北国街道を歩く 2
      (小諸~テクノさかき)
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 小諸-西原-芝生田-田中宿-海野宿-岩下-国分寺跡-常田-上田城-栁町-紺屋町-秋和-塩尻-鼠宿-さかき 27.4km
 

 2022年5月30日 * 写真をクリックすると拡大します
■新町~青木
 ホテルを出て、旧道に復帰。「懐古園入口」信号先の急激な坂を下り、●枡形のような角を右に曲がります。 正面は天王社。
更に坂を下り、その先を左折して行くと、全面に諏訪神社。左手に「臼田亞浪」の歌碑がある。ここを●右にカーブします。 栃木川を渡った先、正面に●「布引山観世音」碑がある。左へ行くと「布引観音」へ通じる。 北国街道は直進。 広い車道に出て、直進。前方は「富士見陸橋」に続く道で、盛り上がってくるので、下をくぐるべく、右へ曲がる。ちょうど「北国街道→」の標柱が立っていた。 その先左手に●青木一里塚跡がある。塚は破壊されてありません。  8:30

 ■青木~西原
 国道18号に出て少し戻ると、「マツダ」の裏手に●東山道清水駅跡の碑が立ってます。"説明板 "  旧道は一里塚から続く道に来たら、右に曲がり、すぐ左に曲がって、●国道の一本裏手を進みます。 右手に●西光寺がある。開山は天長5年(828)鍋蓋城の鬼門除けとして建立され、戦時中は作曲家「小林亜星」さんら、杉並区大宮小学校の疎開先だったといいます。旧道は脇道であるので、やがて●国道に合流します。  8:56 

 ■西原~芝生田
 深沢川を渡ると、右手に●「たか子の布あそび」と書かれた何とも複雑な形の古民家風の建物がある。布を使った小物を手作りする店のようです。●「カインズ」の先で国道と別れ、左へ折れ「芝生田(しばうだ)へ入ります。 小諸宿の定助郷を勤めている。
  ●芝生田の町並。北方に芝生田城跡があるというが、よく分からず。 芝生田は、石垣風の塀を持った立派な家並みが見られます。
大石沢川には眼鏡橋が架かるというので、右手の回ってみると●道路の下は石垣が積まれ、"眼鏡橋型 "になっているのだが、樹木が繁茂し、よく見ません。9:24

 ■芝生田~牧野
 大石川を渡った右手に●剣持双体道祖神がある。"拡大図 " 男神の剣と女神の着物で、男女の陰陽を表わしているらしい。 「滋野コミュニティセンター」を過ぎると、左側は千曲川に向けて視界が開け、●対岸の山並みの風景が素晴らしい。  滋野郵便局の先、左手に●北国街道牧家一里塚跡碑と説明板が立っている。 碑の前に政治家の看板が立っていたので、目障りで消しておいた。 9:40

 ■牧野~田中
    十字路の先、右手に●力士雷電の碑がある。大関雷電爲右エ門は明和4年(1767)生まれ。当時の大石村金子に生まれている。死後、文久元年(1861)、その履歴と英名を追慕して建てられたのがこの碑で、明治に建てられた新しい碑と2つ並んでいる。古い方は佐久間象山の筆になるもので、いつ頃か、碑の破片を掻き取って、所持したりすると、出世するとか丈夫になるとの迷信が生まれ、削り取られたため、明治に同じ様なものが建てられた。"説明板" かっては先の一里塚の端にあったが、移転して現在に至る。 生家というのが、右折した北方にあるが、遠いので行かれない。 しばらく進み、●「加沢地区」に入ります。 右手に白い壁の蔵造りの豪華な"長屋門 "を備えた旧家がある。 左手にも "出桁造りの家 があった。 その先右手に● 県諏訪神社がある。「常田南」交差点手前は、高台になっており、車道は左へ曲がって行き、歩行者のみ階段で下りるようになっている。前方は●田中宿であり、新しい広い通りだが、高台から良く見えた。10:27 

 田中宿
  慶長年間(1596~)に真田氏の保護の元、郷侍的存在の小田中氏を中心に宿として成立された。隣の海野宿との合宿とされていたが、主体的機能は田中宿が担った。しかし寛保2年(1742)、「戌の満水」と呼ばれる大洪水により壊滅的被害をもたらし、合宿の海野宿へ宿機能のすべてを譲らなくなった。宿の回復には60年の歳月を要したといわれる。その後回復をされたが、慶応3年(1867)大火に見舞われ、宿の機能は再び失われた。明治以降は鉄道の駅が設置され、商業町として発展している。本陣は小田中氏が務めた。 海野宿へ18丁(2km)

 ★田中宿
 田中宿に入って、まず旧跡を見て回ります。右手公民館の近くに、●「常田の剣持道祖神」というのがある。大石沢の眼鏡橋で見たものと同様のものだが、こちらのほうが大きい。"拡大図 " 公民館の裏手に回り込むと、●薬師堂の前に田中の石造仁王像が立つ。左右とも雷電の母が、願をかけたり、大関になった感謝を込めたりした、雷電に縁のあるもの。 境内に●戌の満水塔というものもある。寛保2年(1742)大雨の為、北山が崩壊し、土石流となって、田中宿を崩壊させ、死者68人を出した。 薬師堂から真っ直ぐ南下して行くと、●いぼとり地蔵がある。 "将棋型をした "  地蔵で、左手の甲に大きなイボを持つ。 "説明板 "  10:45

 ●田中宿内に戻ります。 田中宿は戌の満水と慶応3年の大火に見舞われ、宿の機能を海野宿に移し、往時の面影は残っておらず、明治以後「東御地区」の中心として栄えた。 平成以後全く新しい作り変えられているという。 右手の高木屋は●田中宿脇本陣。 その先右手奥に●本陣跡の門だけ残る。宅内に「明治天皇田中小休所跡」の碑が立つ。 駅前交差点の右手に●勝軍地蔵が立っていた。"説明板 " 10:54

 ■田中~海野宿
 駅前を横断して、海野へ向かいます。左手に●往時は茅葺きだっただろう旧家が1軒建ってます。 しなの鉄道の線路に沿って行き、踏切を越えると、●海野宿へ入ります。 全面の●千曲川河原は木曽義仲の挙兵の地であり、「白鳥河原の勢揃」と呼ばれます。治承5年
(1181)以仁王の令旨に応じ、義仲は、丸子の依田城を経て、ここ千曲川原「白鳥河原」で拳兵した。 "説明板 " 右側は白鳥神社。 11:15

 海野宿
 海野氏の城下町的性格を持った地として成り立ち、宿場としては田中宿の合宿として寛永2年(1625)に成立した。田中宿が寛保2年の大洪水のため壊滅状態になり、海野に本宿が移された。
 長さ約650 m、幅10 mの両側には、旅籠屋造り、蚕室造り、茅葺屋根などの歴史的な建物が残り、中央には江戸時代そのままの用水堰も残り、「宿場町・養蚕町」として、「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されている。

 ★海野宿
 ●海野宿内を進みます。 うだつ・海野格子、出桁造り、など残る特徴ある町並。東海道「関宿」と同様、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。 その昔友達と一度来たことがあるのだけど、当時は宿場の知識もなく、ふ~んという感じだけど、現在はそれなりの感慨を持って回ります。 入り口右手に●白鳥神社。 海野氏の氏神で、没落後真田氏の氏神となる。日本武尊が東国平定後に都に凱旋帰国する際に当地で一時留まり、尊が死後に白鳥になって飛び立った事に由来して創建されたと伝えられる。 隣に●媒(なかだち)地蔵尊。縁結びのお地蔵さんで、良縁に恵まれない年頃の姫のいた加賀の国の殿様が参勤交代の途中でお参りしたところ良縁が得られたという逸話が残る。 その先右手に●海野宿資料館 。寛政年間に建てられた旅籠屋で、明治以降に養蚕農家に改造された。11:22

  海野宿は明治以後、宿場としての機能が廃れ、養蚕が盛んになり、屋根に気抜き小屋を持つ建物が多くなった。●●うだつの上がる家並み。 うだつは防火のために造られるが、二階壁から突き出すのが「袖うだつ」。防火性能より、装飾性に重きが置かれたもの。屋根の両側に乗るのが「本うだつ」で、庄屋などにしか許可にならなかった。その後豪商などが競って設置したため、「うだつが上がらない」の語源になっている。 その他、軒うだつと脇うだつなどがある。 ●海野宿の用水路。 ここでは珍しく、用水が真ん中に残っている。 宿場はこれが普通なのだが、現在はほとんどの所が残っていない。 右手に●本陣跡。馬の塩舐め石が置いてある。 11:26

 海野~西海野
 右手に●養蚕用の気抜き小屋を持つ建物●西外れの枡形跡らしき所を過ぎ、●成沢川を越える。未だ旧家が残ります。●西海野地区に入ると、ここは海野宿と一体の「本海野村」であり、海野宿同様に、用水路を持ち、広い町並です。 11:40

 ■西海野~岩下
 「大屋駅」に近づいて、左へ折れると●大屋仁王尊。すぐ後ろは千曲川の崖。"仁王像 "は漫画チックな顔で、ちっとも迫力がない。 この前を通る道は江戸初期の北国街道で、そのまま西へ真っ直ぐ進むと●大屋神社がある。 瀬沢橋を渡って、次を左に曲がり「岩下地区」へ入ります。入ってすぐ●一里塚があったという看板が架かる所がある。 ここも北国街道成立に伴い、近隣から移住してきた集落です。中程に●明治11年明治天皇巡幸の際の小休止跡碑が立つ。右隣に「仁和寺宮嘉彰親王御遺跡」という碑も立っており、明治元年会津征討総督として江戸に向かう際の小休止になった碑で、2つ共小休止跡碑です。 12:22

 ■岩下~神川
 右手に●伊波保神社。境内裏手に、夫婦道祖神や石仏などが並びます。 左手、千曲川の中に●太鼓岩というのがあり、 昭和34年までこちら側の河岸と岩の間に観光用の吊り橋が架かっていて、両側に鉄枠が残っている。 その先珍しいことに、●「旧北国街道←」の看板が立っているので、左側の畑のあぜ道が旧道らしい。 通り終わると●千曲川に流れる神川へ出た。平将門と平貞盛が「将門の乱」の際、川を挟んで戦ったといわれる。 12:35

 ■神川~国分尼寺跡
 橋を渡った先、「神川小学校」の角に大きな"馬頭観音"がある。文政元年(1818)加賀の飛脚たちが建立したもの。千曲川に沿って進み、ハープ橋脇を過ぎ、道なりに行くと、右手に●石垣を備えて、重厚な門を持つ屋敷が見えてきた。旧上田宿海野町にあった「柳沢本陣」だった屋敷でしょう。明治にここへ移転してきたという。屋敷の脇の細い道を適当に曲がって行くと。「信濃国国分尼寺跡」に出ました。 ただ広すぎて一枚の写真に収めきれず、●配置図によって全貌を確認するしかありません。東隣りは「国分僧寺」だが、見事に「しなの鉄道」と国道により分断されている。●尼寺金堂跡。 12:52

 ★国分僧寺・国分寺
 線路をトンネルでくぐると、「国分僧寺」の方に出られます。●国分寺講堂跡。 信濃国分寺資料館もあるが、寄ってはみなかった。 国道を渡って、現在の「国分寺」の方へ行ってみました。
 国道脇に●仁王門が建つ。参道の先に●本堂。万延元年(1860)竣工。初願から完成まで31年を費やした。1月8日の縁日にちなんで「八日堂」の別称がある。縁日には蘇民将来のお守り、福だるまなどを求める多数の参詣者で賑わうという。 
 ●三重の塔は室町中期の建立で(国指定重要文化財)。寺伝では建久8年(1197)源頼朝が善光寺参詣の帰途、寺の衰退を憂い、塔の再建を命じたという。が、様式から室町時代のものと推定される。 13:05

 ■国分寺~常田町
 また旧道へ戻ってきて、先に進む。線路脇を進み、「国分跨線橋」を渡り、「踏入2」信号で141号を越える。●旧踏入村の細い道を進んでいくと、右手に●屋根付き井戸がある。北国街道踏入(ふみいり)村の生活用水、旅人の喉を潤した古跡という。整備中らしく、カバー状のものが置いてある。 突き当たりを右折すると、●信州大学繊維学部がある。ここのところは枡形らしいが、崩れているらしい。 ここを左折、右折していくと●科野大宮社がある。古代の信濃国の総社と推定され、境内に槻の大木が保存されている。
 14:05

 上田宿
 真田氏が造った上田城の城下町であり、北国街道の宿場でもあった。真田氏は松代に国替になったが、真田氏の愛着は強く、六文銭の印が至る所で見られる。本陣は海野町に置かれ、問屋は原町と海野本陣が兼帯した。柳町には多くの旅籠や町家建築が軒を連ね、現在でも歴史的な町並が保存されている。

 ■常田町~海野町
 上田宿に入ってきて、右手に●毘沙門堂。活文禅師が寺子屋を開き佐久間象山もここで学んだという。●常田には重厚な蔵造りの建物があります。突き当りを右折すると●「横町」。右手に"宗吽寺 "がある。仙石氏、松平氏の祈願所であった。「海野町」信号を左折すると、●海野町に入り、真田氏は上田城築城の際に本家の「海野氏」を優遇し、海野郷から人々を移住させて、できた。 14:27

 ■海野町~上田城
 右手に●高市神社。祭神は大国主神と事代主神で商売繁盛の神様。この道路向かいが●本陣跡で、国分寺の所で見た、柳沢家が移転した跡になる。樹木の下に「北国街道上田宿本陣問屋跡」の石碑がある。●中央2丁目の交差点。右折するのが北国街道で、直進すると上田城跡公園に行ける。ここは城へ行くことにして、しばらく進むと、二の丸橋を渡って、●二の丸東虎口から公園に入った。14:45

 ★上田城
 上田城の紹介はできかねるので、情報を検索していただきたいが、 ここも懐古園同様、中々広大で、全貌をつかむことが難しく、個別に少し見て回ることにします。 "案内図 " ●東虎口櫓門をくぐった先に●真田神社がある。大河ドラマの余韻が残っているせいか、幸村の像などもある。珍しいものでは "真田井戸 " がある。「抜け穴」になっていて、城外に通じ、包囲されても食料などを運び入れることが可能だったという。 真偽のことはなんとも、わからず。 ●本丸跡には 記念碑が立つだけ。

 ■上田城~原町 
 帰りがけ、上田高校へ寄り、学校の敷地は上田藩主居館跡で、●正門は居館跡の門がそのまま使われている。敷地の周りには●居館の堀が残っている。上田藩主は徳川幕府を慮って、城に天守を作らなかったので、敷地内に居館を作って住んでいました。 「中央2丁目」交差点に戻って、左折して進みます。 左手に●原町市神社がある。16世紀末真田昌幸が高市事代主命を勧請して建立。道路の拡幅により境内が小さくなっている。 斜め向かい側に●真田太平記館がある。15:15

 ■原町~柳町
 「中央3」の信号を左へ曲がり●柳町へ入ります。柳町は古い町並みの面影が良く残り、土蔵造りや卯建の上がる家並みが見られます。 左は●岡崎酒造、その次は●森文。袖うだつを備え、2階の格子は長いものと短いものが並んで、「親付き切り子格子」と呼ぶらしい。 北端の右手に●保命水と呼ばれる井戸がある。明治14年に海禅寺の境内に湧き出る清水を木管で引いたきたもので、水質検査をクリアして、飲めるそうだ。 15:25

 ■柳町~紺屋町
 保命水の所を左折して●紺屋町へ入ります。紺屋町は、真田昌幸が海野郷から紺屋(染物屋)を移住させて造った町。宝永3年(1706)には、紺屋が10軒あった。後に、上紺屋町と下紺屋町に分かれた。ここも城下町らしい土蔵やうだつなどの旧家が良く残っている。 ところが現在の地名は「中央」とか「中央西」とかで、味も素っ気もない。横町、海野町もなくなってしまっている。紺屋町は1km以上直線で続きます。 右手に●小泉家住宅。江戸末期藍染工房の「泉屋」の跡。 西端に●北向観音道標がある。右側が 左方向で、別所温泉にある「北向観音」への道を示す、また松本街道の追分でもある。 ここを左折して芳泉寺に向かいます。 左折した先の芳泉寺は真田氏の菩提寺で、本多忠勝の娘で、真田信之に嫁した●小松姫の墓がある。 15:53

 ■紺屋町~常磐城4
 上田宿も西端になり、●黒塀の所を右に曲がります。西の枡形でしょう。高橋を渡って左折。正面に●善光寺道標が立つ。そこを右折すると、「生塚」信号で、国道18号にぶつかります。国道を左折して●「常磐城4」交差点を渡り、先の正福寺に●千人塚があります。寛保二年(1742)の大洪水で漂着した死骸を埋葬した碑が立つ。 ここで頁も長くなり、上田宿も終わりになるので、北国街道3へ移ります。 16:05

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