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日光御成街道 日光街道の脇街道。将軍が日光に詣でるときは、町民が通る日本橋を避け江戸城大手門を出て、途中で中山道に合流し、本郷追分から分岐し幸手宿で日光街道と合流する。岩槻街道ともいう。中世以来の鎌倉中道を利用しており、江戸時代に将軍の通る重要な街道として整備された。岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻の各宿を通り幸手宿までの13里30町(約51km)の距離でこれを2回に分けて歩いた。 全4頁 |
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![]() ![]() ★江戸城大手門 8:30 一般公開しており、中を見ることができる。だけどいかんせん、開門前でどうにもならず、外から見るだけ。正面の門は高麗門という。大手門を出たら真っ直ぐ進み、大手町交差点で左に曲がる道が御成道である。右に曲がる道は甲州街道となる。 ★平将門首塚 三井物産ビルの脇にある。 天慶の乱に破れ、平貞盛に討たれた将門の首は京都に送られ獄門に。ところが三日後に白光を放って飛び去り、この地に落下したのだという。現在でもこの塚を移転させようとすると、責任者が病気になったりするので、このままそっとしておくのだそうだ。 |
![]() ![]() 慶長7年(1602)の慶長江戸図にも描かれている。江戸城防衛に重要な神田橋門があった。現在の橋は大正14年)の架橋になるもの。長さ17.3m、幅が34mの幅の方が長い橋。橋を渡ると、神田錦町、美土代町と変わっていく。この辺りは歴史が古い街なので歴史的名称が残っている場所で、外神田なんていうのより好ましい。伊勢神宮にささげる初穂をつくる水田「御田代(みとしろ)」があった故事からつけられた。神田も同じ故事に由来するそうだ。小川町交差点を右折し、交通博物館の所を左折する。将軍は筋違(すじかい)橋」か昌平橋をを渡って中山道へと入る。筋違橋は消滅している。昌平橋は江戸図に見える。 |
![]() ![]() 道は中山道と合流し本郷通へ向かう。途中右手に将門を祀る神田明神がある。天平2年(730)創建というから長い歴史を持つが、江戸城増築に伴い現在地に遷座させられた神社である。 ★かねやす ここまでが江戸の範囲といわれる場所で、要するにこの先は田舎ということ。中山道編にも登場しているが、シャターが下りていた写真であったが、本日はお盆前か開店していた。こんな感じのお店であった。 |
![]() ![]() 文政10年(1827)11代将軍家斉の溶姫(やすひめ)が13代藩主前田斉泰に嫁入りしたときに建てられた。 ★東大前本郷通り 本郷の街は大学を中心に、学生街であると同時に、樋口一葉や石川啄木など、多くの作家や文化人が数多く住んでいた、文学の街でもある。この先は寺院も多く、イチョウの木陰も深く歴史にふれることのできる街と思います。今回は時間がなくて回ることはできなかった。 |
![]() ![]() ★正行寺(とうがらし地蔵) 元禄15年(1702)に安置されたという「とうがらし地蔵」が祀られている。地蔵を刻んだ「覚法院」がことのほかとうがらし酒が好きだった由来する。中をのぞくと赤いエプロンの掛かった地蔵がいる。 ★浄心寺の布袋像 コンクリート造りであんまり品が良くない。袋を持たず夏蜜柑を持っている。お寺は江戸三十三観音札所、第十番で本堂は立派なもの |
![]() ![]() 天栄寺門前に建てられている。近隣の農家が農作物を持ち寄り、販売し、後にやっちゃ場に発展した場所だそうだ。 ★目赤不動(南谷寺) 目が赤いというわけではなく、方角のことをいう。元々赤目不動と言われていたが、三代将軍家光から「目赤不動尊とせよ」と言われ目赤になったのだとか。江戸時代から目赤・目白・目黄・目青・目黒の五不動が五色不動として知られている。五色は東・西・南・北・中央を表すとか。 |
![]() ![]() 江戸きっての大寺。長禄2年)太田道灌の開基による。道灌は江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から吉祥と刻銘した金印を発見し、吉祥寺と名付け西の丸に建立した。その後神田駿河台に移り、明暦の大火(1657)後現在地に移転した。そして門前に暮らしていた人々が移転して村を作り、いわゆる吉祥寺市となった。多くの学増を出し駒澤大学に繋がっている。 ★八百屋お七比翼塚 八百屋の娘お七は天和の大火でこの寺へ避難し、その寺の小姓(吉三郎)と恋仲になり、火事になればまた会えると思い込み放火をします。翌三年お七は鈴ケ森で火刑に処せられます。これもいろんな説があって、浄瑠璃になったりします。比翼塚は昭和41年の作。 |
![]() ![]() 元禄8年(1695)、五代将軍徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、大老柳澤吉保が7年の歳月をかけて桂離宮の様式を取り入れて造らせた。明治時代に入り三菱創設者岩崎弥太郎の所有となった後、昭和13年に東京市に寄付された。 レンガ塀の説明 ★古河庭園 現在の洋館と洋風庭園の設計者は、明治から大正にかけて、鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸庭園洋館などを手がけた、英国人ジョサイア コンドル(1852~1920)。 |
![]() ![]() 後三年の役が終わって、奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れた八幡太郎源義家を祀っている。源義家はこの地の城主豊島義近に鎧一領を与えたことに由来する。 ★西ヶ原の一里塚 西ヶ原一里塚は左右が残り貴重な遺構。大正時代、本郷通りの拡幅工事にあたり、一里塚を取り壊すことになったが、飛鳥山に住む渋沢栄一が近隣の住民を動かして一里塚を残すことに成功した。パノラマ写真にしてみた。 |
![]() ![]() ★青淵文庫 渋沢栄一の80歳のお祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて竜門社が寄贈した鉄筋コンクリートの建物。 この後、街道は石神井川、音無川を渡るため複雑にJRガードを潜り、又潜り返したりして十条方面へ向かう。商店街を抜けて左の「権現坂」を上って行く。上った先が王子神社 |
![]() ![]() 熊野権現の勧請と伝え、元享二年(1322)、当地の領主豊島氏が社殿を再興し、若一王子宮、王子権現と称される神社。 ★関神社・毛塚 百人一首で有名な蝉丸を、髪の祖神として祀る珍しい神社である。手塚は、釈尊が祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝きたという由来から、理容業者により建てられた。この先十条方面へ |
![]() ![]() この周辺は、かつてお茶が栽培され「王子のお茶」として名物だった。住職が茶の生垣をあしらって参道を作ったので、「茶垣の参道」と称しているが、生垣は残っていないように思われます。 ★十条の富士塚 12:45 富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚であちこちに残る。頂上には浅間神社を祀る。富士山の山開きの日に富士講が富士塚に登山する習慣がある。 |
![]() ![]() 清水坂を下りて行った左手にある。真言宗、智山派らしいが中国風の楼門で珍しい。黄檗宗系のお寺では見ないこともないけど、他宗でこういう形のものはあまり見たことない。 ★納骨堂 これも珍しい、インドブッダガヤの仏塔をモデルにしたといわれる納骨堂。とにかくこのお寺は変わっている。 |
![]() ![]() 赤羽駅の西側近く、境内一帯は、太田道灌が築いたとされる稲付城があった。江戸城と岩槻城の中継地に設けられた砦城の役割を果たしていたものと考えられている。 ★道灌堂 木造太田道灌坐像が納められている。 太田道灌は、室町時代の武将で、扇谷・上杉家に仕えて元々の江戸城を築いたことで知られる。 |
■岩淵宿 ・・・岩槻道の初宿であって『遊暦雑記』には日本橋から三里八町、宿の長さは四町二十一間、道幅四間とある。旅篭屋は若松屋大黒屋が有名で本陣は小田切氏が代々勤める。川口と合い宿として月の前半後半で宿場の役目を交代した。実際にはほとんどが日光街道の千住宿を利用したのであまり活気はなかったようだ。・・・・・新修北区史。史跡としては宝幢院前の道標と、新荒川大橋の渡船場跡案内板ぐらいしかない。 |
![]() ![]() JR赤羽駅をくぐって、線路沿いに進んでいくと、西から来た板橋道と御成街道が合流してくる。岩淵、川口方面へ。石柱の正面には「南江戸道」、右側面に「東 川口善光寺道 日光岩付道」、左側面に「西 西国冨士道板橋道」とある。このあたりが岩淵宿の入口で荒川の川縁まで続く。 ★小山酒造 23区唯一の造酒屋で「丸眞正宗」という酒を造っている。後ろに工場がある。実は私この正面の第四岩淵小の卒業生で、昔ここで遊んでいた記憶がある。 |
![]() ![]() 小山酒造の隣にある。岩淵宿唯一の遺構と言ってよい ★荒川・新荒川大橋 14:00 二つの川を渡る。川越から流れてきた新河岸川と荒川である。以前、荒川は荒川放水路といって人工の川である。岩淵水門から先の旧川を隅田川と言っている。荒川は通常、「舟渡し」であったが、将軍の日光社参の際は幅三間(約5.4m)長さ六五間(約117m)の舟橋が架橋された。 大手門-川口手前まで 12.6km |
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