壬生街道歩き旅1      喜沢追分から楡木まで    歩行地図
 喜沢追分-扶桑-飯塚-国分寺-壬生-上稲葉-七ツ石-北赤塚-追分-楡木町    21.2km   
 

1 喜沢追分-楡木  2 楡木-今市追分  

日光壬生道
  日光街道(道中)を小山の喜沢の追分で分岐し、壬生、楡木、鹿沼、文挾、などを経由して今市で再び日光街道と合流する道です。小山宿から今市宿まで12里27町(約50km)と、日光街道より1里10町(5km)ほど短くてすむことから日光に行く人には大いに利用されていました。慶安4年(1651)に亡くなった三代将軍徳川家光の遺骸を江戸から日光に改葬するときはこの壬生道を通ったこともあって、道中奉行の管轄下に置かれるようになった。公式の将軍の日光社参は、往路は日光街道を使用し、帰路はこの壬生道を通ったという。そして日光街道の西を通ることから日光西街道とも呼ばれた。 宿場は 飯塚、壬生、楡木、奈佐原、鹿沼、文挟、板橋の7宿あった。
       (小山、今市を除く)
 参考資料
「今昔三道中独案内ー日光.奥州.甲州ー」(今井金吾著 日本交通公社
「街道マップ日光例幣使道・日光壬生道」(五街道ウォーク事務局
    発行)の巻紙の形をした地図を購入しました。

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■喜沢追分~旧島田の渡し跡

2011年1月3日
 平成23年の歩き始めは壬生街道に決めた。小山駅の3km程先の喜沢の追分から今市の追分まで50km弱。これを2回で歩こうかと思う。 小山駅着8時30分。直ちに喜沢の追分へ向って歩き出し、JRの線路に平行に追分まで。9時10分に到着。正月の3日で車も少なく、人もいなくて静かなもの。 
 ●喜沢の追分は日光街道との分岐点で、右斜めの細い道が日光街道の本道に当る。壬生街道は左折をして行く。正面左手に●馬頭観音碑などがある。「明治27年」の建立 9:10

 喜沢の追分を過ぎると、●その先は左右に「小山ゴルフクラブ」が広がり、道はコースの中を貫いて通っている。ゴルフカートなどは地下道を通るようになっているようだ。
 少し行くとコース内に●日光街道西一里塚の案内板が立っている。次の飯塚宿が承応3年(1654)に伝馬宿になるからこの頃までに一里塚として整備されたようだなどと書かれている。道の反対側の東塚は一部崩れているが左手の西塚は当時のままという。 9:25

 ゴルフ場を抜けると、両側には梨やブルーベリーなどの果樹園が広がっている。
 右手に●東島田子育地蔵がある。その所を左折すると、栃木道の島田の渡し跡に当るので行って見た。行くと「思川河岸」へぶつかり、この辺が●「島田の渡し跡」に当る。
 ここから渡しで対岸へ出て、例幣使道の栃木へ出ることができた。案内などは特になかった。対岸をパノラマにしてみたが、遠くに雪の男体山を望むことができる。 9:40

■旧島田の渡し跡~飯塚
 元の街道に戻って先に進むと、左手に●4体の地蔵群がある。三拝川岸という地名を通る。ここから日光街道、間々田宿手前にあった乙女河岸へ米を積んだ舟が出ていたそうだ。
 左手に「大日山美術館」というものがある。古い農家を移築、改築した美術館なのだそうだ。
 扶桑歩道橋で左折し、その先の「姿川」に架かる●半田橋を渡る。その先で一旦旧道は消滅しており、県道を通る必要もないので、川と県道の間の細道を歩いてみた。650m程で県道に合流した。飯塚宿の入口に当る。  10:00

■飯塚~飯塚一里塚
 ● 飯塚宿
 小山宿と壬生宿間が長いため中間ほどに承応3年(1654)、伝馬宿に指定された。左手の思川畔は壬生藩の御用河岸として重要であった。現在はほとんどその面影はなく、わずかに門構えや屋根の立派な旧家が見られる
 本陣2 脇本陣1 旅籠11(天保14年)
 飯塚宿の入口、右手に「末法鎮守 七面大明神」、左手に妙典寺がある。その先、●摩利支天塚古墳の矢印があるので、入って行くと、5,6世紀築造の前方後円墳があり、摩利支天社という神社が後円部分の頂上にある。  10:30

●琵琶塚古墳は、摩利支天塚のすぐ北にある。県内最大の前方後円墳で、全長123m。周囲に幅20mの「周湟」と呼ばれる堀が巡らされているということだが、よくみえなかった。 元の街道に戻って先に進むと、左右に一里塚が見えてくる。●飯塚一里塚と呼ばれるもので、珍しく両側にきちんとした形の塚が残っている。   10:50

■飯塚一里塚~下野国分寺跡
 次は「紫式部墓」と称するものを目指すことにする。街道沿いに案内板などがないが、電子地図には記載があるので、「小山市境界に立つ、「小山市 またきてね」 看板のすぐ北を右折して、林沿いに400mほど入って行くと●「若紫亭」と書かれた東屋がある。天井に紫式部の歌などが掲示されていた。●紫式部墓は、30mほど近くにあった。。
 紫式部墓といってももちろん本物ではなく、案内板には「この付近は紫という地名であることから源氏物語の作者である紫式部の墓と言われるようになったと思われます。」と書いてある。ちなみにネットで調べると、本物ぽいのが京都の島津製作所の一角に「小野篁の墓」と一緒にあるという。  11:02

 このあたりから北方一帯は「天平の丘公園」という公園になっている。面積11ヘクタールにも及ぶ大きな公園で、敷地内に万葉植物園や埋蔵文化財センター、万葉歌碑などがあり、写真のは犬養孝、揮毫になる●万葉歌碑(麻都能気乃 奈美多流美礼婆 伊波妣等乃 和例乎美乎久流等 多ゞ理之母己呂 火長物部真嶋)という防人の歌の一首
 国分尼寺跡を見るため●「防人街道」を通って行く。この道は九州に送られた防人の万葉歌に風景が似ているので名付けられたとか。

 公園の北方に●国分尼寺跡がある。伽藍配置は昭和39年以来の発掘により大部分が確認されている。建物の配置は東大寺様式を基本にしているが、国分寺にある塔が国分尼寺にはない。
 この公園には石割桜やしだれ桜などがあり、4月上旬が見頃といわれるが、特に淡墨桜が国分尼寺跡を取り囲むようにして植えられている。日本三大桜の一つとして知られる岐阜県現本巣市の「根尾谷の淡墨桜」を全国で初めて“のれん分け”してもらったもので、「全国からサクラファンが訪れるまち」を目指すとか。 街道へ戻る途中●下野国分寺跡に寄った。遺構の整備工事中であり、正月なので誰もいなかった。敷地の規模が東西413m、南北457mと確認されている。尚下野国庁跡は国分寺跡の南西2km位の所にある。歩くと花見ヶ岡から大光寺橋回りで4kmくらいになり、ちょっと寄るのは難しい。  11:35

■下野国分寺跡~壬生町入口
 旧街道へ出てすぐ右手に●甲塚というのがある。案内板などないが、兜の形をした塚というので名付けられたという。こんもりした塚が4つほど盛上がっているだけ。
 左手に蓮華寺があるが、寄らなかった。親鸞上人が大蛇を済度したという伝説がある。
 花見ヶ岡から先、下野市、壬生町、栃木市などが錯綜している所で、地名がころころ変っている。●黒川に架かる御成橋をわたり壬生町へ入って行く。

 橋を渡ると昔は松並木が続いていたらしいが、現在は全く残っていない。左手に●壬生一里塚が見えてきた。西側だけ残り、枝だけで立っている木は榎なのだかよくわからない。   案内板では「将軍の日光社参の際は壬生の城主はここで出迎えるのを例としていた」と書かれている。日本橋から23番目にあたる。
 東武線を渡り、●枡形の様に左折すると壬生宿の通りへと続く。   12:40

■壬生町入口~壬生城址公園
 ●壬生宿
 壬生町は歴史的に古く、「下毛野国」の中心地であったり、平安時代には、後に天台座主となった慈覚大師(円仁)が誕生している。15世紀、壬生氏によって壬生城が築かれ、明治、最後の城主が鳥居氏でした。この間、壬生城の城下町、日光街道の宿場町として、また黒川を利用した河川交通の要衝として栄えました。町並は電線が地中化されて、すっきりした印象。入ってすぐ右手、●松本医院が昔の松本脇本陣で、風格ある門の中に昔の建物も残る。   

 左手の空地の奥に本陣だった●松本家の門が残っている。 足利銀行を右手へ入り町役場の前を通って行くと●雄琴(おこと)神社がある。創建は11世紀で、初め藤森神社と称していたが、壬生に城を築いた壬生彦五郎胤業が壬生氏の祖である小槻今雄公を合祀し、社殿を建て替え、社号を雄琴大明神と改めた。
 結構参道の長い大きな神社で、銅製の鳥居は、あまり例がなく、県指定文化財。拝殿、本殿随神門などそれぞれ技巧をこらし、江戸時代の貴重な遺構となっている。13:00

 壬生城跡へは、街道に戻り又足利銀行の所を左折して行く。壬生城は壬生城は室町時代のなかば文明年間(1469~)に壬生綱重によって築かれたといわれています。しかし、小田原城の北条氏に味方していたため秀吉の小田原攻めにより、北条氏とともに亡んだ。その後、結城、日根野、阿部などの各藩主を経て、鳥居元忠の子孫である鳥居氏が入り、明治まで続いている。
  城址公園として整備されており、●大手門は復元され、●堀や石垣も造られた。

■壬生城址公園~壬生寺
  図書館裏に●精忠神社がある。家康の家臣「鳥居元忠」を祀っている。 鳥居元忠はの関ケ原の戦に先立ち、伏見城を守っていたが、石田三成方の猛攻を受け、約1ヶ月の攻防戦の末、伏見城にて自刃した。この元忠の忠義を賞賛した家康は、自刃の際血を流した畳を江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせたといわれている。神社の後ろには血染めの畳を埋めた
●畳塚
もある。13:20

 神社を出て、街道に戻ろうとしたら、左手に●常楽寺があったので行ってみた。寛正3年(1462)に壬生胤業が創建した曹洞宗のお寺。壬生氏が絶えて後、1712年に壬生城主となった鳥居忠英公の帰依を受けて後は、鳥居家の菩提寺となっている。 左手に●藩主鳥居氏歴代の墓がある。
 寺を出て、街道へ戻るのが面倒になって、そのまま北へ進み、壬生寺の前へ出た。街道は真っ直ぐ北に向っており、愛宕神社の所を左へ曲っているので、700m程はしょってしまった。

 街道右手奥に●壬生寺がある。のちの天台座主慈覚大師円仁は延暦13年(794)ここで生まれた。●円仁産湯の井戸というものもあり、大師誕生のおり、この井戸の水を汲んで浴湯とした。 この水をいただくと、子供は安産で、乳のたらない人はすぐに増えると言われている。
 慈覚大師は、最澄の弟子であり、遣唐使の留学僧となり、帰朝後、地方文化の興隆につとめ、 土地の開拓、架橋、施寮、施楽、麻の栽培奨励などを行い社会事業の先覚者と言われる。また大師の創立した寺院は、全国で500余寺にのぼり、日光山輪王寺、 松島の瑞厳寺、平泉の中尊寺、毛越寺、恐山地蔵堂、山寺立石寺などである。    13:40

■壬生寺~上稲葉
 「本丸1」の交差点を渡り、時折杉並木がある●国道352号を次の目標は吉次墓なるものを目指して歩く。
  北関東自動車道を過ぎた、「上稲葉」交差点角にコンビニがあり、そのすぐ北側の畑の中に●金売り吉次墓がある。
 源義経が平泉へ逃げた際、吉次がここで病死したというが、昨年10月に奥州街道を歩いた時、白坂の先で強盗に襲われ殺害され、葬られたともいわれる、吉次の墓を見ており、どちらが本当なのだろうか興味が湧くところではある。

■上稲葉~判官台
 街道左手に●稲葉の一里塚がある。日本橋から24番目にあたり、塚の上には松が植えられていたという。右手の塚は民家の庭先にこんもりとした、それらしいのがあった。
 右手に●「鯉沼九八郎翁の碑」という大きな碑がある。
 ここ稲葉村出身の自由民権運動家。1882年板垣退助の自由党に参加し、自由民権運動を弾圧する栃木県令三島通庸を暗殺しようとして、誤って爆発により左手を失う。服役後は、県議会議員として「隻腕の加波山将軍」と呼ばれて活躍したという。 
 14:20

■判官台~楡木追分
  七ツ石、北赤塚町としばらく淡々路歩き、左手田んぼの中にこんもりとしたいかにも前方後円墳という塚が横たわっている。●判官塚といっている。案内板では義経の冠が埋められたので冠塚(かぶりづか)とか判官の名前をとって判官塚古墳というなどいくつかの伝説を秘めています」と書かれている。  反対側の丘の上の森に磐裂根裂(いわぎれねぎれ)神社がある。その先から車道の両側が高くなり、杉並木が現れてくる。これを●判官台というのだろうか。日光街道、宇都宮から先でもこのような形が現れていた。
 15:30

 東北自動車道のガードをくぐると、●冬枯た雰囲気の良い杉並木が現れ、例幣使街道の合流点が近い。
 やがて壬生道と南西からの例幣使道とが一緒になる●追分交差点に到着した。 例幣使道は、倉賀野で中山道から分かれてここまで来る。ここから今市まで日光例幣使道と地図などには書いてあるが、道中奉行管轄下の例幣使道はここで終わる。ここからは、壬生道として今市まで続いている。

■楡木追分~楡木駅
 追分交差点のガードレール裏に●追分道標が立つ。「右中仙道・左江戸道」とあるらしいが、全体が古く、摩耗が激しくて文字は読めなかった。道路拡張に伴い50m北から移った。
 合流点から楡木宿である。
 本日はこれで終ろうと思い、この先●楡木駅から区間快速で越谷へ戻りました。駅は無人で、1時間に1本程度の電車しかない。 16:20

 2 楡木-今市追分