山陽(中国)街道を歩く 8
        (姫路~相生)
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 白鷺橋南-竜野町-東今宿-夢前台-山田峠-太田-鵤-揖保町-竜野-原-那波野-相生    22.9km 
 

2011年12月11日 姫路駅着 9:00
■備前門跡~龍野町1丁目
 早速前回の終了地点、船場川の所の●備前門跡まで行き、歩きを再開した。街道は橋を渡り、県道を越えて突き当りを右折する。
 ここで、少々の寄道。左折して●本徳寺へ寄ってみた。播磨における、真宗大谷派の拠点となる寺で、「船場御坊さん」と呼ばれている。境内に姫路藩勤皇志士墓や西南の役の碑がある。変ったものでは、第一次世界大戦中、ドイツ軍捕虜の収容所として境内が使用されて、当時の捕虜が作った「望郷塚」というのがある。中世のお城のような形をしたもの。9:23

  ■龍野町1丁目~車崎東
 
街道に戻って、北上、国道2号を越える。団地の間をすり抜けて、さらに北へ行くと、右手に「西国街道」の看板が見えた。この道が旧道で、龍野町1丁目。ここを左折して●龍野町に入った。市政前の揖保郡龍野町に通じるのでこの町名が付いた。江戸時代には代表的な商店街として栄え、江戸時代の古い町並みが残る貴重な町並である。 左手の●初井家は姫路を代表する歌人・初井しづ枝の過ごした家。連子格子に白壁の江戸時代の建物で、市指定景観重要建築物。  9:40

 西に向って進み、中頃を右折して行った●「農人町」の界隈は福居町と同じように町並が「のこぎり」のようになっている。町名の由来の看板には「農民がここに住わされ、昔の町割りのままのこされたので・・・」とあったが、ここも防衛上の理由とかのことであろうか。 北側に●景福寺がある。姫路藩主酒井家の菩提寺で、山門の仁王像は鎌倉時代の作。右手の幼稚園の隣に藩主3代の室の墓石が並んでいた。  9:50

 ■車崎東~東今宿
 
街道へ戻って、西へ真っ直ぐ進むと、空地にぶつかり、ここは姫路赤十字病院があった所らしい。左折を繰返して進むと、途中、右手に「表忠碑道」と書かれた大きな石碑がある。
 その先●「車崎東」交差点に至ると、「名古山隧道」のトンネルが口を開いている。水尾川に架かる車崎橋を渡る。
 その先●十字路の道は植樹とカラー舗装がされていて、「手づくり郷土(ふるさと)賞」というプレートが貼ってある。

 ■東今宿~下手野
 
神子岡前の集落に入り、右手、児童センター当りに祠の中に入った延宝九年(1681)の題目石がある。
 ●東今宿の集落に入って、しばらく行くと、右手市民センターグランド隣の高岡分団の前に高岡村道路元標と御大典記念碑がある。
 その先、右手に式内高岳神社への石碑が立っていて、すぐ先左手には●双体地蔵尊がある。双体の地蔵というのはあまり見たことがない。  10:30

 ■下手野~夢前台
 
今宿西の信号で国道2号に合流した。旧道は消えてしまい、しばらく国道を行き、JR姫新線を高架で越える。
 道は、その先国道2号から右斜め方向へ進んでいる。あたりは道路工事中で柵の中を通った。
 ●下手野の集落に入って来た。ここも四角の虫籠窓を備えた、古い家が何軒か残っている。
 さらに進むと●夢前(ゆめさき)川にぶつかった。このあたりが渡し場であったという。現在の夢前橋を渡ります。10:54

 ■夢前台~青山
 
橋を渡ってすぐ右折して、●旧道の位置まで戻った。角に●安政二年(1855)の大きな道標が建つ。備前、金毘羅、九州、宮嶋、姫路、大坂、京、江戸、因州、伯秋など各方面への里程を刻む。「圓光大師二十五番霊場 美作國・誕生寺道」と刻むので特に法然の巡礼を意識した道標と考えられる。 すぐ左手に●見事な旧家が3軒並ぶ。

 青山~山田峠
 
右手に鳥居と常夜燈が立って、奥に●稲岡神社がある。二重に破風が乗った重厚な社殿で、五穀豊穣の神として、ご祭神は豊受姫大神。それよりも奉納されているお陰参り図絵馬は、文政13年(1830)に全国に流行したお陰参りの情景と雰囲気をよくあらわしている。 国道2号に入ってしばらく国道を進むこととなる。大きく円弧を描いて南西に向っている。左手の●白いビルの所で左斜めに入って行くのが旧道らしい。直角に左折する所が揖保郡太子町との境界線。    11:40

 ■山田峠~太田
 
国道沿いにゆるく上り坂を上がって、ほぼ直角に左に曲がると、左手の金網に史跡旧山陽道、山田峠登り口の看板が架かっていた。右手に順海寺への参道があり、「播磨四国第十二番霊場」碑と順海寺石標がある。
 ●山田峠。登り口という割りには、登りが無く、すぐ下り道になってしまった。ここが山田峠とすると、さっき上がってきた上り坂が峠への登り坂ということになるので、看板が架かる位置が変ではないかと思う。下り坂は車も通らない風情ある道で、気持が良い。 眼の前に●北山が広がる。    11:55

 姫路バイパスの高架下をくぐり、「山田」の信号で国道2号と合流するが、手前右手の角に●「南無妙法蓮華経」と刻む題目碑がある。 道は北山の山裾を縫うように、円弧を描いて曲がって行く。「しばらく国道を歩く。「原西」の信号で、右斜め前方に入る。ここにも左手に題目石が建っていた。緩やかに上って、下ると左の竹林の中に●「桜井の清水」という井戸跡がある。戦国時代に播磨を治めた、赤松義村が選んだという、「播磨十水の一」の一つ。  12:22

 ■太田~鵤
 
太田集落に入ると、右に黒岡神社参道入口の鳥居がある。社殿は300m以上もあり、行くかどうか迷うところだが、行って見た。境内右手に●黒岡神社古墳があり、古墳の主は「藤原貞國」と伝えられる。8世紀、新羅の軍船二万艘あまりが播磨灘、家島に陣取った時、敵を蹴散らしたという人物。
 街道に戻って少し行くと、右手に●太田の地蔵様と呼ばれる、地蔵堂がある。行基作と伝える子授け延命地蔵尊が祀られている。  12:40

 この付近から今まで西北方向に進んでいた道がほとんど西に向かって進むようになる。
 右手太田小学校の先で、国道179号と合流する。その後900m程国道を進み、●東保交差点の先で、左斜め前方に入り、●太子町の旧鵤(いかるが)宿に入って行く。鵤は聖徳太子が創建したという斑鳩寺の門前町として発展した町で、古い景観が残り、たつの市との合併にも参加しなかった。旧街道の情緒が残っている。  13:10

 しばらく行くと、右手に●「聖徳皇太子」と刻む寛政6年(1794)と天保13年(1842)の常夜燈があり、斑鳩寺への参道が続いている。反対側の左手には大師堂・地蔵堂がある。
 参道を歩いて行くと、●斑鳩寺仁王門に着いた。
 推古天皇14年(606)、聖徳太子が推古天皇勝鬘経を講じた功績により、播磨国揖保郡の土地360町歩を賜り、大和国斑鳩宮から足を運び、当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名、伽藍を建立した、とされ、これを斑鳩寺の始まりと伝える 13:25

 ■斑鳩寺
 寺は法隆寺の末寺的存在であったが、現在は天文10年(1542)尼子氏侵入により焼失、再建後は天台宗に属する。
 右手の●三重塔は永禄8(1565)、赤松左兵衛尉政秀の志願で再建された塔で、国の重要文化財に指定されている
 ●左手の聖徳殿前殿(旧太子殿)は、寛文5年(1665)の再建で、元聖徳太子立像を祀っていた。明治から大正にかけて、後殿を増築して、太子立像を祀っている。  13:32

 8 鵤 宿
 鵤は斑鳩寺の門前町として発展した町で、茶屋が沢山並び賑わっていたという。幕府の公文書においても正式な、山陽街道の宿として指定されていたが、かなり特殊な形を取っており、本陣が1軒あったのみで、荷物の継ぎ立てを行っていなかった。本陣も斑鳩寺の山門のすぐ東にあったとされ、街道から遠く、宿の性格を物語るとされる。(旧揖保町史)  

■鵤~誉鳩橋
 寺から街道に戻って先に進んだ。相変らずほぼ真っ直ぐな道となっている。右手に「東芝」の工場とグランドが広がっている。
 しばらく行くと、右手に●従是北八丁廣山村鎮座」、「式内阿宗神社」と二面に刻まれた標石が立っている。
 小川を渡った交差点右に●「茶屋垣内地蔵尊」と呼ばれる、地蔵堂があり、堂内に高さが1m近い石造の地蔵尊像が安置されている。  13:58

  ■誉鳩橋~揖保町門前
 林田川を●誉鳩橋で渡ります。旧道は橋の下流で、渡船で渡り、文久3年(1863)には橋が架かっていたとされる。
 川がたつの市との境界線になっており、ここからたつの市(旧揖保川町)へ入ります。
 渡ってから堤防を下り、揖保町門前の集落へ入って行く。
 川まで真っ直ぐに来た道が、西南方向へ段々と下がって行く形になっている。揖保町は「揖保の糸」という「そうめん」で有名な所。右手に●手延そうめんの工場があった。14:28

■揖保町門前~揖保川大橋
  やがて●山陽本線の踏切の所にぶつかり、前方は「昭和高分子」工場敷地となって、山陽道は、ここで途切れてしまった。その先は、工場を直進して揖保川につながっていることが、地図上でも確認できる。正條の渡しがあった所である。
 ここは、北上して、国道2号へ迂回して、●揖保川大橋を渡るしかない。橋を渡ったら堤防上を左折して行く。  14:45

■揖保川大橋~龍野駅
 堤防を左折して200mも行くと、右手大木の下に「正條の渡し跡」の案内標柱がある。ここが●正條の渡し跡にあたる。
 渡しは渡船により、数隻の高瀬舟が配置されていたという。 また堤防上では南方面に向う、「室津街道」が分岐している ここの堤防を下る細い道を行って、左折し、揖保川郵便局前に出て右折すると「正條宿」へ入る。逆に郵便局から左折して行くと、右奥に●浄栄寺がある。ここの門は、元龍野城の大手門だったもので、瓦の紋が城主「脇坂家」の家紋。見張の居た二階に部屋があるなどの特徴がある。  15:00

 郵便局に戻って、西へ向かって行くと、すぐ先右手に●本陣跡井口家があり、「明治天皇御駐輦趾」「明治天皇正條行在所」と刻まれた石標が2基建つ。
 ●旧正條宿は西国大名が参勤交代の始めを瀬戸内海を航路で来て、南方の室津に上陸して、陸路を取ると、初めての宿場にあたり、賑わいを見せたようである。が、近すぎて、泊らず休憩が多く、「極めて悪く、泊にならず」とも評されている。現在静かな町並であり、本陣跡の外は特に面影は感じられない。

 ■龍野駅~原
 この先、県道441号をを横切って、少し先、右手●龍野駅に至る。たつの市は旧龍野市であり、龍野城と脇坂藩5万3千石の城下町であった。江戸時代に海の宿駅として栄えた室津港などの歴史的旧蹟も沢山ある。しかし旧蹟の多くは北方の、姫新線「本竜野駅」の方に存在し、山陽街道の方にはあまりないので、醤油工場とか見物するには「本竜野駅」の方に行かないといけない。
 駅を過ぎて、揖保川スポーツセンタ-付近から●原集落に入る。昔の片島宿である。隣の正條宿から18丁、約2km位しか離れていない場所にある。  15:48

  9 正條宿 ・ 10 片島宿
 正條宿、片島宿とも参勤交代で航路を取った大名が、室津で上陸し陸路「大坂」へ向った際、最近の宿場であったが、休憩が多く、あまり繁栄しなかったとされる。片島宿は秀吉の島津氏に対する遠征の宿場として作られたとされ、正條宿は参勤交代制ができた寛永年間に成立した。宿としては2宿が1つのの宿としての機能を果す相合宿であり、正條宿は隣の有年宿まで、片島宿は姫路宿までの継ぎ立てを担当した。 

 ■原~相生市・那波野
 片島宿の面影はほとんどないが、馬路川直前の左手に●「旧片島本陣趾」と書かれた山本家があり、唯一片島宿の面影を残す。
 その先荒神橋で馬路川を渡る。川の手前、右手奥に小さな神社があったが、ここにきれいな「義経 鵯越図絵馬」が奉納してあった。 荒神橋の先には、●茅葺をトタンで覆った旧家がある。
 やがて右手に西池が現れ、相生市の境界となった。15:56

 ■那波野~相生駅
 
新幹線の高架下をくぐり、すぐ先左手高台には●荒神社がある。「子安荒神」とも呼ばれ、社殿には「若宮神社」と書かれている。
 岩谷川を渡ってすぐ左手に茅葺をトタン板で覆った古い家が2軒続く。那波野郵便局前を通り、大きな道路を横断して進むと、「古池大谷川」を渡った。 とにかく、暗くなってきており、住宅地で特徴もなく、旧道はこの辺り、蛇行して進んでいて、間違わないように、GPSを眺めながら進んで行く。●相野産業前で分かれて右手に入って行き、普光沢川(ふこさがわ)を渡るともうすぐ先に相生駅がある。

 ■相生駅
 やっと相生駅に到着した。不休で歩き、エネルギーが残っていないので、ここで本日の打止めにしたい。駅前にはホテルが3軒あるだけで、寂れている感じがしたが、市役所や中央通り商店街は南方の港の方にあるみたいだ。
 各駅停車で姫路駅に出て、新快速で京都へ帰った。相生駅では下りの各駅停車が「広島」行きで、ちょっと遠くまで来たもんだと思った。相生まで新快速が通じていて、日帰りが可能かと思うけど、これから先、日帰りが難しくなってきたので、今後は泊りの歩きを始めようと思います。
 16:45
   本日寄道混みで26キロ程になった。

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