山陽(中国)街道を歩く 4
         (三宮~兵庫まで)
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 三宮-生田神社-元町-湊川神社-西出-南仲町-北逆川-兵庫駅     19.4km(西宮神社~兵庫駅)  
 

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■三宮~生田神社
 2011年10月23日 13:35  3よりの続き
 三宮駅を越え、西に少し行くと右手に●生田神社がある。 祭神は天照大神の妹神という「稚日女尊(わかひるひめのみこと)」。神功皇后が朝鮮半島からの帰還の際に、船が動かなくなった地に創建されたとされる。
 境内、源平ゆかりの史跡が多く、平敦盛が深く愛した「敦盛の萩」、梶原源太景季ゆかりの「箙(えびら)の梅」、「梶原の井」、武藏坊弁慶が源義経の代理として当社に参拝した際に奉納したとされる「弁慶の竹」などがある。

 鳥居をくぐってすぐ右手に●松尾神社がある。「灘の酒」発祥の地とされ、「灘五郷酒造の発祥地」の碑に、朝廷では新羅から来朝した賓客に生田神社で醸造した神酒をふるまって、慰労の宴を催すのが通例であったと書いてある、境内奥には●生田の森がある。元々は生田川にまで広がるような広い森だった。清少納言の枕草子に「杜(もり)は生田」と記述され、 平安時代の貴族もこの森を訪れ、多くの和歌を詠んでいる。一ノ谷の合戦では源範頼と平知盛が生田の森で戦った様子が描かれ平家物語に書かれている。  13:50

 ■生田神社~元町
 生田神社の前を左折、●「IKUTA ROAD」に入り、阪急電車やJRの高架をくぐる。この「IKUTA ROAD」こそさっきの西国街道案内板にあった「生田筋」のことで、打出から西へ庶民の通ってきた浜街道と合流する。
・その先を右折して、大丸前交差点に来た。大丸の北門に●三宮神社がある。ここは「神戸事件発生の地」である。神戸港開港当時、この付近で、西宮警備を下命された備前藩士の行列の前を横切った外国人を、藩士が無礼討ちにしたのが発端で、神戸の街が、一時外国人に占拠される「神戸事件」が起こり大きな国際問題となった。結局、藩士の「瀧善三郎正信」を責任者として、切腹させることによりその解決を図り、同人は従容として割腹し事件は解決したという。   14:20

 大丸の建物の先は、●「元町通商店街」に入る。元町の名前は、明治7年、時の県令神出孝平によって名付けられた。
 元町は、西国街道をそのまま取り込んだ元町商店街を中心に、神戸有数の繁華街である。しかし初めて通ってみたが、そんなに有名なブランドがそろっている訳でもなく、いわゆる町の商店街という感じがした。
 途中左手にアーケードの切れ目から●神戸ポートタワーが見えた。世界初のパイプ構造の観光タワーだそうで、高さ108m。    14:35

 ■元町~湊川神社
 元町通5丁目の左手に、●「走水(はしうど)神社」がある。菅原道真が祭神で、学問、五穀豊穣・商売繁盛などの外に、書道の神としても有名だそうで、境内には大きな●銅製の筆塚がある。
 元町通商店街を出ると、「きらら広場」があり、●「兵庫縣里程元標」が立っている。明治6年に相生橋の西詰に建てられたものが湊川神社へ移り、再度現在の場所に再度移設された。
 14:45

  神戸駅を通過する前に、北側にある●湊川神社に立寄った。楠木正成を祀るが、楠木正成は、建武3年(1336)湊川の戦いで討死した。江戸時代、徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立して以来、楠木正成は理想の勤皇家として崇敬されるようになった。そして明治になって、明治天皇建白により創建されたものである。門を入って右側に●楠木正成の墓があり、徳川光圀により「嗚呼忠臣楠子の墓」と刻まれている。ちなみに息子の正行も配祀神として祀られているが、正行は四條畷神社が創建されている。こちらは東高野街道を歩いたときに見ている。  15:02

 ■湊川神社~兵庫町1丁
●神戸駅前を通過した。県庁所在地の駅でありながら、神戸の中心を三宮に取られたせいか、駅前は地味。しかし歴史を感じさせる造りで感じがいい。近代化遺産の指定を受けいるとか。
 駅前を過ぎて●旧道は南西方向に進む。駅に近い割にはひっそりとしたもの。右手におおきな「西国街道」の新しい道標があった。JRの高架をくぐる。    15:22

 右手●みなと八幡神社に立寄った。西国街道の兵庫の町の東入口にあり、番所が設けられていた。境内に●「迷子のしるべ建て石」というのがある。昔、町内の迷子は町内で育てるきまりがあり、こういうものが作られた。正面に「満よひ子のしるべ」、右側面に「志らする方」、左側面に「たつ怒る方」と刻まれている。右の方が先の戦災により破損したため、左に昭和46年に復元したものが建てられている。同じものを甲州街道の初日に呉服橋の近くの、一石橋で見た。15:28

 ■兵庫町1丁目~西出
 みなと八幡神社の前に●「西國街道 兵庫 湊口惣門跡」の石標と案内板がある。西国街道に設けた兵庫出入口の惣門である。西国街道はこの先、今の兵庫本町を進み南仲町で右折し、柳原口にあった柳原惣門を出て、斜めに今の長田交叉点に出て、須磨に向かったと書かれている。
 阪神高速3号線高架をはさんで●七宮神社がある。平清盛が経ケ島築造工事を進めるに当たり暴風雨にはばまれるので調べると、土砂を取っていた塩槌山に住む神が怒って暴風雨を起こすことがわかり、そこの神社を現在の七宮町に移築して祀ったところ無事築造できたという伝説が残る。15:42

 さてこの辺はロシアとの関係で有名な「高田屋嘉兵衛」にまつわる旧跡が点在するので回って見た。
 西出町1丁目に「竹尾稲荷神社」がある。境内に●「高田屋嘉兵衛顕彰碑」(右側のもの)があり、後ろの壁にでかでかと高田屋嘉兵衛の経歴や業績が書いてある。
 道路の向う側、東出町には●高田屋嘉兵本店跡がある。
寛政2年(1790)淡路島から来住した嘉兵衛は当地で船乗りとして頭角を現し、文政5年(1822)で引退するまで本店が置かれたという。   15:57

 ■西出~南仲町
 高速高架脇の西出町に鎮守稲荷神社というのがある。
鳥居脇に大きな案内板があって、●高田屋嘉兵衛献上燈籠が立つ。文政7年、海上安全を祈って西出の鎮守稲荷神社に献上したもの。燈籠の後ろに「高田屋」の銘が刻まれている。 神社右手には、●平経俊(つねとし)塚がある。平経俊は平清盛の弟「経盛」の第二子で、一ノ谷の戦いにおいて、生田の森で源氏軍と対戦し、奮戦するも長田の森から西出の浜に敗走、海を目指したが郎党に討たれたとされる。16:04

 街道に戻り、みなと八幡から南下を始めたが、高速に遮られ結局、七宮神社の交差点の方に迂回してから元の道に戻って来た。兵庫宿に入ってきた訳だが、宿の面影は全くない。
 右手に●岡方惣会所跡というのがあった。江戸時代、兵庫は「岡方」、「南濱」、「北濱」の三所に別れ、大阪町奉行所の管轄であった。それぞれ惣会所を設け名主が行政を行った跡である。
 その先南仲町の四つ角が●「札場の辻跡」という。ここが兵庫の中心地で、高札場があり、ここを右折して柳原惣門を抜け須磨へ向っていた。本陣は右折してから、左手にあったといわれる。   16:20

 3 兵庫宿
  兵庫は平安時代には「大輪田泊」と呼ばれ、貿易拠点として栄えた。清盛の時代には「福原京」が設けらた。また、江戸時代には西宮と大蔵谷(明石市)との間の宿場町としてにぎわいました。神明町には本陣(井筒屋)があり、本陣に南接して脇本陣は明石屋など4軒があった。旅籠はたくさんあった。 兵庫には宿本陣の他に「浜本陣」というものもあった。浜本陣は宿場の本陣とは別に、西国大名と個々に結びつき、諸藩の産物の販売や藩の用達を引き受けていた問屋業者であり、海路移動して来る大名の参勤交代にあたっては、その邸宅を宿泊や休息に提供していた。

(寄道)
■南仲町~大輪田橋

 「札場の辻」を右折しないで、直進し、清盛が築いた「兵庫津」関係の旧跡を見ることにした。
真っ直ぐ進むと●新川運河に出る。ここは明治になって掘られたもの。右手に●「兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地」という標石と案内板が立っている。兵庫城は池田信輝・輝政父子が天正8年(1580)に築いた。江戸時代に入って、尼崎藩領、幕府領になってからは大坂町奉行所に所属して与力や同心の勤番所として明治まで続いた。明治元年5月最初の兵庫県庁ここに置かれ、4ヶ月後の9月に神戸に移転してしまっている。城跡は新川運河の工事により川底に沈んでしまった。    16:27

 ■大輪田橋~北逆瀬川町
 新川沿いに歩いて、左手に大輪田橋がある所で、右折すると、●琵琶塚があり、隣に清盛の銅像が立っている。琵琶塚は以前北西にあった、前方後円墳で、その形から琵琶塚と呼ばれた。琵琶の名手、平経正(平清盛の弟経盛の長男)に結び付けて、琵琶塚つまり経正塚といわれるようになった。明治35年の建立。
 隣の●清盛塚は北条貞時が建立したとされている。「弘安九年(1286)二月」の刻銘のある、高さ8.55mの十三重の塔が立つ。    16:35

 清盛塚の北側にある真光寺に寄った。時宗の開祖、一遍のお墓がある。入口に「遊行元祖一遍上人示寂之地」の碑が建つ。奥にひっそりと●一遍上人御廟があり、扉は閉っていたが、すきまから覗くと、一遍上人の墓と伝わる五輪塔が見える。。「一遍」は日本全国を16年間にわたって行脚し、正応2年(1289)この地で入寂。享年51。
 真光寺の隣の須佐野公園には●「和田の笠松」の旧跡がある、この松は往時、須左の入江に聳え、入港船の目標となっていたり、鎌倉時代初期の歌人藤原為家の歌に(「秋風の吹き来る峯の村雨に さして宿かる和田の笠松」)と歌われた有名な松だった。何度か植え継がれていたが、戦災で焼失した。

 街道に戻る途中、能福寺に行く。入口の塀に「明治維新神戸事件 滝善三郎正信の碑」の案内板が架かり、入って左手に「滝善三郎正信顕彰碑」がある。三宮神社付近で起きた「神戸事件」の責任を一身に背負って切腹した人物である。
 突き当りのど真ん中に●「兵庫大仏」が鎮座している。初代は明治24年、豪商南条莊兵衛によって建立されたといわれており、奈良、鎌倉と共に日本三大仏に数えられたという。しかし、戦時、金属回収供出され、平成3年に再建されたもの。 境内に「平清盛公墓処 八棟寺殿 平相国廟」と書かれた●平清盛公墓処がある。能福寺は福原京遷都にともない、平清盛が能福寺で出家し、平家一門の祈願寺に定められ、八棟寺と称されていた。平清盛が京都で荼毘にふされた時、この寺の住職、円実法眼が清盛の遺骨を持ち帰り寺領内に葬ったと伝えられている。 16:50

 ●能福寺本堂。京都東山の泉涌寺寺域の墓陵(月輪御陵)にあったものを昭和28年に宮内省と九条家より下賜され、移築されたもの。
 その他に、●我が国最初の英文碑といわれる碑がある。
兵庫港に上陸した外国人が多数、珍しい大仏を見学に来るので、住職がペリーの通訳として有名だったジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)に依頼して寺の縁起を作った英文で作った碑である明治25年頃)。   16:55

 ■北逆瀬川町~兵庫駅
 兵庫宿の旧道へ戻って、札場の辻跡から西へ向う。
右手に神明神社、続いて神明稲荷社がある。
・門口町で、高速をくぐり、さらに進むと、右手には●福海寺がある。足利尊氏開基になる寺で、境内に「平清盛遺愛時雨之松」碑がある。 左手には●蛭子神社がある。柳原惣門のあった所で、兵庫宿の西の出入り口にあたる。
 この先、JR線ガードをくぐり、斜め左方向へ向っているが、5時も過ぎたので、ここで終了として、兵庫駅へ向い、新快速にて帰宅した。これで山陽街道の第2日目を終ります。  17:10

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