美濃街道を歩く 3
       (墨俣~垂井)
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墨俣宿町屋-揖斐川-大垣・今宿-大垣市内-久瀬川-静里-長松-綾戸-垂井 18.74km 
 


 2020年2月6日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■墨俣~県道171
 前頁からの続き  犀川の土手にぶつかって左折すると●犀川の自然堤防の縁を歩くようになります。県道23号との交差点に●谷汲山道 標があり、「是より六里半」と刻まれている。 谷汲山と云うのは西国三十三所の最後、華厳寺のことだけど、京都遊学中に西国三十三所を回り終えてます。ここから直線で20km、歩くと1日かかるでしょう。その先、土手から左下に下りて行く道があって、●真ん中あたり●東結一里塚跡の石標と案内板が立ってます。案内板には「昔、町屋から先入方に至る約1300メートルの間は、立派な松並木でありました。」と書かれているのだが、町屋とはこの先のことで、入方はここから南方300m位の所にある地名なので、この先町屋まで見事な松並木だったのだろうと思います。 その先、●県道171号との交差点に「鎌倉街道」「歴史の道 鎌倉街道 美濃路」と書かれた大きな標識があります。  15:20

 ■県道171~揖斐川
 その先、右手に●倉稲魂神(うかのみたまのかみ)米の宮之趾と刻む石標がある。穀物・食物の神で、稲荷神社の主祭神。このあたりに稲荷神社に類する社があったのでしょう。
 右手に●町屋観音堂がある。案内板 小栗判官と照手姫の物語にまつわる伝説を残しています。又「歴史の道」という大きな案内板もあって、「鎌倉街道(美濃路)」、「待合(町屋)」、町屋観音堂のことなど詳しく説明されている。
 この先、二股があり、旧道は●民家の中を直進し、揖斐川に突き当たる。昔はこの辺りの揖斐川を佐渡(さわたり)川といい、●佐渡の渡しがあった。朝鮮通信使の通行時には臨時の船橋が架けられたそうです。
  詳しくは(国土交通省http://www.cbr.mlit.go.jp/kisojyo/understand/data/ibi_02/140110_siryou.pdf   15:32

■揖斐川~今宿2
 今は上流の新揖斐川橋で渡るしかないので、先ほどの二股に戻って、左折して橋へ向かいます。左手に結(むすぶ)神社という鳥居と長い参道があるのが、迂回路だからいいかと通過したら。信長に縁のある神社でした。「横屋」という信号の所まで迂回して、また強風の中、新揖斐川橋を渡りました。今日一日で木曽川、長良川、揖斐川の大河3つを渡りましたが、高所恐怖症の身には高くて長い橋はきらいです。
 橋を渡っても直に土手に下りられず、渡船跡まではぐるっと迂回せねばなりません。渡船跡らしき地点に●東町の常夜燈があります。嘉永7年(1854)の建立。改変されることなく現在に残るその姿は貴重と云うことで、大垣市の重要民俗文化財に指定。
 ちょっと先から大垣市東町の町中に入り、右手に●長屋門を備えた立派な家があります。●東町、小野町と続き、小野小学校の先の右手「教如上人御旧跡 専勝寺」という石碑があって、教如上人は東本願寺の初代門主であるが、特に関係ないかと通りすぎたけど。後で調べたら、家康に味方したということで、石田三成の襲撃に遭い,あちこち逃げ惑い、避難した先の一つが、専勝寺ということでした。歴史を感じますね。 ●左手に福勝寺、右手に八幡神社がある通りへ曲がります。16:40

■今宿2~本町2
 大きな道に出て右折。この先、旧道は左手の東中学校、東小学校の敷地の中を通って消滅、東小学校の北西の角から復活し、その角あたりに三塚一里塚跡があるはずだというが、わからず、見当を付けて●イオンの看板塔のあたりを写真を撮ったら、ちょっと先の、右手に一里跡の石標が立っていたらしいです。
 伝馬町の交差点を過ぎ、突き当たりの広い所に●美濃路名古屋口御門跡碑がありました。説明板 美濃路はここを左折し、突き当りを右折し、すぐ先の十字路を左折していきます。 東海道の岡崎同様、大垣も城下町なので、右往左往して行きますね。この十字路には高札場があり、札の辻と呼ばれていた。札の辻を左折すると、本町に入り、カラー舗装された道となる。 本町2丁目、右手に●大垣宿脇本陣跡という案内板が立ち、石標もある。 案内板 案内板の前が創業安政六年(1859)の「田中屋せんべい総本家」なので、てっきり脇本陣跡かと思ったが、そうでないみたいです。 「本町2」の信号を過ぎて、●一つ目の十字路、左手に本町道標がある。「左 江戸道 右 京道」とくっきりと刻まれている。文政九年(1826)の建立で、昭和48年に復元再建したもの。 17:17

 ■本町2~俵町
 本町道標を右折して、一つ目を左折して真っ直ぐ進むと、右角に●美濃路大垣宿問屋場跡看板と石標が立ってます。今は「寶来屋」という店になっており、閉店中だったが、大垣宿や美濃路についての解説板が架かっており、面白く読みました。 ここを右折して真っ直ぐ行くと右手が●大垣本陣跡。資料館になっている。 案内板 大垣宿本陣は永禄の頃沼波玄古秀実が竹島町を開き、はじめて本陣を創 立したと伝えられる。以後、本陣役は玉屋岡田藤兵衛、飯沼定九郎が問屋を兼ねて勤めた。明治天皇行在所にもなっています。 大垣宿散策マップ 
 その先県道に出て、●俵町の交差点で本日は終了、ホテルは駅前のスーパーホテルでした。 17:25
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  大垣宿は大垣城城下町でもあるので、屈折の多い町並に発達した。京口門(西総門)から名古屋口門(東総門)までの長さは約1.1kmあり、大規模な宿場町であった。本陣1 脇本陣1 問屋1 旅籠11、家数903、人数5,136(天保14) 

2020年2月7日
■俵町~船町
 ホテルを8時前に出発。俵町交差点へ向かいますが、途中右手に●大垣城が見えます。城についてはあまり語る余裕がないので、そのままパスということで。
 俵町へ入ります。右手に「柿羊羹本舗 つちや」があるが、開店前で通過。 その先、信号を左折して行くと、牛屋川に架かる「京橋」の左手前に●大垣城西総門跡(美濃路京口御門跡)の石標がある。案内板 大垣城は三重の堀に囲まれ、西方にある総門は「京口門」とも呼ばれ、明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられたことなどが書いてあります。
 橋を渡ると「船町」で、すぐ右手に●高さ約2mの円柱状の船町道標」がある。「左 江戸道 右京みち」と刻まれ、上部には梵字が刻まれている。第二次大戦で被害を受けたのを修復した・・とあります。道の向こう側には「奥の細道むすびの地」という標柱が立つ「住吉公園」があり、川沿いには色んな文学碑が置いてありました。
 右手に「住吉燈台 史蹟船町港跡」の案内板があって、後ろに和風の●住吉燈台が建っています。 説明板 右手の石段下の川面に和船が浮かんでいる。船町港は江戸時代から明治時代にかけて、大垣城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の川港で、物資の集散と人々の往来の中心だった。 住吉燈台は天保11年(1840)に港の道標と夜間の目印として建てられ、高さ8mの寄棟造り。優美な外観は高く評価されていると云われます。  8:30 

 ■船町~久瀬川
 県道18号へ出て、右折●高橋橋から堀跡を見る。右手に「奥の細道むすびの地記念館」があり、その前に●一つ目橋という石柱が立っていて、かつて架かっていた橋の親柱で、三ツ目橋まで確認でき、県道の下は堀ではなかったかと思います。・・・ これで大垣城下を抜けるのだけど、旧蹟の多くを見る余裕がありませんでした。
 県道は31号と変り西へ向かいます。左手に●古い家並みが見られます。 左手に●「史蹟 芭蕉木因遺跡」の石碑がある。奥に入ると正覚寺で、●芭蕉翁石碑と沢山の句碑が建っていました。芭蕉の俳友谷木因は船町の船問屋の生まれで、芭蕉と同門で北村季吟から俳諧を学んだため、芭蕉との親交が深かった。元禄7年(1694)芭蕉が大阪にて病没すると門人等が正覚寺に「芭蕉翁」追悼碑を建て、さらに木因の墓をはじめ多くの句碑が建てられ「芭蕉.木因遺跡」とした・・と云われます。  8:50

 ■久瀬川~杭瀬川
 その先、養老鉄道を越え、中川橋の先を左折、突き当たりには●徳圓寺。山門が美しい。寺の前を通過していくと杭瀬川の土手下へ出ます。 突き当たりの土手の石段を上がって土手を越して行き、杭瀬川に架かる●旧塩田橋を渡って、渡った先に●塩田の常夜燈がある。残念ながら修理中らしく、ブルーシートを被って屋根が見えない。案内板 ・・・昔、杭瀬川の水運が盛んで、このあたりの塩田港はその中継港として重要で常に20~30隻の船が停泊し、船頭相手の銭湯、米屋、雑貨屋等の店が軒を並べ大変賑やかであった。常夜燈は明治13年杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識、そして伊勢両宮への献燈として塩田港の西岸に建立された・・とのことです。
 ●長源寺の前を通って先に進みます。 杭瀬川手前で変に左へ折れてくるのは塩田港の賑やかな町並を通って来るためだったのだと思います。9:05

 ■杭瀬川~久徳町
 再びの県道31号を横切って北上、すぐ先の●十字路を左折するが、その前にここを右折すると、杭瀬川の堤防に出て、その堤防上に●「谷汲山常夜燈」がある。電線がつながっていたので,現在でも使われているのかもしれない。 
 さっきの十字路から今度は真っ直ぐ進みます。少し先左手に●久徳(きゅうとく)一里塚がある。ここには●南塚のみ残るが、榎が残るなどほぼ原形に近い。  9:15

  久徳町~荒川町西
 一里塚の向かい側に●瓊瓊杵(ににぎ)神社がある。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から降臨してきた神で、天皇の祖先神になったとされる神だけど、あまり見かけない神社ですね。
 左手に●「両宮 大神宮」の常夜燈があります。その先、右手に静里小学校があり、学校の先から工場によりしばらく旧道が消えているので、やむなく●県道31号を行きます。 旧道は「大垣自動車学校」の西北部角から復活するので、まず「荒川町東バス停」を右折し、その先左折して行くと、「自動車学校」の西北部角に出て、ここから旧道が復活しています。
 その先十字路の右手角に●小さな祠があり、その横にあるのが「谷汲道道標」だろうと思います。文字ははっきり読めません。 9:40

 ■荒川町西~長松町
 その先、左手に●白鬚神社がある。白髭神社は滋賀県高島市ある神社が総本宮で、祭神は猿田彦命。交通の安全を司る神でもあるので美濃路にふさわしい感じ。 その先大谷川に突き当たり、大谷川橋で渡る。 大谷川を渡って、すぐ先の角を右折して、●長松町に入ります。
 少し先の三叉路の左側に●二基の道標があり、手前の小さいのは、「従是 南宮社 近道 」と書かれ、 後の道標には、「← 大垣 岐阜 、 → 垂井 京都  道」と刻まれている。南宮社とはここから西方へ直線で4kmの所に「南宮大社」というのがありますね。 その先クネクネと行くと●慈應寺があります。山門前に大きな案内板があって、木造薬師如来坐像と木造十一面観音菩薩立像はいずれも大垣市指定重要文化財になっている・・・とあるのだけど、仏像は明治の廃仏毀釈の際、外から持ってきたもので、寺も民家の様な感じで入りにくい感じでした。  10:00

 ■長松町~綾戸
 その先、●国道21号を左折、西へ向かい、旧道は右手奥に国道に沿って消えているので、国道を進みます。右手に「両部神佛 福乃宮」がある。よくわからないが、新興宗教か、信楽焼のたぬきまで置いてある。●右前方に「伊吹山」が良く見えます。 旧道は●「綾戸口」信号を斜め右にから復活します。 その先、右手に●伊勢両宮献燈と刻む常夜燈がある。鉄柵に菊の紋章まで付いている。  10:25

 ■綾戸~
 この先にあるという「綾戸の一里塚跡」はあたりを気をつけていたが、見つからなかったです。右手に●村社六社神社の石柱と常夜燈と鳥居があり、参道が長そうなので参拝せず通過しました。 ●東海道線の踏切を越え、右手「東小学校」の西側へ行くと、●綾戸古墳があり、ここはなんと「竹内宿禰」の墓だという伝承が残っており、「旧傳 竹内宿禰公墳」という石碑まで立っています。伝承とは云え、竹内宿禰の墓がこんな所にあるとはちとビックリ。古墳そのものは7世紀以降の円墳で、直径32mのものものです。 街道に戻った先は●美濃路に残る唯一の松並木が続いています。  10:52

     ~中山道との合流点
 ●松並木を進み、右側にはゴルフ場やらユニチカの工場などが並んでいます。 そうこうしている内に●中山道と美濃路の追分に到着しました。ここが今回のゴールです。真ん中に●追分道標が立っています。説明板  中山道からここへ来たのが2009年10月24日で11年ぶりですかね。  今日の午後は岐阜駅に戻り、岐阜城へ行くので、ゆっくりもしていられず、11時26分の電車で岐阜へ向かいました。 美濃路はさすがに重要な街道で良く保存され、案内板も完備して楽しかったです。 反面正味2日半で終えたので、名古屋城、四間道、起宿などゆっくり見られず、重要な旧蹟もいくつか見逃しました。正味3日間かけるといいかもしれません。 11:10終了  

 ★岐阜城と岐阜の町並パノラマ
  実は今回奥方に美濃路を歩き、ゴールは岐阜と言ったところ、是非岐阜城見たいということで、3日目大垣から一緒に歩いていました。その為丸3日間美濃路のために使えず、今日の午後は岐阜城見物ということになりました。言うまでも無く、織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城であります。今年の大河ドラマに織田信長が登場するので、ふもとの岐阜城公園にも大河ドラマの幟旗が沢山はためいておりました。城へは一番険しいと言われる「馬の背コース」を山女の奥方の指導により、岩壁をゆるりと登って●岐阜城へ。 お城から●眼下を流れるのは「長良川」。正面に見える白い山は「伊吹山」、北に目を転じると御嶽山の白煙が、南には航空自衛隊岐阜基地の滑走路が見え、風景を堪能致しました。

     1 宮~国府宮  2 国府宮~墨俣