美濃街道を歩く 2
       (国府宮~墨俣)
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 国府宮-稲葉-西御堂-串作-萩原-富田-起-小松-足近-境川-墨俣宿     20.9km
 


 2020年2月5日  ※ 写真をクリックすると拡大します
■小沢3西交差点~稲葉宿
 一宮駅前のホテルから国府宮駅で下車。はだか祭りの当日らしいけど、朝の内は何にもありません。前日終了した●小沢3西交差点に来ました。ここから稲葉宿が始まるらしい。すぐ先を左折しますが、突き当たりが元尾張農林水産事務所があった所で、稲葉宿本陣跡にあたります。しばらく空き地だったらしいですが、●歴史公園整備工事中ということで、本陣が再建されているような感じです。3月13日までということで、あと1ケ月待てば見れましたね。本陣の石碑も戻されるでしょう。
 ●稲葉宿の町並。 両側の宿場らしい旧家が多く残って風情がいいです。右手に中部電力稲沢営業所であった建物が見え、この付近に脇本陣があったと言われます。左手に●商家らしい立派な屋敷が一軒
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 稲葉宿は稲葉・小沢両村合同で宿駅業務を行った。町並みは8町21間(910m)あり 本陣1、脇本陣1、 問屋場3、旅籠屋8、家数336軒、人口1572人の宿場。 小沢、東町、西町に問屋が置かれていた。 8:15

 ■稲葉宿~西町
 左手に、古い商屋建築の建物は●藤市酒造。「瑞豊」という古い看板が架っています。明治の創業なので、明治時代の建築でしょう。  少し先、右手の同じような●古い建物の前●稲葉宿問屋場址碑があります。 少し先シルバー人材センター前に稲葉宿の看板が立っています。稲葉宿が開設の時期、人口、本陣、脇本陣、問屋の数などが書かれていました。
 その斜め左、●津島道標が小さく立っています。「右 つしま道」と彫られ、津島神社はここより南西直線で約10kmの地点にあり、佐屋街道沿いにあります。 道は●西町へ入り、両側に古い町屋が残ります。 8:30

 ■西町~西御堂
 ●稲葉口バス停の先の信号を右折します。 次の二股を左折すると、●県道14号に突き当たり、ここから先は斜め左の稲沢市上下水道庁舎まで道が消滅しているので、右折して庁舎まで迂回します。 庁舎の北から道が復活しているので、真っ直ぐ北上して●県道136号へ左折します。すぐ右手に●中嶋宮の碑と大きな常夜燈が立って、参道が奥に続きます。相当距離がありそうなので、寄らずに済ませました。 
  9:00

■西御堂~串作
 その先は特に旧蹟はなく、地名が「西御堂」で、御堂とは何を指すのかよくわかりません。光堂川を渡ると住宅街に入ってきて、右手に●●文化元年(1804)の「南無妙法蓮華経」碑があります。 その先に高木一里塚があるはずと思って、注意しながら進んだけれど、わからず通りすぎてしまいました。 信号を過ぎた左手に●髙木神社があります。 結構大きな神社で、吹き抜け妻入りの拝殿はあまり見たことが無く、その前にコンクリ製の 蕃塀があったりで様式は立派。 ・その先、県道136号の次の角を左折すると、左手の民家の壁に「串作庄屋・問屋場 佐藤家跡」という看板が架かって、・・・1864年8月第14代将軍徳川家茂が長州征伐で上洛の折、昼休憩をとった。憐松軒枝風憤の碑はその名残・・・とある。その●憐松軒枝風憤の碑らしきものが家の前にあるが、憐松軒枝風憤の碑とは何ぞや・・と古くてよくわかりません。   9:26

 ■串作~萩原町
 道県道513号にぶつかり左折。国道155号の「串作」信号を歩道橋でなく駆け抜け、その先は名鉄尾西線の踏切。 右手前に●小さいながらも半鐘が下がっている立派な祠があります。 踏切手前の左手に●郷土資料館が建っていて、その前に●舟木一夫の「ふるさと-ロックンロール」という石碑がありました。舟木一夫はこの地「萩原町」の生まれらしいので、石碑まで作られたようです。
 線路を渡って●「萩原商店街」のアーチをくぐり、萩原宿へ入ります。
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 萩原宿は規模としては美濃路で最小の宿であったといい、本陣1、脇本陣1、 問屋場2、旅籠17、家屋236軒、人口1002人の規模(天保14年)。 本陣は森権左衛門家、脇本陣は庄屋を兼ねた森半兵衛家、問屋場は 鵜飼家・木全家が交代で勤めた。    9:44

 ■萩原宿
  ●●萩原宿の町並。道幅は狭い物の、両側に町屋建築、商屋風な旧家などが点在して、風情ある町並になっています。左手に正瑞寺がある角を右手に曲がります。ここが「鈎の手」といわれる場所でしょう。●正瑞寺は蓮如上人巡行の際に天台宗から浄土真宗に改宗した 寺院といわれ、このあたりに高札場があったといわれます。●曲がって北上する町並。脇本陣、上町問屋場、本陣が軒を連ねて いた通りです。
  9:53

 ■萩原宿~日光川
 少し先、左手に,●馬頭観世音菩薩と地蔵菩薩を祀る社が並んでいる。宝暦13年(1763)萩原の馬持ち12名が発起人になって建立したそうだ。 右手に●美濃路萩原宿問屋場跡」の碑がある。萩原宿には上町と下町の二つの問屋があり、交代でつとめた。ここは上の問屋場跡の陽です。 その先、右手に●美濃路萩原宿本陣跡」の碑がある。本陣は森権左衛門家が勤めていました。 その先を左折して、●日光川を萩原橋で渡ります。奥の高架は名神高速。    10:02

 ■日光川~首池
 日光川を渡り、右手に曲がる角にある家は庭をフェンスで囲まれ、●「市川房江生家跡」案内板が架かっていました。大正、昭和の婦人運動家で知られる市川房江は明治26年、「中島郡明地村吉藤」のこの地で生まれたそうだ。
 右手に曲がった先、●孝子佐吾平の碑がある。天保年間(1830-43)明石藩松平斉宣の参勤交代の折、暴れ馬を取り押さえようと行列を 横切った佐吾平は無礼討打ちにされてしまった。尾張藩は領内で起こったこの事件を重く見て抗議。以後、明石藩が尾張藩領内を通行するときは葬式の装いをして 通行したといわれている。案内板  似たような話を思い出して・・斉宣が参勤交代で尾張藩領の木曽の中を通過中、3歳の幼児が行列を横切って、この幼児を無礼打ちにしたという話。・・・・映画「十三人の刺客」も見たのだけど、史実と伝説が入り交じって・・・よくわからん。というところかな。
 名神高速を過ぎて、道なりに左へカーブする角に、●天神の渡し跡という石碑が立ってます。かっての木曽川の主流であった現在の日光川の渡船場の跡で、「萩原渡し」とも呼ばれたという。案内板 県道147号を過ぎ、首池というちょっと●複雑な五叉路の様な交差点は左斜め、尾西病院の看板の方へ入ります。  10:37

 ■首池~富田一里塚
 郵便局の先に●両塚が残る富田の一里塚が見えます。冨田一里塚は13か所あった美濃路の一里塚のうち両側が残る唯一の一里塚で、国の史跡に指定されている。 案内板 明治政府の通達で一里塚の廃棄と民間への払い下げが行われたが、この一里塚は廃棄されず残ったということが書かれていて、当時の町の努力に敬意を表したい。 左塚(西塚)に榎木が残り、●右塚(東塚)には塚だけ残ります。また左塚の裏手に●富田の道標が二基立っており、いずれもこの先にあって、いくつかの経過を経て移設されてきたもので、「おこし道 つしま道」への道標になります。 すぐ先左手に●左駒塚道」と刻む大きな道標があります。先ほどの左側の道標が元々ここにあって、慶応3年に建替わったもののようです。駒塚道は尾張藩家老石河佐渡守が、領地の駒塚 (岐阜県羽島郡)から駒塚の渡しで木曽川を渡り、名古屋城へ 出仕するためつくった街道といわれ、左斜めに進んで木曽川を渡った対岸に羽島市竹鼻町駒塚という地名があります。 10:45

  ■富田一里塚~富田北
 この先左手奥に「聖徳寺跡」という重要な史跡があるのだけど、行くにはこのまま進んで、「富田北バス停」先を逆V字の頂点として戻ってこないといけないが、戻るのもおっくうなので、●聖徳寺跡への迂回路を進むことにしました。
 左へ曲がって550m程進み、バス通りを右に曲がると●●「聖徳寺旧跡」碑(石碑と常夜燈)があります。案内板  天文年間、斎藤道三が初めて織田信長と会見した場所といわれている。道三は娘の(濃姫)を信長に嫁がせており、力量を確かめるためここで会見をした。その際信長は、前日までのうつけ者の姿ではなく、正装して会見に臨み、道三も信長の力量を知ったという、有名な場面の舞台になった場所です。そのまま北上して●富田北先の横断歩道の所で美濃路と合流し、過ぎると起(おこし)宿です。    11:10

 ★起 宿(おこし)
 ●起宿の町並。 旧宿場らしい狭い街道に古い町屋建築が点在し、風情がある町並になっていますね。左手に●脇本陣を勤めた林家が残り、現在は一宮市尾西歴史民俗資料館として使用されている。案内板 明治24年の濃尾地震で倒壊したが、その後建て直されて、江戸時代の伝統的な町屋建築の様式をよく伝えている。 そのすぐ先、右手に●起宿本陣・問屋場跡があります。本陣は加藤家が代々「右衛門七」を名乗り、幕末まで世襲した。建坪206坪の規模。紀州徳川家、広島浅野家、徳島蜂須賀家、熊本細川家などの大藩が宿泊したほか、朝鮮通信使の昼食場所と云われます。右手に●明治時代と思われる風格ある旧家が1軒。
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 起宿は木曽川渡船を控え、起、富田、東五城、西五城、小信中島の村々を加宿とし、 この起五か村で伝馬役・人足役などの宿役を負担した。将軍・朝鮮通信使・琉球使節・茶壷・象などのほか、多くの大名の通行でにぎわったという。
 本陣・脇本陣各1、 問屋2、旅籠22軒。 家数は230軒、人口1033人(天保12)  11:17

 左手に●船橋跡碑というのがある。案内板 木曽川・境川・長良川・揖斐川の渡船場に朝鮮通信使、将軍といった特別な通行のためにのみ船橋が架けられた。木曽川の起の船橋河戸(ごうど)に架けられた船橋は、全長850m前後、船数は、270艘を超える日本最大の船橋だったという。●木曽川船橋跡付近に行って見ました。川幅は十分広く流れも速く、ここへ850mもの船橋を架ける作業は非常な困難を伴っただろうと思います。 ●宿内を進みます。特に左手、木曽川側には町屋づくりの家が並び壮観な感じです。 右手大明神社の前に●宮河戸跡碑がある。木曽川の渡し口は、北から定渡船場(上の渡し)、大明神社前の宮河戸(中)、船橋(下)の三か所あり、ここは真ん中の渡し口で、大藩の渡船など定渡船場だけでは渡船が困難な時に使用されたという。 上の渡しへ向かいます。
  濃尾大橋が架かる県道の下をくぐり、定渡船場へ左折する角の右手に、大きな情緒ある建物があります。●旧湊屋といって、定渡船場で渡し船の管理、運行を任されていた船庄屋だった「湊屋文右衛門邸跡」。この建物は濃尾地震に耐えた数少ない建物といいます。現在はなんとカフェですと。http://minojiminatoya.com/。本日は休業日でした。     11:32

 ■起の渡し跡~定渡船場跡
 川へ向かうと●金刀比羅社の前に「起渡船場跡」の碑と案内板があります。案内板 によると、起宿に三か所あった渡船場の一番上で、常時多くの人に利用されていた定渡船場だった。 ●定渡船場跡から対岸を見てみる。少し上流のこんもりした森の中に岐阜側の渡船場跡があるはずです。 濃尾大橋で渡るが、なにしろ強烈な向かい風で体をなんどか後ろに持って行かれるぐらいでで、大変な思いでした。やっとの思いで岐阜側に渡り、土手を少し上流へ行くと、●起渡船場跡常夜灯と石碑が立っています。明和7年(1770)に建てられたこの石灯台には、文学者の龍公美の漢詩が 刻まれ、夜渡船で難儀をした竹鼻出身の力士が、油代として田二反を併せて寄進したそうだ。
 堤防を先に進み、倉庫が見える3つめの坂を下って行くと、左手高台に●金刀比羅神社がある。ここが岐阜側の起定渡船場跡になります。 案内板 美濃側の船着き場から上がって、広い川原を通り、大浦輪中の懸け回し堤防を越えた場所が大浦の金刀比羅神社である。・・・と書かれている。   12:00

 ■定渡船場跡~小松西
 神社の前を進んだ突き当たりの左手の、民家の門の前に●道標が一つ。「大浦(三ツ屋)の道標と云い、「右 いせみち」「左 おこし舟渡 寛延三庚午年(1750)医師講中」と刻まれ、旧堤防上にあった民家の門前に残されている。昔江戸御殿医が旅の途中、起宿で倒れて亡くなり、その医師が世話になったお礼として残していった路銀で、この辺りの医師達が相談して建てたものだと伝えられている。ここを右折して行くが、昔は木曽川の堤防で旅人は堤防を上り右折して行ったといい、現在は堤防は無くなって、平らな道になっています。
 10分も行くと、二股に出て、この分岐点に●地蔵堂と道標があります。●道標には読みにくいが「右 起道 左 笠松 墨俣道」「嘉永元年(1848)」と彫られているようです。  昔の美濃路はこのあたりから木曽川の旧堤防を離れ、不破一色集落へ入って行くと云われます。
  その先、右手●正木小学校のフェンス際●「史跡 一里塚跡」の碑と案内板がある。東西に縦横9m、高さ3mの塚があったが、碑が残るのみ。 街道はいくつかカーブを描きながら進み、やがて正木町須賀の集落に達します。
 「カネスエ」というスーパーの前に「金比羅大権現」と刻まれた大きな石灯籠があり、●及が橋灯籠」(文政9年(1779)といいます。 この先の足近川は昭和初期まで、出水すると氾濫を繰り返すほどの水量があって、出水時の交通は渡船により維持されていた。この石灯籠は出水時の渡河の安全を願い、今はなき輪中堤防上の松並木の間に地元の人によって建てられていたものがここに移設されている・・・とあります。
 12:45

 ■小松西~足近町2
 名鉄踏切を越え、「足近町南宿」に入ると、起宿と墨俣宿との「間の宿」になります。 足近駐在所の先、三叉路の右手に●「美濃路の史跡」という案内板と大きな道標がある。 案内板 この地は元町と呼ばれ、起宿と墨俣宿とのほぼ中間地点にあったため間の宿と呼ばれる小休所が繁盛していたことが書かれている。 休息所となった加藤家は16の部屋があり、大名の休息札も残されているというが、案内地図に表示されていなかったので見逃してしまった。 調べたら手前の大きな門を備えた屋敷がそうだというので写真だけお借りしました(http://network2010.org/article/215)。●道標は北方にある西方寺を案内する道標です。
 また、この先の美濃路は土地改良事業により約800mの区間消えていることが書かれている。 ●県道1号に出ると、ここから阿遅加神社(あじかじんじゃ)の参道入口付近まで旧道は消えているので、迂回するため「足近町2」信号を左折して県道165号に入ります。 途中右手から●阿遅加神社への参道が延び、鳥居が見えます。 13:15

 ■足近町2~境川土手
 旧道は阿遅加神社の先を右折すると復活して、●境川の堤防にぶつかります。堤防の右手に●大きな「親鸞聖人御旧跡」、「従是東五丁」と刻まれた西光寺への道標と、小さな地蔵尊が二体あります。
 ここからしばらくはこの●境川堤防上を行きますが、堤防の上は中世の鎌倉街道であり、鎌倉街道と重複する区間となっていると云われます。 15分も歩くと左手に●東小熊の一里塚跡で、石碑が立ってます。  13:40

 ■境川土手~墨俣入口
 そのまま堤防道路をさらに西に進み、県道153号を越え、右手に太神宮と刻む石灯籠と秋葉神社が祀られている。さらに西にしばらく進むと、●堤防から右へ下り、境川橋に達します。境川は昔「小熊川」と呼び、「小熊の渡し」が置かれていました。痕跡は見当たりません。 大江橋を渡り、現在は●長良川橋を渡ります。昔は「墨俣の渡し」が置かれていました。すでに右手に●墨俣一夜城が見えています。大橋西信号で右折して土手へ下りて、少し北上して、手前の橋を渡ると●墨俣宿入口になります。14:15

  ★墨俣宿
 墨俣は長良川をはさんだ合戦場として歴史に残る場面は二つあって、一つ目は源平合戦。平重衡を総大将とする七千余騎の平氏と源行家、源義円らの源氏三千余騎が東岸に陣を整え、・・・ 結果は平家の勝利で義円が戦死。行家は矢矧川まで退いた。
 二つ目は戦国時代、永禄9年(1566)織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎がいわゆる墨俣一夜城を築いて戦ったという合戦で、こちらの方が現在では有名かなと思います。
 橋を渡った先が墨俣宿の入口ではあるが、右に曲がって先に●現在の墨俣城へ寄ってみました。現在、一夜城跡地は公園内として整備され、墨俣一夜城歴史資料館が建てられているが、大垣城の天守を模したもので、もちろん歴史上の一夜城とは全く違います。(出典 wikipedia)
 資料館では、藤吉郎は3日間で、高さ1間(約1.8m) 、地中三尺(約90cm)の馬防柵を城の周辺に二重に延千八百間(約3260m)をめぐらしたと伝えています。いわゆる砦程度のもの。  資料館の模型(ガラス越しで見にくい)
 墨俣宿としては美濃路の宿として設定される以前より、古くから宿場町として栄えて、室町時代迄は南側の上宿付近にあり、美濃路の設定時に現在地に移設されたという。
 新犀川に架かる橋を渡ると●墨俣宿入口にあたります。すぐ左手が本陣跡で渡船場常夜燈も再建されている。本陣の建物はすでになく、沢井家が勤め。初代を沢井九市郎正賢、2代目以降は代々沢井彦四郎を名乗り明治に至るまで13代続いたといいます。 ●宿内に入ると左手(南側)が寺町で、お寺が沢山並び、左手に●脇本陣の建物が残ってます。脇本陣は一時加野家が勤めた以外は安藤家が勤めた。濃尾震災の際に倒壊し、直後に再建されたもので往時の様子を良く残しています。
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 墨俣宿。揖斐川と長良川に挟まれており、重要な宿場であった。宿の長さ7町7間。戸数338、人口1,317人、旅籠10、 本陣、脇本陣、 問屋場各1。  14:45

 ■墨俣~犀川土手
 脇本陣の先、右手に●津島神社と秋葉神社の扁額が架かる鳥居があり、横に「文化財 琉球使節通行記念燈籠」と彫られた石碑が立ってます。寛政3年(1791)琉球国使節一行通行の際、奉納する石燈籠に刻銘文を願い、執筆してもらったという。●「琉球國儀衞正毛廷柱書」と刻まれている常夜燈がありました。
 街道はその先、「エディオン」の角を右折し、北上する。左手に●八幡神社があり、その先●犀川の土手に突き当たります。「美濃路」と彫られた石碑が立ってました。 その先犀川の自然堤防の上を行きますが、頁が長くなってきたので、この続きは次頁へ回します。
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      1 宮~国府宮  3 墨俣~中山道追分