★墨俣宿
墨俣は長良川をはさんだ合戦場として歴史に残る場面は二つあって、一つ目は源平合戦。平重衡を総大将とする七千余騎の平氏と源行家、源義円らの源氏三千余騎が東岸に陣を整え、・・・
結果は平家の勝利で義円が戦死。行家は矢矧川まで退いた。
二つ目は戦国時代、永禄9年(1566)織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎がいわゆる墨俣一夜城を築いて戦ったという合戦で、こちらの方が現在では有名かなと思います。
橋を渡った先が墨俣宿の入口ではあるが、右に曲がって先に●現在の墨俣城へ寄ってみました。現在、一夜城跡地は公園内として整備され、墨俣一夜城歴史資料館が建てられているが、大垣城の天守を模したもので、もちろん歴史上の一夜城とは全く違います。(出典 wikipedia)
資料館では、藤吉郎は3日間で、高さ1間(約1.8m) 、地中三尺(約90cm)の馬防柵を城の周辺に二重に延千八百間(約3260m)をめぐらしたと伝えています。いわゆる砦程度のもの。 資料館の模型(ガラス越しで見にくい)
墨俣宿としては美濃路の宿として設定される以前より、古くから宿場町として栄えて、室町時代迄は南側の上宿付近にあり、美濃路の設定時に現在地に移設されたという。
新犀川に架かる橋を渡ると●墨俣宿入口にあたります。すぐ左手が本陣跡で渡船場常夜燈も再建されている。本陣の建物はすでになく、沢井家が勤め。初代を沢井九市郎正賢、2代目以降は代々沢井彦四郎を名乗り明治に至るまで13代続いたといいます。 ●宿内に入ると左手(南側)が寺町で、お寺が沢山並び、左手に●脇本陣の建物が残ってます。脇本陣は一時加野家が勤めた以外は安藤家が勤めた。濃尾震災の際に倒壊し、直後に再建されたもので往時の様子を良く残しています。
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墨俣宿。揖斐川と長良川に挟まれており、重要な宿場であった。宿の長さ7町7間。戸数338、人口1,317人、旅籠10、 本陣、脇本陣、 問屋場各1。 14:45 |