日光御成街道歩き旅    東北自動車道から岩槻まで  歩行地図
 大手門-追分-王子-赤羽-川口-鳩ヶ谷-(東川口駅)大門-浦和-岩槻-幸手  51.9 (24.9) km
 

 御成道 1  御成道 2  御成道 4

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2007年9月24日の続き 
9:45
●東北自動車道合流地点

 街道は東北自動車道にぶつかり、右脇道を入っていくのであるが、自動車道に寸断されて行けない。そこで自動車道の上を越して行く。
●埼玉スタジアム
 陸橋の上から見ると、右前方に埼玉スタジアムの屋根が遠望できる。越してまた旧道と合流してくるので、しばらく歩く。国道105号線が大体御成街道に沿っている。

 左側に青面金剛像が1基、建てた年代はいまいちよくわからない。右側にが2基。隣りには小さな庚申塔も。大きいほうの庚申塔には文化2年(1805)と刻まれている。この辺りは玄蕃新田の飛び地で、御成街道の維持に当たっていた。元禄の頃から開発されている。この辺で街道幅3間という。こちらの飛び地の方に七里目の一里塚があったといわれるが跡形もない。

●国昌寺山門
  街道から左へ少し入った場所にある。伝説のある山門・・昔、見沼に竜
が棲んでいて、畑の作物を荒らすので、日光からの帰途の左甚五郎に竜を彫ってもらい、これを欄間に釘付けしたところが葬列がこの門を通ると軽くなるので、竜が棺の中身を食べるらしいとの話になった。それ以来この門は開かずの門になった。
●総持院
 鐘楼を持つ山門。この形式は日光街道、小山の持宝寺にもあった。そしてこの辺りは植木農家が多く、まるで森の中で、細い道が交差しており入り込むと、元に出られないくらい。

 ●氷川神社  10:30
 街道は代山に入る。右手に高校野球の名門浦和学院が建っている。正門の前、左手に鳥居が立っている。神社はずっと奥にあって、簡潔明瞭なきれいな神社であった。街道の左側には見沼用水が通り、新田開発らしい広めの田畑がきれいだ。浦和東高校を過ぎると、左側はさぎ山自然公園、右側に浦和競馬トレーニングセンターがある。お馬さんをみたいと思ったが警備員がいて入れない。
●高徳寺
 膝子という所に入る。この寺は三代将軍家光以降十三石の寺領を拝する。将軍社参の際、休息所になりました。ここも墓参りの人で一杯。

●膝子一里塚  11:20
 この地名は、この地の農夫の妻が産み落とした赤子の姿が膝の様であったことに由来していると言います。なんか想像できない地名です。西側はなくなり、東の塚を残しています。江戸より八里岩槻へ1里。
●見沼大用水東縁
 大宮、浦和の東側にあった見沼という大きな沼を将軍吉宗の時代に埋め立て新田開発を行った。沼がなくなり、農業用水に困ったので、代わりに利根川から延々水を引いてきて作った。西側の用水を西縁といい、真ん中に排水用の川を芝川という。

●筆塚
 弘化元年に生れた日本美術協会員の画家、森田久蔵の筆を遺言により納めた塚。あまり有名な画家とは思えないが塚を築いてくれるのは幸せというべきか
●七里分岐点  11:35
 膝子一里塚からしばらく進むと、道は七里中学校の前でYの字に分かれている、右の道が御成道です。地名は近隣七村が合併したことによる。

●道標
 深作川の手前に道標があります。説明板によると「江戸道・岩槻道・慈恩寺道・原市道・川口善光寺道」と刻まれているそうですが、風化が進みほとんど判読不可能。
●大橋(御成橋)  12:10
 道は綾瀬川に架かる御成橋(大橋)を渡ります。十二代将軍家慶は先の光徳寺で休息した後、この橋まで歩いたところから御成橋と呼ばれるようになったと言います。

 ●閉店して、廃城のような人形の秀月の前を左に直角に曲がり、●東武野田線の踏切を越える。この辺りを街道は馬の馬蹄のように曲がっており、馬坂と呼ぶ。このように曲がっているのは、沼地の影響とか将軍の警備の為ではないかといわれている。途中東北自動車道で分断されてしまっている。

■岩槻宿
 4月にさいたま市に編入された岩槻は将軍が最初に泊まる宿場であるが、また太田道灌が築いた岩槻城の城下町でもあり、城下町と宿場町として発達した。国内有数の人形の産地としても有名で、日光東照宮造営に携わった工匠が岩槻にとどまり、人形造りを始めたといわれる。
 本陣1脇本陣1 旅籠10

 ●東北自動車道に沿う歩道橋で線路を跨ぎ、高速に沿って歩きます。交差する国道122号が御成街道で、交差点角に●女の子の人形(人形のまち いわつき わらしべ人形像)が座しています。曲がった先からは市宿(いちじゅく)通り〉と呼ばれる通りで、宿場町として繁栄した。毎月一と六のつく日に六斎市が立ち、周辺特産の岩槻木綿・牛蒡・葱・名物素麺・足袋等が商われ大いに賑わったと言われています。現在は人形歴史館やら人形店が多く賑わっている。 12:30

●浄国寺
 岩槻城主太田氏房の発願によって、天正15年(1587)建立され、同19年寺領50石の朱印を受けた関東18壇林の一つとなった古刹である。浄国寺日鑑という寺の日誌のようなものが貴重な史料として保存されている。
●洞雲寺山門
 越生町の龍穏寺の末寺で本尊は釈迦如来。宝永年間の火事にあったが、山門だけは類焼を免れ、建立(1532)当時のまま残っている。

●岩槻資料館  12:50
 時間がなくて、入館しなかったけれど、昭和5年の建物である岩槻警察署の旧庁舎を資料館として利用し、その保存とともに、運営を図っていますとのこと。
●八雲神社
 創建は永禄3年(1560)当地の祖先、勝田佐渡の守が市を開設した折、守護神として開いたのが最初。明治17年のものだが、本殿の屋根に裳階のように拝殿の屋根がくっついており、前から見ると一種独特の形をしている。

●高札場(復元)  13:00
  八百屋さんの店先に高札場のレプリカがあり、「生類憐れみの令」の手作りの高札などがかけられていて、それなりに楽しい。実際の高札場はこの先の別な場所にあったようですが。
●岩槻領境界石
 藩領を示す領界石が宿内にあります。「從是南岩槻領」と彫られている。

●「田中屋本店
 嘉永年間(1844~)創業の老舗和菓子屋さん。栗最中などが有名。
●岩槻宿町並み(久保宿町)
 その先の「久保宿町」は電線が地中化され、電柱が無いすっきりした町並み。だが、昔の面影はすっかり無くなってしまったと思える。

●願生寺本堂  13:20
 珍しい茅葺き屋根の本堂。気品あふれる形に感動した。ただ松の木がちょっとじゃまでうまい写真を撮れなかったのは残念。
●一里塚跡
 旧岩槻市役所脇に立てられている。市役所建設時に一里塚を撤去してしまったのだとか。日本橋から9里目

●遷喬館
 寛政11年(1799)に、岩槻藩士の儒学者児玉南柯(こだまなんか)が創設した私塾であり、文化年間に藩校となりました。 儒学を中心に講義が行われ、藩士の子弟たちがここで学びました。建物は武家屋敷を利用したものであり、木造平屋建て、茅葺屋根の構造です・・・案内板より
●時の鐘  13:30
 寛文11年(1671)に、当時の城主阿部正春が造らせたものです。「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯(なんか)と時の鐘」とうたわれるほどでした。当時から岩槻のシンボルとして知られ、その鐘の音は九里離れた江戸まで聞こえたということです。
 この先街道に戻り、渋江交差点を一路北上する。右手奥の方に久伊豆神社、慈恩寺などあるのだけど、本日は30キロほど歩くので、先を急ぐことにして幸手宿をめざします。

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