北国街道を歩く 6
          (牟礼駅~妙高高原駅)
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 牟礼駅-牟礼宿-児玉坂-落影-小古間-古間宿-柏原宿-野尻宿-野尻湖-関川関所跡-妙高高原  17.44km
 

 2022年9月15日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■牟礼駅~牟礼宿
 9時45分牟礼駅到着。昨日打ち止めにした、しなの鉄道ガードへ向かい、くぐって左折すると●牟礼宿に入ります。現在は用水が両側にあるが、昔は中央にあり、明治天皇巡幸の時、徳満寺用水を延長して左右に水路を作ったという。 古い建物は、ほとんど残っていないが、右手、本うだつのある建物は「古間鎌」を扱った●旧鎌問屋の家。鎌は古間、牟礼の名産で鎌問屋が広く販売をしていた。  左手に●牟礼神社。牟礼宿ができて、矢筒山から移された。 上杉景勝の牟礼宿から善光寺宿を通らない「松代道」の通行を命じた制札などあるそうだ。 10:15

 牟礼宿
 牟礼宿がある地は古くから越後国と善光寺平を結ぶ交通の要衝とされていた場所で、慶長15年(1610)に北国街道が整備されると牟礼宿として成立した。宿場には本陣、脇本陣、問屋、旅籠などが設置、江戸後期では家屋143軒、寺院4軒、人口746人であった。また佐渡金山からの荷物を江戸まで運ぶ中継地点として、幕府は金附場を設け管理させた。

 ★牟礼宿
 牟礼宿は明治時代に信越線「牟礼駅」が宿場から離れて開業したため、すっかり寂れてしまったといわれる。JA中郷支店があったあたりは駐車場になっているが、●牟礼宿本陣の跡にあたる。本陣高野家の敷地が広く、裏庭の一角に●養蚕社と「明治天皇牟礼行在所跡碑」が建っている。天皇は本陣で昼食を摂られた訳である。 右隣りに●高野家の末裔の方でしょうか、家の前に大きな石燈籠がありました。 "牟礼宿案内板 "  江戸時代、本陣高野家と「上の酒屋」小川家とが対立し、天保期には宿民まで巻き込み、本陣(東組)と上の酒屋(西組)の二派に分裂してしまったという出来事があった。

 ●牟礼宿西方の町並。 右手に●本陣と対立した上の酒屋跡がある。建物は新しいが、裏の金比羅の屋敷神だけが往時の名残をとどめている。 右手に●徳満寺の鐘楼門がある。 10:25

 ■十王坂~小玉入口
 證念寺前に"北国街道牟礼宿 十王坂碑 "が立ち、左へ枡形を曲がると●十王坂で、ここを上がっていく。正面はシダレ桜で、春はきれいでしょう。 左手に●十王堂。閻魔大王ら十王が並びます。
 坂を上がって右折して、そのまま進んだら間違いで、北国街道は一つ手前を右折しなければいけなかった、一つ手前を右折して●鳥居川に沿った街道を進みます。 10:36

 ■小玉入口~小玉
  右手に●「金附場跡」の案内板が立っている。 "案内板 " 金附場は、佐渡からの金銀を新しい馬の背に付け替える中継施設で、北国街道から鳥居川までの300坪くらいあったらしいが、鳥居川が浸食されて、今はわずかな畑地を残すだけ。
 その先左手に●●「武州加州道中堺碑」というのがある。 "説明板 " この地点が加賀国(金沢)と武蔵国(江戸)との距離120里の中間点にあたり、前田家が建てた道標であるという。 10:45

  その先、「←北国街道 隧道を抜けて~」の標識に従い、国道18号の下をくぐるので●左脇へ折れます。 左手の土蔵を備える家は●加賀藩小休所となった黒柳家(跨線橋の上から撮影)。「しなの鉄道」を跨線橋で渡って、右折すると●高札場跡へ出た。 正徳元年(1711)の定書の現代訳が書いてあった。 "定 書 "  10:52

 ■小玉坂入口~
   小玉集落を進み、小玉坂への●分岐の所は案内に従い、右手を行きます。 "小玉坂についての江戸時代の嘆願書の解説板 "が立っていました。 小玉坂に差し掛かり、●途中の眺めが素晴らしい。 いよいよ小玉坂の林間道に突入します。 小玉坂は落影までの30丁、約3kmの林間道で、石洗い坂・観音坂・赤坂・金坂が含まれ、碓氷峠に並ぶ難所で、明治時代に新道、昭和7年に大きく迂回路が建設された。(現在の国道18号)。 すぐ先の●分岐では右へ行くのが旧道で、左へ行くのが明治の新道。天皇巡幸のため整備された。ここは旧道を行きます。 11:03

 ★観音平・一里塚跡・戸草道分岐
 碓氷峠と並ぶ難所とはいえ、そう難しい道でもなく、「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選定されている道です。 気分良く歩きましょう。 ●「観音平(びら)と馬頭観音」という案内板があり、右手奥に "石仏群 "が置かれている。
 しばらく進むと、●小玉一里塚跡がある。清水が湧き、茶屋があった。中央の黒い石碑は小玉の鎌鍛冶、黒栁清八の頌徳碑。父親が茶屋をやっていたが、息子は鎌鍛冶に転業したという。 やがて、簡易舗装路の明治新道に合流する。 ●戸草道との分岐に出た。右折していくのが「戸草道」で「しなの鉄道古間駅」方面へ出られます。 途中に「見坂平」の地名が残り、古代東山道の「神坂」にちなむと考えられているそうだ。 11:25

 ■小玉坂~出口
 ●快適な杉林の中を進みます。 やがて左手●明治天皇清水窪小休所跡に来ました。 明治11年の北陸巡幸の際、休憩した所で、小玉坂の最高点にあたる。 天皇には「玉堂」、岩倉具視らには「随行員棟」が建てられたというから、休憩するのも大変だ。 小玉坂も終わりになり、●落影集落が見えた。 11:50

 ■小玉坂~落影
 ●落影集落に入ります。落影は立て場で、正面左手の家は茶屋だったという。左へ進む道は、「坂中道」といい、坂中峠を越えて善光寺への近道となる。 茶屋の家はここで酒を売っていたりしていたそうです。 家の後に "坂中道道標 "が上部が欠けて残ります。 ●集落の中をまっすぐ進みます。 国道18号に出る手前、左手の家の庭に●「明治天皇清水窪御膳水」の碑が見える。先程の小玉坂の明治天皇御野立所に、ここの井戸水を運んだのでしょう。  "落影地区の説明板 " 12:05

 ■落影~小古間
 ●国道18号に合流しました。 少し先、「← 北国街道」の矢印に従って、●左手林間の道へ入って行きます。 右、左と曲がって行くと、●T字路へ来ます。 ここは「小古間の四山展望の地」というらしく、前方に「飯縄・戸隠・黒姫・妙高」見えるというが、今日は天気が悪く、黒姫も曇って見えませんでした。 12:21

 ■小古間~古間
 古間に向かって北上して行く。 右手奥にスーパーがあったので、昼食を仕入れに寄ります。今日もかなり暑いので、店のベンチで結構長く、くたっとしてしまった。 元に戻って進むと、右手に●高橋酒造がある。古間宿内に3軒の酒造があり、明治初期創業の高橋酒造に受け継がれたそうだ。 酒造の前を左斜めに進み、水路を越えていくと、二股に出、正面に水受けがあって、●清水の水鉢というのであろうか。江戸時代からあるもので、近所や旅人の飲料水に使用されたものという。 
 右手に●古間一里塚跡がある。塚は無くなり、両側の敷地は民家の中。 文政4年(1821)一里塚に植えられていた松の木が雪の重みで折れ、その下にいた人馬が圧死する事故があった。一茶がこれをあわれんで・・「一声に此世の鬼は逃るかな」・という句を詠み、又「ぬかるみに尻もちつくなでかい蝶」という "句碑 "が植え込みに建っている。 13:07

  その先、国道を横切り、枡形の様な坂を下り、●古間宿に入って行く。 入口右手奥の線路の脇に●薬王院跡がある。慶長2年(1597)の創建だが、現在は廃寺になっている。 跡地に消防団の倉庫などと小堂も建ち、"仏像だけ " 安置されている。 ●古間宿の町並。鉄道の駅や国道から離れてしまい、人の姿も見えず、静かなもの。 "古間宿案内図 "

 古間宿
 正式に北国街道が開削されると、慶長16年(1611)に宿駅に選定され、鳥居川を挟んで隣接する柏原宿と合宿になり、月の後半だけ、人馬の輸送を行った。
 1818年(文化15)の家数は85軒、商人9人、鍛冶屋6軒、旅籠屋5軒などで、なかでも信州鎌(古間鎌)の製造が盛んだった。

 ★古間宿
 右手、●信州古間鎌問屋の「油屋」小林与市商店。 古間は鎌の製造がさかんで、古間鎌を取り扱うの店が何軒かあります。左手奥に●行善寺がある。本尊は阿弥陀如来で東本願寺系。行善坊なる僧が親鸞通過の折、弟子になったという。
 右に●古間宿本陣跡。「古屋」と呼ばれる旧家で、元々古間宿には本陣は置かれなかったが、上級の武士などが宿泊した。
 13:20

 ■古間~柏原
 ●「しなの鉄道」の踏切を渡ります。すぐ右側の家は問屋だったと云われている家。 枡形を左に曲がります。 ●鳥居川を寿橋で渡る。上の方に見えるのは現在の「新寿橋」。 左手に●馬頭観音碑がある坂を上って行くと「柏原宿」で、本当に古間宿と柏原宿は隣り合わせですね。 13:30

 柏原宿
 俳人小林一茶の生誕、終焉の地として有名で、宿場は古間宿と合宿で、月の前半を柏原、後半を古間宿で分担して、人馬の輸送を行いました。1819(文政2)年ころは、旅籠屋10軒・茶屋4軒・酒屋2軒などがあり、1827(文政10)年、大火のため一茶家を含む92軒が焼失している。

 ★柏原宿
 左手に●諏訪神社。ご神体はなんと鉄薙鎌という。境内に一茶句碑がある。柏原宿は一茶の故地なので、いたる所一茶の "句碑 "が建っています。
 江戸から50歳で帰郷した一茶は、親族と遺産相続で揉め、家屋敷の北半分を一茶、南半分を弟弥兵衛と分けることになった。52歳で、ようやく妻を迎え、4人の子供をもうけたが、次々に亡くなり、妻にも先立たれた。その上宿場の大火で類焼し、文政10年(1827)焼け残った土蔵で65歳の生涯を閉じた。 国道に面している●茅葺きの家は弟の家で、大火後に建築したもの。 奥に残る●土蔵は敷地が一茶のもので大火後、唯一焼け残り、生涯を閉じるまで暮らした土蔵です。"説明板 "

  ●国道18号が宿内を通っている。右へゆるく曲がり、150m程で右側に飯山入口があり、200m程で●戸隠山道が左に分岐し、角に"戸隠道標 " が立ちます。 右手に●本陣跡。黒姫山麓の開発に取り組んだ豪農で、一茶の顕彰に努めたという。問屋を兼ねたので引き続き、郵便局もしていそうです。 "柏原宿説明板 "

 ■柏原~黒姫高原入口
 左手の明専寺は 小林家の菩提寺。 左手の「小丸山公園」の中に●茅葺の俳諧寺があり、一茶の銅像が立つ。明治43年に、一茶を慕う地元の人々により建てられたお堂で、一茶の俳号にちなんでその名が付けられた。句会が開かれ、多くの句の書などが残されている。 その後方に●一茶の墓がある。 「一茶記念館」は時間がなくなりパスした。 街道に戻って、先に進むと左手に●「村の鍛冶屋」の石碑があった。 "説明板 " 「唱歌 村の鍛冶屋」の発祥地というわけではないようだが、碑の建つ家の祖父が大鍛冶屋だったという縁らしい。脇に一茶の句碑もある。 14:10

 ■黒姫高原入口~野尻一里塚
 柏原宿を出て、野尻湖へ向かいます。 ●「黒姫高原入口」交差点。 上越自動車道を越え、[信濃町IC入口」交差点を右折。しばらく進むと●野尻一里塚」が両側、明瞭に残ります。榎木、松とは違い桜が植えられています。14:45

 ■野尻一里塚~野尻上町
 「ナウマンゾウ発掘地」という名前の交差点を右に曲がりきらず、●真ん中の細い道が旧道なので、間違えず入って行く。
旧道に入ってすぐ先、右手に●芭蕉句碑があり、「うめが香に のつと日の出る 山路かな はせを翁」と刻む。"説明板 "
 句碑の奥の草地は●仏心寺という尼寺の跡で、「為牛馬安穏」碑、「二十三夜」碑、等が残っている。 14:58

  新道との合流点を振り返ると、"道標 "が立って、「従是飯山・川東道」と彫られている。左手の野尻湖の湖畔沿いに飯山城下へ向かう道と、浅野宿を経て千曲川東岸の川東に通じる道があり、中馬に利用されていた。 合流点左手は●伝九郎神社で、 野尻宿の問屋伝九郎が開いた用水が脇を流れ、境内に堰碑が立つ。 その先が●野尻宿で、その町並。中心が仲町で、北部が新町、南部を上町と呼ばれている。野尻湖があって、観光地と思っていたが、平日の為か、ひっそりとしている。15:05

 野尻宿
 野尻宿は北国街道の信州側の最北端に位置し、佐渡の金荷が3日目に泊まる宿で、安養寺境内に金蔵が設けられていた。貞享4年(1687)ころでは、戸数70軒で、両側に宿場の外郭をなす土手が築かれていた。弘化4年(1847)に大地震、嘉永元年(1848)、明治2年(1869)と大火があり、資料などは残っていない。野尻湖はナウマンゾウの化石が発見され、一躍有名になった

 ★野尻湖・本陣跡
 ここで、右折して●野尻湖へ行ってみました。ナウマンゾウ博物館などには寄っていない。1948年、野尻湖畔の旅館を営んでいた加藤松之助氏が、野尻湖底でナウマンゾウの臼歯を発見したのがきっかけとなり、1962年から発掘調査が続けられている。そんな観光地でもあるので、ある程度人出があると思っていたが、平日で、シーズンオフのせいか、全く人の姿がない。ヨットが数隻流しているだけでした。 早々に街道に戻って●本陣付近を通過。「明治天皇野尻御膳水」碑などを見逃す。本陣の少し先に「明治天皇野尻小休所跡」碑が立つ。 "野尻宿案内板 " 本陣の位置は入口1/3位の所で、この先、真光寺あたりまで続いているようです。15:15

 ■野尻湖~赤川
 宿を抜け、野尻トンネルの上を越して、●国道18号に合流した。 「関川の関所 3km」の表示あたりが野尻峠だろうか。 その先ゆるい下り坂になり、 ●「関川の関所 →」の案内に従い、右へ曲がります。曲がると "スノーシェード赤川 "という雪よけシェードの中を抜けて行きます。 しばらく進み、途中で●右に折れる所があるので、右に曲がります。ここの部分は旧国道で、七曲がりのようにジグザグに進んでいて、旧街道は消滅しているが、真っ直ぐ貫いてる形になっている所。この右折部分は復活した旧道でしょうか。 15:50 

 ■赤川~関川
 旧道部分を下って行くと●赤川一里塚跡がある。標柱が灌木に隠れ、うっかりすると見逃します。近くに一茶が52歳で迎えた妻きくの実家常田家があるとか。 その先左手高台に●赤川神社がある。 その先●関川に架かる「一ノ橋」へ出て、右手に木造の橋が架かっています。 関川は新潟県との県境で、ここから先新潟県に入ります。15:55

 ★関川関所跡
  ●木造の一ノ橋を渡って関所内へ入ります。現在の国道18号は左手を大きく迂回しているが、旧国道はこの関所の門を通っていたらしい。木造の橋は復元された橋です。橋を渡った右手に「犬くぐり道」という表示が見え、姫街道の「気賀関所」同様、関所の抜け道だったのでしょう。 文化14年(1817)6月、鶴岡の豪商三井家の女将「三井清野」という女性は善光寺詣での為、この関所を2人分250文の案内料を払って抜けている。おそらくこの犬くぐり道を通ったのだと思います。「重き関所」といっても、江戸末期ではこの程度という感じです。 左手奥に●関川関所が復元されている。隣に資料館もあるが時間がなく入らなかった。 関所を抜け右に曲がった所に●関川宿本陣跡(大石家)。加賀藩外9藩の本陣として使われた。"説明板 " 「明治天皇関川行在所跡」碑も立っています。 16:05 「きよのさんと歩く江戸六百里 金森敦子」

 関川・上原宿
 関川宿は越後と信濃の国境にあたり交通の要衝だった事から「重き関所」として、「箱根の関所」同様に重要視されました。戦国時代には上杉家が管理し、江戸時代に入り北国街道が本格的に整備されると高田藩により管理された。関所に隣接して、関川宿が設置され、宿役の増加に伴い、上原宿が設けられた。両宿は村が異なるだけの連続した宿で、半月交替で役務を勤めた。関川関所と接する宿場であったため、宿場の仕事のほかに関所の仕事も手伝いました。

 ■関川~妙高高原駅
 北国街道は関所を出ると、旧国道と重なって進みます。 右手に、上原宿本陣の●髙田藩本陣跡がある。建物は昭和に取り壊されたが、図面や写真がのこっているという。 宿を抜け、しばらく進むと「天神社」があり、大杉が聳えている。境内には●親鸞袈裟掛松というものもある。 親鸞が当地を通った際、この松に袈裟を架けて休んだという伝承がある。ただし現在の松は3代目。 さて今回の予定では、今日は二本松までのつもりだったが、到底無理で、急遽「妙高高原駅」で止めることになりました。 この先左手の「スキー神社」を見、その先を右折して●「妙高高原駅」へ向かいました。今日は予定していた「アパホテル 上越妙高」へ泊まります。 3日目は新井までかなと思っていたら、奥方も自分も消耗がはげしく、腰痛もありで、泊まっただけで朝帰りました。 近いうちにリベンジで髙田まで行くことにします。16:45終了

       善光寺-牟礼   07妙高高原-新井