青梅街道歩き旅 1   1 新宿追分から新高円寺まで  歩行地図
 新宿追分-中野坂上-荻窪-上井草-関町-田無-小平-桜街道-榎-中原-箱根ヶ崎-青梅新町-青梅  44.9km   

 青梅街道
 
家康の江戸入城後、江戸城の大改修に当たって、白壁用の石灰が大量に必要となったため、青梅の成木村で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備された脇街道です。当時の名称は成木街道と呼ばれた。街道は内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現:甲府市酒折)で甲州街道と再び合流する。このため、「甲州裏街道」とも呼ばれた。距離で甲州街道より2里短く関所が無いため、庶民の旅客にも多く利用された。宿駅として中野、田無、小川、箱根ヶ崎があった。
 青梅から先は山道でもあり、交通不便の為、当面新宿追分から青梅まで扱っておきたい。距離約11里(43km)

1 新宿追分~新高円寺  2 新高円寺~武蔵関  3 武蔵関~新小平  4 新小平~青梅

2009年3月1日地下鉄丸ノ内線新宿御苑前着10:15
■新宿追分界隈
青梅街道は新宿追分けで甲州街道と分れて進みますが、歩く前に新宿界隈を見ておきたい。
●大宗寺
新宿御苑に下屋敷があった内藤家の菩提寺。入口にある
●銅像地蔵菩薩座像は江戸六地蔵のひとつ。甲州街道歩きで来た当時は改装中で閻魔堂は見られなかったけれど、今回見ることができた。中の●閻魔像は高さ5.5mもあって、迫力満点。(写真をクリックすると大きくなる  左側に座る「脱衣婆」の像も大きい。亡者から衣をはぐところから、内藤新宿の遊女の商売神として信仰された。

 北側の●成覚寺は宿場遊女の投げ込み寺として知られる。境内には年季奉公中に死んだ遊女の共同墓碑である●「子供合埋碑」がある。子どもとは遊女のこと。遊女と玉川上水で心中した「鈴木主水」を供養した●白糸塚や、幕末の戯作者恋川春町の墓がある。
10:40

●花園神社
  歌舞伎町隣の有名な花園神社へ寄ってみた。
 由来は江戸幕府以前に、大和吉野山より勧請されたとされています。現在地に移転いた際、尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていて、花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来とされています。
拝殿の前に駐車中の車があった。境内で珍しいのが●芸能浅間神社 で、昔から芝居や舞踊に縁が深かったため、こう呼ばれる。藤圭子の歌碑も、隣に建っています 。

■新宿追分~新宿駅
 さて、伊勢丹脇の
●新宿追分け交差点へ向った。新宿駅東口方向へ向うのが青梅街道。南口へ向うのが甲州街道。マルイシティ角に円形の「新宿元標」が設けられている。ここが追分と書かれて、現代と江戸時代の街道地図やと乗物、旅人が描かれている
 新宿駅東口広場に
●馬水槽なるものがある。19世紀にロンドンで馬、犬猫、人間に飲料水を供給した石造品でで、イギリスから贈られた。ライオンの口から水がでて、上の水槽で馬が飲み、下を犬猫が使い、人間は裏側で飲むというしくみになっている。 11:25

■新宿駅~成子神社
 新宿駅ガードにぶつかる。大ガード下ではなく左側にある
細いトンネルが旧道です。通過して●小田急ハルク裏を通って行く。新都心歩道橋下交差点にでるので、歩道橋を渡り、右手の●常円寺へ行った。入口脇に「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)狂歌碑」がある。不思議な名前だけど、本名を「大久保正武」という、江戸中期の狂歌師で、
  
三度たく米さえこわしやはらかし、思うままにはならぬ世の中 ・・と刻まれている。書は「太田蜀山人」により文政2年(1819)に建立された。 11:40

 青梅街道に歩き出し、右手に●成子天神社がある。参道が長く、鳥居脇に「鳴子ウリ」の案内板が立ててある。このあたりは江戸時代「マクワウリ」の特産地だったそうだ。境内に大きな「富士塚」があるのだが、公開日が限られているようで、遠目にしか見えず。
 街道とは少々はなれているけど、南側にある十二社(じゅうにそう)
●熊野神社に寄っておく。
 室町時代、中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現を祠ったものと伝えられる。ここには「十二社の池」というものがあり、景勝地として賑わいましたが、現在では埋立てられて、往時の面影は無くなってしまった。神社には文化財も多いが、「
大田南畝寄進による水鉢」というものがある。 12:05

 ■成子神社~中野坂上
  神田川に架かる
●淀橋を越えます。淀橋には・・・中野長者は貪欲な人間で、財が溜まると地中に隠し、秘密保持のために下男を殺して橋から神田川に投げ込んだので橋は「姿見ずの橋」と呼ばれるようになった。・・・という伝説がある。江戸時代になり家光が鷹狩りで通りかかったとき、その名前は不吉ということで京都の淀川に似ているからと淀橋と名づけたという。
 
●象小屋跡
 「中野坂上」交差点を左折して、少し行った先を右折した「朝日が丘公園」の一角に象小屋跡というのがある。江戸時代「象」がベトナムから来ており、将軍家へ献上されたが、さすがにエサ代がかさみ、中野の「源助」へ下げ渡され、この地に「象小屋」を建て飼育されていた。その小屋跡。

 さらに南へ行った右手に山門が中国風な●成願寺がある。中野長者と呼ばれた鈴木九郎が開基した寺として知られる。自分の娘が病死し、深く悲しみ出家して建てた。境内正面に鈴木九郎の塚」がある。またここに「蓮池鍋島家」の藩主の墓地がある。中野在来の寺院で大名家の墓はここだけ。
 再び中野坂上交差点に戻り、中野十中にあるという「宝仙寺三重塔跡」を見に行ったが、これはよくわからなかった。  
13:05

 中野坂上~鍋屋横町
 街道を少し進んで、右にある
「宝仙寺」へ行った。
 ここは「宝仙寺学園」の方が有名かもしれない。平安後期の寛治年間(1087~94)、源義家が後三年の役(1083~87年)を平定して京へ凱旋の途中、陣中に護持していた不動明王像を安置するため創建した、大伽藍戦災で焼失、戦後順次再建されている。
 
●三重の塔
 再建された飛鳥様式の純木造建築の塔。元は中野十中の敷地に建っていた。
 
●臼塚
 供養のため噴水として積み上げた石臼、そば粉を挽くのに使われていた臼が機械化により使われなくなり、捨てられていたのを惜しんで供養のため建てられた。  
13:40

 門を出て、宝仙寺の塀伝いに西へ行くと、左手の公園内に「やままさ醤油醸造所」の一部の塀を移築した●レンガ塀がある。日本の伝統的な「しっくい工法」と「フランス積み」といわれるレンガ積み工法で造られている。明治時代みそ、醤油醸造は中野の代表的な地場産業だった。その西に●明徳稲荷神社がある。ここは、小代官堀江家の建立になるもので、この辺りが中野宿の中心だったといわれる。慶応3年(1867)という手水鉢が残る。

 ■鍋屋横町~高円寺陸橋・環七通り
 街道に出て先に進みます。
「鍋屋横町」信号の手前右手に
●「慈眼寺」がある。印度パゴダ風な塔が立つ。なんでも住職が「タイ国王立一級寺院ワットスラケット」という寺で修行し、その縁で、「仏舎利」を授り、納めるために建てたとか。しかし本日は何故か門がぴったりと閉り、入れなかったので詳しく見学できず。 その先左手に斜めに入っていく道が●鍋屋横丁で、妙法寺への参道となっている。また鎌倉街道だったといわれる。14:15

 「地下鉄東高円寺駅」の前から、左手に●「蚕糸の森記念公園」が広がっている。蚕糸試験場が昭和54年に筑波に移転した跡地に造られたもの。公園の西の端を出た所に、一対の大きな青銅製の燈籠がある。妙法寺参道入口に建てられたものだ。ここを左に入っていくと妙法寺がある。ここで街道を先に進むか、有名な妙法寺へ行くか迷ったけど、ま 急ぐわけでもないし、時間も中途半端であるしで、妙法寺へ回ることとし、公園の脇の●参道を歩いて寺へ向いました。 14:50

★妙法寺
 。「(堀之内)やくよけ祖師」(おそっさん)として、厄除けのご利益がある寺院として知られている。江戸時代から人気のある寺院であり、現在でも、参拝する人が多い。
●山門
 左右仁王像は徳川家綱が妙法寺の地頭所日吉山王社に寄進したとされる金剛力士像を移したもの。都重要文化財。
●祖師堂
「やくよけ祖師像」が安置されているお堂。都重要文化財。

●鉄門
明治11年(1878)製作。国の重要文化財。和洋折衷のデザインになる鉄門で、類の少ないもの。イギリス人建築家・ジョサイア・コンドルがデザインしたとされる
●有吉佐和子の碑
 当地近所に住んでいた作家・有吉佐和子を偲んで建てられた碑。本人はキリス教徒だったらしいけど、この境内の風情を愛したとか。外に「
二十三夜堂」など色々と多い。    15:10

 ■高円寺陸橋~新高円寺駅
妙法寺を出て、街道へ戻る途中の「環七通り」左手に
●真盛寺がある。
この寺は「環七通り」に面していながら、大変広い境内で、本山は大津市の西教寺。なによりも、「三井高利」が日本橋に「越後屋」を創業して以来の三井家の菩提寺で、三井寺とも呼ばれた。と案内にある。
 さて、「高円寺陸橋」を左折して、街道に戻る。「新高円寺駅」手前に、
●「五日市街道」の分岐点がある。この街道も脇街道で、江戸へ木材、炭などを運ぶために整備された街道です。次回ここを歩きたいと思っています。本日はここで終りとして、新高円寺駅より地下鉄で帰宅しました。  16:10
 
追記・・・・後日、五日市街道入口はこの角ではなく、信号一つ先のバス通りが正しい入口だと判明しました。撮り直しておきたいと思います

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