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佐屋街道 東海道は宮の宿から桑名までは木曽川など大河が流れ渡川が困難なので宮から海路「七里の渡し」が採用された。 しかし天候による欠航や、船酔い、特に女性が舟を嫌うなどにより、熱田より陸路を西へ進み、岩塚、万場、神守、佐屋と四つの宿場を経て、木曽川を3里下り、桑名へ至る「佐屋廻り」と呼ばれる方法も多く利用されました。 この道は既に江戸時代以前から存在していたが、特に三代将軍家光が上洛の折利用したこともあり御殿や伝馬所等が整備され、東海道の主要脇往還として道中奉行の管轄下になり、一里塚や宿場も整備されました。佐屋川自体は、明治以後の木曽川改修により埋め立てられてしまいました。 2008年8月3,4日の宮宿まで達した後、ついでに歩きました。 24.1km程度でした。 |
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![]() ![]() 2008年8月3日 ■宮~金山町 東海道の宮宿へ到着した夕方、そのまま佐屋街道へ出発。本日2時間程と、明日4日の1日掛けて歩く予定です。まず●ほうろく地蔵から始まります。出るといきなり国道1号線があらわれ、横断が出来ないので歩道橋へ回ります。渡ると●熱田神宮鳥居前へ出ます。神宮鳥居は割と地味な印象。鳥居を潜らず手前を左折して行きます。 16:40 |
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![]() ![]() その二女子にある左手、「中川福祉会館」前に●佐屋街道の石標と案内板がある。佐屋街道について、詳しい説明が書いてあり、勉強になってよろしいが、ただ少々古くなって、読みづらいのが惜しまれる。 ●「明治天皇御駐蹕之所碑」 この先同じ左側、中川運河のすぐ手前にこの碑が立っている。『駐蹕』とは「ちゅうひつ」と読みますが、意味はこの地に少し滞在された記念碑と思います。この碑はあちこちにあり、最近では成田街道を歩いた際、船橋にあったのを思い出します。 17:50 |
![]() ![]() ![]() 隣は●「光明寺」。ここの本尊は行基作の地蔵菩薩。建物は新しい。9:00 |
![]() ![]() 神社の向かい側に●岩塚宿の本陣があったというけど痕跡もない。この先真っ直ぐ行くと、庄内川の堤防に突き当たる。堤防の右手にあるという七所神社を探してみたが、見あたらずあとで地図を見aたら、高速道の向こうであった。 |
![]() ![]() 万場宿跡の解説板などがあり、万場宿のあったことを忍ばせている。万場宿は、佐屋街道「万場ノ渡」をはさみ、岩塚宿(中村区)と向かいあって、寛永11年(1634)御伝馬所に指定され宿場が置かれた。この両宿場は近距離にあったため、制度上は一宿と見なされ、月の上半月を万場宿が、下半月を岩塚宿が交代で人馬継立の役務を行った。明治5年(1872)御伝馬所は廃止された。」とある。万場宿は本陣1、問屋場1、旅篭10程度の規模であった。 |
![]() ![]() 道なりに土手の右手へ下りていくと、万場宿の町並みが続いている。車の幹線道路ではないので、車も通らず、落ち着いた町並みで、旧家もちらほらと建っており、宿場町の面影を感じる●「ち丶の醫王山観音覚王院」 右手に背の高い"石柱" が立ち、奥に赤い幟がはためいている。ここの観音様のお告げで、境内にある乳の木の実を食べたら、乳の出が良くなったと言う言い伝えがある。9:20 |
![]() 9:30 佐屋街道 2へ続く |
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佐屋街道 2へ |