壬生街道歩き旅2   楡木から今市追分まで   歩行地図
 楡木-奈佐原-鹿沼-大門-鳥居跡-御成橋-文挟-板橋-下今市追分      26.1km    
 

1 喜沢追分-楡木  2 楡木-今市追分  

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2011年1月9日
 
■楡木駅~奈佐原町北
 ●楡木宿
 東武線快速で楡木駅着8時10分過ぎ。500m程歩いて「楡木町」交差点にやって来た。町並としては現在では宿の面影は全くなく、普通の町並である。
 本陣・脇本陣 3。旅籠 15。
 楡木の名は、宿の北西の方に住む百姓秀蔵の家の後ろに楡の大木があったことによるそうだが、今はどこにあったか分からない。右手に成就院があり、県指定天然記念物の●枝垂赤西手(しだれあかしで)というのがある。安永5年(1776)楡木の東にある長沼で発見され、ここに納められたものという。   8:25

 ●奈佐原宿
 楡木から700mで奈佐原宿といわれるが、町並が続いていてどこからだか全くわからなかった。バス停の名前で判断するのみ。壬生宿・鹿沼宿の間の宿であった。
 左側にある緑の屋根の家が●問屋跡の萩原家らしい。古い蔵がある。
 その先右手のガソリンスタンド●奈佐原文楽の収蔵庫がある。栃木県に唯一現存する3人遣い人形が収めてある。

■奈佐原町北~大門宿
 収蔵庫からちょっと先、左手奥に入って行くと奈佐原神社がある。奈佐原の産土神で、御祭神は大己貴命。創建は不明ということだったが、左側の●境内社の鳥居が文政8年(1825)のもので、結構古びていて目に付いた。
 街道に戻り樅山駅前信号を過ぎて行くと、「生子神社」は左の看板が立っている。ここは安産・育児の神で、「泣き子相撲」で有名。ちょっと遠く、行くのはパスということで。 右手に●光明寺がある。「山門」の彫刻が見事なもの。残念ながら、境内には入口にカギが掛っていて入れなかった。  9:35

■大門宿~鳥居跡町
 光明寺を出て行くと、「押原神社」参道が右斜め奥に真っ直ぐ続いている。実際に行ったのはしばらく真っ直ぐ進んで、直角に右折してから。 ●押原神社は神楽殿を備えた、境内の広い大同4年(809)創建という歴史ある神社。平将門の乱の際に、平定盛、藤原秀郷が戦勝を祈願したという。
 ●「新鹿沼駅前」交差点で街道は二手に分かれる。右が田町通り、左は内町通りと呼ばれる。継立業務は、1日から20日までを内町通りが、残りを田町通りが担当した。両方歩くのは無理だし、内町通の方が見所が多いので、左側の内町通を歩くことにした。   10:20

■鳥居跡町~石橋町
 ●鹿沼宿
 通りに入ってすぐの所に鹿沼宿の大木戸があったが、今はない。鹿沼の地域は戦国時代には、壬生氏により支配されていたが、秀吉の関東侵攻の際、小田原城落城とともに壬生氏は滅亡し、鹿沼城は廃城となった。 江戸時代に入ると、日光に東照宮が造営されたことにより、壬生街道・例幣使街道の宿駅として、商品流通の中心地として賑わいました。 分岐点は●鳥居跡(とりいど)と呼ばれ、小さな祠と鳥居と、「旧一ノ鳥居跡」の石標がある。奈良時代、勝道上人が日光開山後この場所に4本の榎を植えたと伝えられ、鎌倉時代になって源頼朝はここに日光山の遠鳥居を建てた。右手にいかにも旧家の雰囲気のある●中野屋酒店が建つ。

 左手に●雲龍寺がある。鹿沼宿本陣を勤めた鈴木家の菩提寺で、鈴木石橋の墓がある。鈴木石橋は天明の大飢饉では窮民の救済や、飢饉に備えて備蓄米を制度化、間引きの撲滅、私塾麗沢之舎の建設するなど功績があった。 石橋交差点手前右手の鈴木内科がその●本陣跡である。通りに面して「鈴木石橋先生旧居」の碑が立つ。医院は現代的建物になっているが、その奥には土蔵などがあった。
  10:40

■石橋町~今宮神社
 鈴木医院の反対側に●薬王寺がある。弘長(1261~)年間に、伝教大師の作による「薬師如来」をご本尊として 創建された。元和3年、徳川家康の遺骸を日光山に移埋する際、 当山に4日間滞在し、また、天海僧正、家光の葬送の際にも止宿となり、徳川家より十石を賜り、 門末の塔頭寺院も26ヶ寺を有したという。
 入口左手に●「三大将軍家光公鎧塔」がある。傍らの案内板が逆光がきつく、見にくくて良く読めず、これがどういうものかよくわからなかった。

 石橋町交差点の先、左側の「仲町屋台公園」の中にある漆喰壁の建物は●「屋台展示収蔵庫」という。
 中に白木彫刻の見事な●「仲町屋台」が展示されている。ガラス越しで撮影したのでちょっと見にくい。
 これらの屋台は「今宮神社」の大祭に使われる。元は移動用の簡単な踊り用舞台だったが、段々華美になり、「彩色彫刻黒漆塗屋台」にまで発展し、ついに幕府から華美禁止令が出されてしまった。ならば白木ならよかろうと、白木で派手な彫刻がされた屋台を造ってしまったという。

■今宮神社~御成橋
 仲町公園の先に、今宮神社がある。延歴元年(782)の創建と云われる。日光二荒山神社の分社的性格をもち、日光山鹿沼今宮権現と称した。いかにも日光の分社らしく、朱色で塗られた派手な社殿となっている。徳川幕府から五十石という大きな朱印地を拝領している。 ●唐門は嘉永2年(1849)の建立で総檜造り、県指定文化財。彫刻が満載の●社殿も県の文化財。 10:55

 神社の隣が鹿沼市役所で、市役所の前の坂を上がって行くと●御殿山公園があり、「鹿沼城址」である。昔の面影は全く無く、野球のグラウンドとなってしまっている。奥に忠霊塔と大きな宝筐印塔があるだけ。鹿沼城は天文元年(1532)、壬生下総守綱房が築いた。 もう少し、鹿沼には見所があるようだけど、次の文挟宿をめざすことにする。
 街道に戻り、●御成橋で黒川をわたる。  11:40

■御成橋~寄進碑
、両側に●杉並木が続いている道を進んで行く。●「日本ロマンチック街道」の標識があった。はて? ここはロマンチック街道なのかな?と疑問に思い、帰ってから調べた。日本ロマンチック街道は小諸市から日光市までであったが、現在ではこれに加えてガッセ(小径)として、日光市~宇都宮市間を加えたというので、このルートが含まれていることがわかった。右手に●古賀志山が独特の風景を見せている。

■寄進碑~文挟駅
 しばらく行くと、日光市境の右手に●杉並木寄進碑がある。日光本道にもあった。松平正綱・信綱父子が杉並木を寄進した。地元では界石ともいう。ここから先からは日光神領となっている。案内板では例幣使街道・小倉にあると書いてあるが例幣使街道は正式には楡木で終り、ここは壬生街道であると思う。 ここから先、うっそうとした●杉並木が続いている。車道の両側が切立っていて、車道は歩けない。左側に歩道が山道のように付いているのでここを行く。  12:45

 歩道を20分ほど歩くと両側に●「小倉一里塚」がある。左側は歩道の為か、崩されてしまっている。
 一里塚から7~8分歩くと●JR文挟駅(こちらはの字を使用、宿名は  を使用)前に出る。きれいな駅舎だけど、無人駅。 13:15

■文挟駅~板橋一里塚
●文挾宿
 東照宮が造営され、壬生通りが整備された後に宿場として整備された。本陣1 旅籠 14。 今はひっそりとした町並で特に何も残っていない。 駅の先「文挾」という信号の所に●道標がある。宝暦12年(1762)の建立。「右鹿沼・出流・岩舩 左大谷・田下・宇都宮道」とあり、日光から見た方向を示している。
 左手に延命地蔵尊がある。赤い着物を着ている

 右手に●JA落合支店がある。昔の旅籠屋「南入口 きくや音八跡」。ここが文挾宿の南の入口だった。昔は脇本陣を兼ねていたらしい。 その50mほど先右手●田辺商店は昔の問屋跡で、今でも看板に「問屋」と書かれている。
 左手に本陣跡があるらしいが、昔の雰囲気が残っていなくて
全くわからずに通過。  13:30

左に枡形の様に曲がる角の右手に●二荒山神社がある。昭和24年に発生した今市地震の復興記念碑がある
 この時の地震は被害が大きく、街道の杉並木がずれてしまった所がある。 その先も又、●見事な杉並木が続く。遊歩道が整備されており、又板が敷いてある場所もあって、快適に歩くことができた。遊歩道と言っても砂利道で結構疲れるので、板が敷いてあると助かる。  

■板橋一里塚~板橋
 左手に大きな●石碑があった。書かれている文字ははっきりしないが、「聖徳太子」と書かれているのではないだろうか。 その横に「岩見重蔵之碑」がある。剣豪、岩見重太郎の兄でで父の仇討で返討ちにあったとかの話が「OHT日光」というHPに出ていたが、本当だろうか。(www.roadout.com/furusato/rusato/ documents/2006/oht_guidebook.pdf)
 稲庭うどんの幟りのある所から先の所は歩道が全くない。やむなく車道を歩いて行くが、前から来る車が、こちらを見て、びっくりするらしく、急に道路中央へ寄っている。歩いている人間なぞ見ないのだろうね。 やがて右手に●板橋一里塚が見えてきた。 
 14:15

●板橋宿
 板橋宿も文挾宿同様ひっそりとした町並で、古い家が残っていない。本陣1 脇本陣2 旅籠25 
 板橋宿へやって来たが、説明板の類が全くなく、古い家もなくて、どこがなにやらわからなかった。本陣を勤めた「大貫姓」の酒屋さんなどはあったから、子孫なのだろう
 唯一板橋交差点角手前右手●「ウッドエクステリア」は脇本陣だった永楽屋跡だという。永楽屋という看板が掛っている。

 「板橋」交差点の右手に●「栖克神社」(すみよし)という珍しい名前の神社がある。 隣には●福生寺。参道入口右手に日光東照宮造営副奉行を務めた●本多正盛の墓がある。入口とは珍しい場所にあるものだ。案内板によると、同僚の山城宮内と争論になり、同僚は自害、本人も自刃したという。自害するほどの争論とはいかなるもだったのだろうか。   14:30

■板橋~室瀬一里塚跡
 板橋交差点から先、壬生道は、左に曲がり右に曲がる枡形となっている。先にはまたもや●杉並木が広がっている。ここは特別保護区で杉の茂みが深い。しかし歩道がなく、両側が切立って右脇を歩くが、車が近寄ってきたら逃場がない。枯枝が降ってきて、歩きづらくいいかげん疲れた。
 右手に●地震坂がある。昭和24年12月の今市市を中心に大地震が起り、地すべりで杉並木が移動してしまった。  本来の街道はここより上を通っていたという。 15:10

 その先で道は●二股に分かれる。車は一方通行になっている。左が旧道ということで、左にまがる。
 左手に蕎麦屋があった。日光宇都宮道路をくぐるあたりが「十石坂」といい、大石鳥居を奉納する黒田長政一行がこの急坂で難儀し、人夫たちに食べさせた米が十石にもなったという坂である。現在ではそんな急坂とはいえない。
 ●室瀬一里塚がある。杉の根本くらいの大きさしかないので標識がないとわからない。壬生道最後の一里塚。

■室瀬一里塚跡~今市追分
 一里塚から15分位歩いて、左側を見ると、●男体山が雪をいただいて、くっきりしていたので1枚撮った。
 杉並木の中を歩くのは結構つらく、枯枝が足にからみつくし、うんざりして下を向いていたら、「磐裂神社」に寄らず、通過していた。田川を渡り、JRの踏切を渡ると、やがて日光街道との合流点である●「小倉町交差点」見えてきた。もうすぐゴールだ。
 16:00

 合流点に●追分地蔵堂がある。地蔵は日光街道歩いた時は、赤いよだれかけをしていいた記憶があるけど、今回は特に何も着ておられない。 ●日光街道の写真を撮った。日光本道は左の杉並木の間から合流して来る。 
 これで壬生街道歩き旅も終了した。風が強く、杉並木の間を歩くのは結構難儀でした。下今市駅まで急ぎ、16時12分発の快速電車に間に合った。  

 1 喜沢追分-楡木