北国街道を歩く 4
          (篠ノ井~善光寺)   
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 篠ノ井-横田城跡-南長野運動公園-南原-北原-丹波島-長野駅前-新田町-大門-善光寺   11.52km
 

 2022年6月1日  * 写真をクリックすると拡大します
■篠ノ井駅前~南長野運動公園
 街道がホテルのそばを通っているので。すぐ復帰してもいいのだけど、その前に少し史跡があるので、見ておきます。 ホテルから南東方向へ行くと、「可毛羽神社」というのがあり、その北隣に●木曽義仲供養塔が立っている。案内板の文字がかすれて、読みにくいが、養和元年(1181)木曽義仲は越後の城助職と横田城を拠点に、横田河原で戦い、勝利した。 横田城に近いこの地に、子孫の久保田氏が建てたもの。 その隣に何故か、●芭蕉句碑や訳の分からない石碑が置かれている。 
 神社の北方に●横田城跡がある。"説明板 " このあたりは今では街中だけど、昔は「横田河原」であり、木曽義仲が北陸攻略の拠点とし、川中島の戦いでは、武田信玄方の武将、原大隅守が守り、上杉軍に備えたといわれる。外堀が南北180m・東西230mの規模だった。次に、いささか遠いけど、「南長野運動公園」へ行って、南西の隅にある、●勘助宮跡碑を見た。信玄軍の軍師、山本勘助は啄木鳥戦法が失敗し、この地で討ち死にしたとされる。
 このあたり一帯は「第4次川中島の戦い」の激戦地の旧地であり、東北にある「川中島古戦場史跡公園」のも行ってみたかったが、遠くて断念しました。 9:00

 ■運動公園~南原
 運動公園から西へスライドさせて来ると、●合戦場公園がある。「川中島古戦場公園」は武田方の本陣が置かれ、信玄と謙信の一騎打ちで有名だが、実際の合戦の舞台はこのあたりで、「合戦場」の地名が残る。●隅の記念碑には川中島は肥沃な地で、裏作に小麦を作り、「日本のウクライナ」と呼ばれたとある。
 県道を西に進み●「高田地区」の旧道に戻った。右手「南原公民館の」左半分が、●旧名主の伊藤家で天皇小休止跡の標柱が立っている。10:07

 ■南原~北原仲町
 少し行くと左手に●蓮香寺。 長野オリンピックでドイツのゲストハウスとなったそうだ。境内に●小林一茶の句碑がある。文化4年(1807)、北国街道で江戸へ戻る途中、南原宿で弟子と分かれた時に、詠んだ句。 その先左手に●明治天皇御膳水の標柱の立つ、屋敷がある。 「北原西」に入って、左手奥に●延命大仏殿というのがあり、"説明板 " 中に "延命大仏が "鎮座している。10:27

 ■北原仲町~丹波島
 すぐ先右手●天満宮のところに石碑が数基立つ。手前の大きいのが、「節婦おせんの顕彰碑」は、明治4年に今井村の農民の妻のせんが、旅の僧に貞節を守って殺害された。明治政府から表彰されたそうだ。●「長野南バイパス」の下をくぐります。 ●川中島町上氷鉋」へ入ります。 左手に●浄生庵があり、お堂の中に観音菩薩と延命地蔵尊がある。 11:22

 丹波島宿
 慶長16年(1611)松代道が正式の北国街道であったのを、現在の善光寺へのコースが正式の北国街道に変更になり、丹波島宿が成立した。犀川をこの辺りでは丹波川と呼び、丹波島と呼ばれたことにちなむ。東西6町、幅4間の規模をもった直線道路で、本陣、脇本陣、問屋が置かれた。

 ★丹波島宿
 その先突き当たりが●丹波島宿の枡形で。右に曲がります。 左角には●於佐加神社がある。宿の出入口の所に、神社か、寺があるのは宿場の定石みたいになっている。"「丹波嶋宿の遺産マップ」と書かれた案内板 " がある。これほどわかりやすいマップはあまり見ません。「鍾馗さんの飾り瓦」という案内板もあり、屋根に●鍾馗さんが乗っている。宿場に入ってくる邪気を払うためのもので、丹波島宿の文化遺産だそうだ。 ●丹波島宿の町並。真っ直ぐ600m続いている。基本、住宅街で、宿場の風情は残るが、家は新しい。
11:30

  左手の●高札場"説明板 " ●高札の内容は「長野市民憲章」などで、中々洒落ている。 隣に●脇本陣問屋跡柳島家。母屋は江戸中期の建物とのこと。「明治天皇丹波島御膳水」の碑が立つ。 その先に●本陣跡柳島家"説明板 " 明治天皇御小休所碑が立っている。 11:35

 ■丹波島~丹波島橋
 ●丹波島宿も終わりになり、左へ曲がります。 右へグーっと孤を描いて行くと、土手沿いに●丹波島の渡し跡碑が立っています。
●丹波島の渡しあたり。このあたりから「丹波島橋」北詰あたりへ斜めに渡っていたものと思います。橋から●犀川の風景。渡しは江戸の「渡し舟」、明治は "舟橋 " から木橋、昭和の鋼橋と変遷してきたようです。 北詰めに "善光寺常夜灯 " が両側に立っています。

 ■丹波島橋~長野駅南
 渡って、橋の右側の細道へ下る。しばらく北上し、「ホクト文化ホール」交差点を右折、「信州大学」校舎西隣に●姫塚がある。「佛導寺」墓地内にあり、熊谷直実の娘鶴姫を葬った墓だと云われている。塚は円墳の上に建っている。 「文化ホール」信号まで戻って右折して、北上。 ●旧街道の様な細道で、風情がありそうだが、長野市街でもある。 左手に●木留神社。、善光寺再建のための材木を犀川丹波島の渡しで陸揚げし、境内に留め置いたからだと伝わる。手前は「蓮心寺」。そのままずーと真っ直ぐ北上。左手に●観音寺。源頼朝が善光寺参詣の際に創建したという。 12:27 

 ■長野駅~かるかや山前
 街道はJR線で消滅し、●トンネルで線路下を抜ける。 長野駅前に●如是姫像がある。インドの長者の娘で、不治の病にかかったとき、不信心の長者が釈迦に従って一心に南無阿弥陀仏と唱えたら回復したという伝説があり、その為、一光三尊仏がインドで作られ、それが日本に仏教伝来と共に渡来してきたいう仏である。その仏が善光寺の由来になっているわけで、この姫がいないと善光寺の存在理由がないとい訳。 ●末広町の五差路。 善光寺は右を行く。●長野市街の北国街道。 12:50

 ■かるかや山前~大門町交差点
 右手に●西光寺がある。●石堂丸と父親の再開の像が立つ。 石堂丸の物語は長いので次を参照されたし(刈萱、Wikipedia)。石堂丸が母と一緒に女人禁制の高野山に上った時の話は「高野街道」を歩いたとき見ている。"説明板 " 刈萱塚は工事中でした。
 右手に "栽松院 "があるが、寺の北側と南側に川が流れ、島のようになっていたので、「しまんりょう」と呼ばれた。南側を通る道は栗田街道「しまんりょ小路」で、長野駅の南東に位置する「栗田」から善光寺参道に至る小路をいいます。 その先左手に●北野文芸座。 芝居小屋が連なっていた門前を再現した。門前の舞台に立てないと役者は佐渡まで回り、「どさ回り」 と云われたとか。13:10

 善光寺宿
 善光寺の門前に設置された門前町兼宿場町で、全国からの善光寺詣での人々で賑わった。宿の成立は慶長6年(1601)で本宿である大門町に本陣、脇本陣、問屋、旅籠が置かれた。

 ■大門町交差点~善光寺
  ●大門交差点。これから先が善光寺宿の中心地になります。 しかし今年は善光寺、7年に一度の「御開帳」の年にあたり、平日なのに大変な人出で、ゆっくり見ていられません。 左手の●善光寺郵便局は明治5年に設立された「中牛馬会社」跡で、設立の中心人物「中沢与左衛門」が建てた建築が郵便局の建物として使われているとか。 その斜め左側が●善光寺宿本陣を勤めた藤井家。現在の「藤屋」ホテルです。何回かの善光寺町の火事の為、昔の面影は留めていません。北隣が有名な唐辛子の「八幡屋礒五郎」で、お土産に2つ買いました。 ●善光寺」交差点で宿は右に曲がり、新町宿へ続きます。(写真撮り忘れたので、グ-グルアース)。この先は善光寺境内に入ります。
13:25

 ★善光寺
 真っ直ぐ進むと●善光寺仁王門。宝暦2年(1752)に建てられたが、2度消失。現在のものは大正7年の再建。仁王像は高村光雲と米原雲海の合作による。 くぐった先は●仲見世通で、人がいっぱい。 右手に「六地蔵:が並び、左端に●「濡れ仏」(延命寺地蔵菩薩座像)が鎮座。「八百屋お七」の冥福祈り、恋人の「吉三郎」が造立したという伝説もあるとか。。続いて●善光寺山門をくぐります。 楼門形式、二層入母屋造りで、東西30m、南北13m、高さ20mで寛延3年(1750)完成。 13:35

●善光寺本堂
 本堂に来ました。「御開帳」で大変な人出。騒がしくて、中に入らなかった。 善光寺の創健は皇極天皇元年だが、江戸中期まで仁王門の先、左手にある「旧如来堂跡地蔵尊」の所に存在して、門前町に近すぎたため、11回も火災にあり、北へ300m移転して、やっと火災から免れたという。
 現本堂は宝永4年(1707)の完成。 
 ・・ということで3泊4日で軽井沢追分からここまで来ましたが、本来の距離70km程度のものが、色々寄り道が多く、90kmを越えてしまいました。 まだ2時前なので、次の新町までと思いましたが、さすがに元気が出ません。バスで長野駅に戻り、15時21分の新幹線で帰りました。次回は9月頃です。

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