北国街道を歩く 5
          (善光寺~牟礼)   
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 善光寺大門-三輪-吉田本町-稲田宮-飯山街道分岐-田子-宇佐美沢-三本松-四ツ屋-牟礼  14.3km
 

 2022年9月14日  * 写真をクリックすると拡大します
■善光寺大門~三輪
 新幹線「かがやき」で、8時40分過ぎ、長野駅到着。6月に善光寺まで終わり、今回は2泊3日で髙田まで行ってしまおうと思いますが、奥方がくっついて来まして、なるべく寄り道しないで行くとすると、着けるかなって感じです。
 バスで●「善光寺大門」へ。右側は本陣だった「藤屋旅館」。その隣が、七味唐辛子で有名な「八幡屋礒五郎」。前方は「善光寺大門」。ここを右折して行くのが北国街道で、右折します。 すぐに西宮神社に突き当たり、左折します。右折して、すぐ左折して、「新町」に入り、左手高台の民家に●天神社が建って、「柏崎地蔵尊」の案内板が架けてあります。地蔵は謡曲「柏崎」に登場する柏崎の領主柏崎氏の子供「花若」の供養のために作られたものと伝えられるとのことで、地蔵自体は屋敷の庭に安置されているというので、外からは見られません。ここは一里塚跡らしいです。
 「新町」の旧道を通り、しばらくは普通の町並で、●「三輪七・八丁目」交差点を過ぎると土蔵作りの大きな旧家が点在します。  9:22

 ■三輪~美和神社
 左手に●時丸禅寺」。「善光寺縁起」によると。・・大和国三輪の「時丸」は死んで地獄に墜ちたが、善光寺如来の加護により蘇生し、その恩に報いるために庵を結んだという・・。ここの"六地蔵の一つは "赤子を抱いている、この先にも同じ形式の六地蔵をいくつも見ることになった。
 「三輪8・9」信号を右に曲がってあるのが●美和神社。式内社で、 主祭神は大物主命。奈良の大神神社の祭神と同神である。「時丸禅寺」開基の三輪時丸が善光寺に参詣しそのまま当地に留まり、大和国大神神社の御神体を奉納したので、現在も奈良の大神神社には御神体がない、という伝説が残されているという。境内に●ケヤキの大木が数本鎮座。めずらしいところでは"算額 "が架かっており、回答は"こちら " 。 9:40

 ■美和神社~吉田本町
 その先、左手に●吉田大御神宮がある。式内社で、創建年代は不詳。元々東方「 吉田3丁目」に鎮座していて、そこの大イチョウがこの神社の御神木だったという。そのイチョウを見に行ってもいいのだけど、止めておいた。北国街道整備に伴い、イチョウを残したまま、この地に移転し、延喜の頃の68州の一の宮の石祠を統合し、●石祠がずらりと並んでいる。鳥居右脇に"芭蕉の句碑、茂呂何丸句碑(右)"が立っています。 この先●突き当たりを左へ折れ、折れた先が「新町宿」です。突き当たり奥には「善敬寺」など寺が並んでます。 10:10

 新町宿
 稲積一里塚を通る古道が稲積村、徳間村、東条村の三村を通る現在の街道に変更になり、3村が街道沿いに集められ成立した。北国街道と飯山街道、草津街道の要衝として発展した。各村に問屋が置かれ、月を上中下旬に分けて継ぎ立てをし、稲積の問屋が本陣を兼ねた。

 ■吉田本町~稲田宮前
 「吉田3丁目」信号左手の「「岡澤蕎麦店」の壁に「北国街道 吉田口留番所」の看板が架かるので、このあたりに「口留番所」があったらしい。 右手●天周院の参道左手に"茂呂何丸 の生誕の碑がある。茂呂何丸(もろなにまる)は 宝暦11(1761) ~天保 8 (1837) 俳人、吉田の生まれで江戸で没する。 吉田神社に句碑がありました。 
 浅川を渡り、新町宿に入ります。●新町宿本陣あたりと右手の●本陣跡である「吉澤家」。 本陣一帯だけが道幅も広く、かっては七間割の家が40軒も軒を連ねていたという。現在は道幅は変わらない感じではある。町並自体は普通の町並。 "本陣の説明板 "  10:20

 ■稲田~飯山街道分岐
 本陣の前が●稲田神社。稲田村の村社。 その先左手に●円通院。本尊は村上義清の守護仏で、行基の作と伝わる。創建年代は不詳だが、お堂は平成18年のもので新しい。「徳間」に入り、県道399の交差点は●飯山街道との追分で、右向かいに"道標 "がある。"案内板 "。 10:38

 ■飯山街道分岐~蚊里田八幡宮鳥居
 徳間川を渡り、右手JAが徳間村の問屋跡だという。その先、●下り坂になる。 駒沢川の橋を渡って、左手に薬師堂がある。「堂万川」が流れ、段丘のせいか、下がったり、上がったりしている。坂を上がると左手に●十王堂がある。お堂の真ん前に、トタン作りの倉庫みたいのを作るという神経がわからぬが、中に地蔵菩薩や十王像などが安置してある。 すぐ右隣は●蚊里田八幡宮の一の鳥居で、社殿はここから、はるか先なのでパスせざるをえない。善光寺の鬼門除けとしての役割を担っていると伝わり、祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。 10:50

 ■蚊里田八幡宮鳥居~田子
 結構長い坂を上り終えると、郵便局前に出る。 ゆるく下って行くと、左手に●幸清水碑というのがある。 "説明板 "
すぐ先、右手に●粟野神社、境内に、猿田彦と、幸神を祀る。左手には國胎寺がある。「田中」交差点で広い県道60号を渡る。山際をゆるーく上がって行く。「田子」バス停のすぐ先、左手に●立派な門構えの旧家がある。「明治天皇田子御小休所」碑が立つ「池田家」で、表門は飯山城の裏門を移築したそうだ。 11:17

 ■田子~
 左手に●田子神社鳥居が立っている。 右隣に「明治天皇田子御膳水」碑があって、小休止の際使われたものでしょう。社殿は奥の方にあるので、行かなかったけど、御膳水に使われた湧き水の「田子清水」があるようです。
 その左手一帯に●田子(タコ)池が広がります。 「タコ」という地名は信濃国府(松本)と越後国府(直江津)を結ぶ東山道支路の「多古駅」の名残と考えられるとか。 11:27

     ~宇佐美沢
 「吉集落」にはいると、「吉村坂」と称する、きつめの長い坂が続き、かなりきつく、温度も高いのでズボンまで濡れてきました。9月も半ばだけど予想外にきついです。 ●県道60号のガードをくぐる。その先、右手に●宇佐美沢一里塚跡であるが、塚が無くなり、小さな地蔵と無縁仏碑が並ぶだけ。 更に上がって行くと、右手下段に●原池観音堂が建つが、疲れて行く気が起きなかった。 12:00

 ■宇佐美沢~松代道分岐
 県道に合流して、少し先を左へ折れるのが旧道で、そっちへ入ります。左手一帯にが明治天皇が北陸巡幸時に野立された●鍛冶ケ窪野立跡で、石垣を四角に積んだ御座所が残ります。 「丹霞郷→」の看板に沿い、右へ曲がる。 左手は「庚申塚古墳」の訳だが、形がよく分からず、通りすぎた。 まもなく●松代道との「平出追分」に近づき、右手に●松代道が屋代から合流している。合流点に追分道標があるはずで、民家庭にあるらしいが、無断で入り込む訳にも行かず、分からなかった。
12:23

 ■松代道分岐~三本松
 ●平出集落を進みます。 昔であれば豪壮な茅葺き建物であっただろうが、銀色のトタンで覆われているのが残念なところ。右手の●高山寺は加賀藩が参勤交代の際、休憩を取った所だそうだ。やがて●三本松に到着した。ここはコンビニやドラッグストア、ホームセンターが立ち並び、物産館もあって、ほっとできて助かる。 13:20

 ■三本松~四ツ屋
 松林の中に、高さ1m、直径7.5m程の塚が有り、「行人塚」と呼ばれている。 "説明板 "  またこのあたりで小林一茶が15歳で江戸に旅立つ時、父親と別れをかわしたといわれていて、●一茶句碑が建っている。 三本松は峠で、回りの風景が絶景で、信越五岳(飯綱・黒姫・戸隠・妙高・斑尾)が広がり、旅人が一息ついた場所でもあったというのも十分うなずける。 物産館脇のベンチで小休止の跡、●前面に黒姫を望む坂を下って行く。 すぐ先、右手の旧道に入る。 13:47

 ■四ツ屋~
  間もなく、●四ツ屋一里塚がある。左手の西塚はこんもりしたといえば、そう見える程度、右手の東塚は民家の中にあるというので、目をこらしたが、良く見えなかった。 その先急激に下っており、下る手前から見る●黒姫高原が絶景でありました。 13:57

     ~牟礼
 牟礼に向かって下って行く。県道に合流する手前、右手に●地蔵や馬頭観音などの石塔が並んでいる。 ●牟礼集落に向かって坂を下る。 ●牟礼宿の入口。枡形の上を「しなの鉄道」が通っている。左手脇に"「北国街道 牟礼宿」と刻む石碑 "が立っている。 14:17。 さて、ガードをくぐって左に曲がるのが牟礼宿で、次の古間、柏原宿は8kmほど。 ここまでは予定通りで、柏原着が5時頃のつもりでいたが、奥方連れであるし、予想外に暑く、汗びっしょりにもなったので、ここで切り上げて、牟礼駅に向かい、長野駅に戻ることにしました。   

      篠ノ井-善光寺     牟礼-妙高高原