塚が明瞭に残ります。位置的に北国街道の一里塚ではありえず、枝道の「塩野道」の一里塚ではないかと言われます。"説明板 " 脇を●濁川が流れ、その名の通り、赤茶けて流れている。無色透明で湧き出すが、鉄分が多いのでやがて鉄さび色になるのだそうだ。 10:55 |
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■濁川~馬瀬口・柵口神社 「三ツ谷東交差点」を真っ直ぐ越え、次を右折して●馬瀬口へ入ります。馬瀬口は間宿で軽井沢の定助郷を務めていた。国道18号を「三ツ谷西」交差点で越え、更に進み、県道134手前右手に、●明治天皇馬瀬口小休所跡の標柱の立つ(高山家)があります。"説明板 " 県道を越えて少し行った右手奥に●柵口(ませぐち)神社。 柵を(ませ)と読ませる。このあたりにあった「塩野牧」の入り口に、馬が出られないようにした柵(馬塞)を設けていたので、その名がある。 街道に戻る途中に● 馬頭観音堂がある。右側に 大きな馬の石像が立っている。「長泉寺」もあるが、横目で見るだけで過ぎた。 11:50 |
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■馬瀬口~千石坂 ●馬瀬口の旧道を更に進む。 国道の●新十石坂にさしかかります。 左側は垂直に削られた侵食谷で、谷底は●田切地形という平坦な水田になっている。昔はここをつづら折に下り、繰矢川を土橋で渡り、又上がって来るという難所であった。 現在はそのまま国道が通過してしまいます。 ここは旧道に下ろうと思っても、ガードレールに遮られて、下りられない。 唯一ガードレールが "開いている個所 "があり、下りていくと、前方の岩壁に●横穴が開いており、先の戦争末期に学童の勤労動員で爆弾や燃料を貯蔵する穴を掘らせた跡というのが見える。 12:10 |
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■平原交差点~乙女坂 平原交差点から国道18号に合流し、四ツ谷東交差点で●国道141号へ曲がる。 途中右手に●柏木小右衛門生誕の地という看板が立つ所がある。御影用水を開削し、新田を開発に功績があった人物という。 四谷交差点で左斜に小さく下る●乙女坂を下りる。下りた左端に●甲州道標がある。「左江戸海道」「右甲州道」とある。逆向きに見ているので、北国街道はここを下ってきて右に曲がる。 13:23 |
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■乙女坂~与良町 乙女坂を右に曲がって、●又登って行きます。ここも乙女坂と呼ぶのだろうか。 道は細いけど、甲州街道と北国街道の交差する交通の要衝で、立て場もあったと云われる。 甲州街道は岩村田で中山道と交差して、韮崎へ向かうのだそうだ。 乙女坂の途中を右折して、国道を横断すると●加増(かます)稲荷神社がある。内陣社殿は小諸城内から移転したものという。境内に"宇氣母智神の神像 "というのが立っているのが珍しい。 その先、スーパーの隣に●唐松一里塚跡がある。 塚の間の広い道は北国街道ではなく、左端の細いのが北国街道。間に新道を造った時に、一つの塚を分断して築いたそうだが、全く意味がない。 小諸宿に向かって●坂を上がっていきます。このあたり鉄くず屋さんがあって油臭かった。 13:52 |
小諸宿 町並は鎌倉時代から長期に渡り形成され、江戸時代千石氏が入城し、積極的に整備を進め、北国街道の宿場として、城下町として、また商業の中心として栄えた。 宿場は与良町、新町(荒町)、本町、市町などで形成され、本町に問屋、市町に本陣、脇本陣が置かれた。小諸城は明治になり、懐古園と名を変え、島崎藤村の作品により有名となった。町並には古い商家などのが残り、往時の面影を色濃く残します。 |
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■荒町~本町 ●荒町に入ります。右手に●全宗寺。曹洞宗海応院末寺だが、境内に福徳稲荷大明神を堂々と置いてある。神仏習合の極み。 左手に●嶋田屋。虫籠窓を持つ江戸末期の建物で、下駄荒物の卸商。 その先は●「山吹味噌」の酢久商店。"屋根付き看板 "が特徴的。 海応院の樹齢370年の"「潜龍の松」" も見事。 14:17 |
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★本町 ●荒町1丁目交差点の先で、左折して本町に入ります。そこを右折して正面にある●光岳寺山門は、小諸城足柄門を移設したものといわれます。 ●本町は宿の中心を成し、問屋が置かれた。寛保2年(1742)戌の満水と呼ばれる洪水により、悉く壊滅して、中心は市町に移っている。 右手の●旅籠つるやホテルは1682年から旅籠を営み、平成2年にホテルとして開業している。14:30 |
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右手にある●町屋建築の右側半分は「小諸周辺地区修理修景事業実施建造物」といって、町並環境保全の補助事業で修復されたもの。 "説明板 " こういう事業はどしどしやるべきことでしょう。 左手の●大塚味噌醤油店は明治20年に創業した老舗で、味噌漬けの名店としても知られ、店舗は江戸時代後期の建築。蔵造りの様な●大和屋紙店と右隣りの典型的な町屋。●そば七は 江戸末期の建物 |
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★市町 右折してすぐ、●丁子庵そば店の前を通り、国道を横切って●養蓮寺の前までの坂を下って行く。 正面の●養蓮寺は、江戸時代の大大関雷電為右衛門の生家の菩提寺で、雷電が江戸から着物のたもとに入れて持ち帰ったという「雷電のたもと鐘」という鐘があるそうだ。 養蓮寺の前を通って、元の旧道へ戻り、右折すると、右手の石垣の屋敷は●小諸藩城代家老屋敷跡で、戦国時代は鍋蓋城跡という所だが城跡は残らず、江戸時代は家老屋敷だった。"説明板 " 14:52 |
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★懐古園周辺 本陣跡から戻って、右折すると、左手の「大手門公園」の中に●小諸城大手門が建っている。小諸城は大井氏によって築城されたと考えられ、鍋蓋城と呼ばれた。その後武田信玄の手に入り、修理の上、城代をおいて、一帯を支配した。その後の変遷を経て、仙石氏が入城して現在の形となった。大手門は仙石氏の建立になる。遺構としては、大手門、三之門、石垣が残るだけである。公園の線路脇に●小諸宿本陣主屋が移築されている。 先の本陣問屋場の隣に建っていたもの。 線路をトンネルでくぐると、●三之門が建つ。ここをくぐれば「懐古園」に入ります。 "案内図 " 中には藤村記念館やら色々あるのだが、全体を見回せるような広い場所がなく、個別に見て回らないといけない。本丸跡に●懐古神社がある。小諸城が維新後廃城になり、本丸跡に懐古神社が祀られ、「懐古園」と名付けられた。そのような由縁で神社は懐古園の大部分の地主だそうだ。 |
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現在に残る●石垣。本丸跡ではありません。 ●山本勘助愛用の鏡石というのがある。表面が鏡のように磨かれ、勘助はこの鏡石に毎日顔を映して反省したらしい伝わる。 ・・ ということで、中の記念館などには入らず、茶屋で「ひやしアメ」など飲んで出ました。 宿は「グランドキャッスル」でした。 16:00終了 |
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