朝鮮人街道を歩く 1
            (野洲~安土まで
  歩行地図はこちら  地  図
 行畑-久野部-富波乙-永原-日野川-江頭-加茂-小船木-八幡町-西庄-安土駅                         16.9km(全41.8km)

 朝鮮人街道

 朝鮮人街道とは、滋賀県野洲市行畑で中山道から分岐し、琵琶湖東岸を北上し、彦根市鳥居本で再び中山道に合流する約41kmの街道です。元々琵琶湖舟運の港を繋ぐ、陸路として便利だった道を、信長が幹線道路として整備し、その後、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた家康が凱旋した時に通ったという、めでたい道として、将軍上洛や外交使節の通行の際にのみ使われた。 鎖国時代、唯一の外交関係があった、朝鮮からの外交使節が通ったので、この朝鮮人街道の名前がついた。
          
       朝鮮通信使について
   この場合、通信とは情報を交換するという意味ではなく、「信(よしみ)を通ずる」の意味で、親善友好使節団のことである。使節団の一行は正使、副使のほか、軍人、書記、医者、学者、画家、書家、薬師、曲芸師などで編成され、約400人に及んだ。太鼓などを打ち鳴らし、楽器を演奏しながら、曲芸を見せながら華やかに賑やかに、進んだといわれる


  参考書                           
   「歴史の道調査報告書 朝鮮人街道」(滋賀県教育委員会) 
 1 野洲~安土  2 安土~鳥居本 


■野洲市行畑~中山道との分岐     2012年1月15日
  野洲駅到着後、直ちに出発点である、野洲市行畑1丁目へ向った。●行畑1丁目付近は朝鮮人街道と中山道の分岐点ではなく、300m程手前であり、中山道に入るわけだが、調査報告書がここから始っているので、この地点から歩き始めることにした。蓮照寺には分岐点にあった道標が移されている。
 左手に蓮照寺、右手に唯心寺がある。170m先の交差点の右手角に●背くらべ地蔵というのが立っている。この名前は、親たちが自分の子どもと自走の背丈を比べて、子どもの方が高くなれば無事に育つ年齢に達したと安心したところから、付いたといわれている。
 裏手には●行事神社がある。鳥居の向うに、珍しい注連縄が下がっていた。「勧請縄」といい、村に悪霊や疫病神などが入ってこないように、縄を張り境を守るしめなわの事をいうようだ。    9:30

 ■中山道との分岐~久野部
 街道は「野洲小学校」の所で●中山道と分岐する。右側が中山道。分岐点にあった、●道標は先ほどの蓮照寺に移されている。道標は享和4年のもので、「中山道」 「八まんみち」とあり、八まんみちは朝鮮人街道のこと。またここには「従是北淀藩領」の境界石も移されている。
 当然に左の道を進むと、右側に「野洲小学校」があり、駅前の● 祇王井川が流れる道を進むと、野洲駅前交差点の手前右側に●「真宗木辺派本山錦織寺一り 」と彫られた道標が建っている。錦織寺は浄土真宗の一派で、派としては小さいが、開祖親鸞が逗留し、阿弥陀如来を祀ったとされ、実際に親鸞に縁のある寺院としての歴史がある。   9:45

 ■久野部~富波乙 
  先に進んで行き、県道155号のガードをくぐると、その先はJR東海道線の線路によって、遮断されてしまう。通行不可能なので、道を戻って、県道の久野部跨線橋に上り、歩いていくと久野部交差点に出た。正面に●円光寺がある。円光寺は天台宗山門派の長福寺と真盛派の円光寺が合体したもので、現在は真盛宗に属する。 本堂は寺院としては珍しく、切妻造の建物であり、重要文化財に指定されている。鎌倉時代の康元2年(1257)の建立。手前に建つ九重の塔も同時代のもので重文。
  ●鐘楼が建つ高台は5世紀末に築造された久野部古墳という。
 本堂の右隣に建つ●大行事神社本殿も国の重要文化財に指定されている。 「大行事神社は円光寺の鎮守社として始まったと伝えられ、祭神は高皇産霊神を祀る。  現在の本殿は室町中期の再建で、一間社流造、屋根は檜皮葺」と案内板にあった。   10:10

 ■富波乙~富波甲
 県道2号線を北上して、適当な所を右折して、線路方向へ向い、旧道が線路を越えて来る所へ出た。右手に祇王井川が流れ、左手には一戸達の住宅が続き、中ノ池川を渡ると●冨波乙集落になる。富波乙から永原まで直線的な道に、家並が整然と並んでおり、信長が街道を整備した際に計画的に作られた家並と考えられているとか。
 すぐ左側に●生和(いくわ)神社がある。 鳥居の社額には正一位生和大明神とあった。平安時代中期に冨波一の沢の大蛇を退治し、住民の窮地を救ったといわれている、生和兵庫介藤原忠重を徳として祭っている。 檜皮葺本殿は重要文化財に指定されている。
  この集落は歴史が古いせいか、趣のある家が多く、●屋根に煙り出しを備えた家、白壁にベンガラの赤く塗られた塀のある家などがあちこち見られた。   10:35

 ■富波甲~永原
  少々の寄道
 街道は富波乙と、甲で直角に二度折れ、北東に向っている。 富波甲も同じような風景が続いている。祗王幼稚園を過ぎた当りで左折して、少しの寄道を行う。
 左折して県道2号を越えて行くと、菅原神社への標識と「平家祗王の里めぐりコース」という看板が立っていたので、看板に従って行って見た。まず菅原神社がある。菅原神社の●神門は室町後期の築造と推定され、茅葺の屋根で、重要文化財に指定されている。境内に白鳳時代の瓦を出土する「永原廃寺跡が存在する。
 神社の隣は竹林で訳がわからなくなっているが、●徳川家康の永原御殿があった場所である。将軍の上洛時に使用された。ただ旧蹟の石碑が立つだけだった。
  案内板に従って、歩いて行くと●祇王寺にたどり着いた。祗王姉妹の菩提を弔うために村人が建てたという小さな寺で、門には今年のNHKの大河ドラマ「清盛」のポスターが貼ってある。 以前は無住の寺だったらしいが、ドラマの影響で人出を見込んだらしく、まわりの道路に駐車場の案内があちこち出ていた。大型バス用の駐車場までできている。   11:30

■永原~仁保橋
 祗王寺から表示に従い行くと、県道脇に●祗王屋敷跡がある。祗王が生れた場所であるとされる。母と妹の祇女と共に京に出て白拍子となり、平清盛の寵愛を受けたが、仏御前に平清盛の寵愛を奪われたので、 嵯峨野に三人で仏門に入ったが、その後仏御も入り、四人で清盛の霊も祀ったのが京都の祗王寺である。この地域を流れる「祗王井川」は祗王が清盛に頼んで開いた水路で、付近一帯米所になったので、祗王の恩に報いる為に、地域の人が建てたのがここの祗王寺である。
  さて、寄道も済んだので、県道32号を下り、「北」交差点先で旧道と合流して、先に進む。●家棟川に向う道は両側、桜並木になっていて、春はさぞやきれいであろうかと思う。
 「高木」の交差点で、右折して600m程行くと、春日神社があり、ここの●神門は永正8年(1511)に造られた、2脚の簡単な造りであるが、茅葺の端正な形で、重要文化財である。野洲には菅原神社など、中世の文化財級のの神門が5例も残っていて、他に例を見ないそうだ。      12:15

 ■仁保橋~江頭
 「高木」から先、弧をを描きながら北西へ進み、日野川に架かる●仁保橋を渡ります。日野川は天井川で、ほとんど水が少ししか流れておらず、何かの工事中。欄干に朝鮮通信使行列絵図が架けてあった。朝鮮街道の説明板もあった。
  ・・・ 昔の橋は今より下流にあり、 朝鮮通信使は慶長12年(1607)から明和元年(1764)までの間、10回にわたり江戸城まで往還しました。 当時の仁保橋は板橋の上を渡り、対岸の堤防を登る簡単な橋だったようですが、 朝鮮通信使等が通行する時は、川元町(江頭村、十王村)と仁保川橋掛組合と呼ばれる小南村を始めとする11ヶ村が協力して土橋に架け替わって楽に通行ができるようにしていました。」・・・・とある。
 橋を渡ってすぐ左折して、土手を下りて行き、「十王町」に入る。右手に●正林寺がある。真宗本願寺派の寺で、守川山と号し、宝暦13年(1763)の通信使来朝の際の仁保川の仮土橋設置に携わったとされる。
 街道は十王町から安土までルートが良好に残っており、この先の江頭町や田中江町など、両脇には昔ながらの町並が残っており、旧道らしい風情が残っていたりする。このあたりの街道には●愛宕大神の碑があちこち見られた。   12:55

 ■江頭~子船木町 
 江頭は近隣の中核的集落であり、江戸時代を通じて野洲晒や近郷の年貢米の積出し港として賑わったという。街道から300m程左に入った所にある、江頭町公民館は明治の始めに造られた●至誠学校の建物を利用していたらしい。現在はの隣に建っている。公民館の前に「左 長命寺舩道」と彫られた道標がある。長命寺は北方にある西国33ヵ所の31番札所にあたり、船で行ったのだろうが、琵琶湖埋立てで、船が通っていたとは、中々想像ができない感じがします。
 公民館から少し北東側に、●称念寺がある。近年まで周囲に壕があったとされて、門前両側にそんな感じの小さい堀が残っていた。かってこの付近に田中江港があったとされる。
 また街道へ戻ってきて、田中江町へ入る。左手奥に見える、こんもりとした山は●岡山といい、琵琶湖に浮ぶ島であった。周囲が干拓されて、陸と繋がってしまったわけだ。    13:25

 ■子船木町~近江八幡市西元町 
 加茂の集落を過ぎると、水田が広がっており、左手に八幡城のあった、●八幡山や、前方には観音寺山などがよく見通せつことができる。 「加茂東」バス停の先で、県道2号線と合流した。県道をしばらく進み、白鳥川に架かる小船木橋を渡ると、●小船木橋交差点に着く。ここで街道は二つに分れ、朝鮮人街道は左折して、八幡城下へ向っている。真っ直ぐ行く道は「下街道」といって、八幡城下造営以前のルートという。
 信号を左折してすぐ右折する角に「小船木町 朝鮮人街道」の看板が架かっている。古い家の残る、小船木の町を北東方向へ700m程行き、●突き当りを右折して行く。突き当りの正面に、「左 京みち」 「右 長命寺」の道標が立っている。京みちとは朝鮮人街道の近江八幡あたりの別称である。ここを左に行くと願成就寺の石段がある。   14:10

 ■西元町~新町
 ●願成就寺 
 推古天皇27年、聖徳太子が勅を賜り、近江に48ヶ寺を建立、最後にこの寺を建てたとされ、願いが成就したことにより寺名になったとされる。 本尊は十一面観音立像(重文)で聖徳太子の作と伝えられ、かやの一木造である。当初は日牟礼山(八幡山)西南に設けられたが、天正年間秀次の築城により鷹飼に移され、その後、日牟礼山(八幡山)=通称観音山に移され、現在に至っている。 
 さて、街道に戻って北東に進むが、この先は●旧八幡町で、豊臣秀次が八幡城を築いた際、安土城下町を移転させて造った城下町である。城は秀次の失脚により失われたが、町の方は八幡商人の活躍により発展していった。明治以後鉄道が通らなかったり、近代化に乗遅れたりで衰退していくわけだが、幸いに古い町並が残って、保存されている。
 右手に●本願寺八幡別院がある。家康が上洛して際に宿泊したとされる寺で、朝鮮通信使の一行の昼食所として使用された。残念ながら門が閉ざされて入れなかった。   14:30

  一つ先の所を右折して行く、池田町5丁目あたりには、ヴォーリズ建築群と呼ばれる洋風住宅街がある。古いレンガ塀が特に目立ち、写真のはコロニアル調の●旧ウォーターハウス記念館といい、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが元早稲田大学の教師ウォーターハウス氏のため、大正2年に建てた住宅で、近江兄弟社の所有になっている。
 街道に戻って、右手角にある和風の大きな建物は●中村四郎兵衛邸で、扇屋(伴家)に奉公していた四郎兵衛が屋号の一字を譲り受け「扇四呉服店」と称して現在の地に享保5年(1720)に開店。現在も呉服店で、9代目という。
 「木幡」交叉点を渡った先は「新町通り」で、右手建物は●旧伴庄右衛門家本家の建物で、市立資料館になっている。
 伴庄右衛門は寛永年間に、江戸日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商った。この建物は、7代目の伴庄右衛門が文政10年(1827)から10数年をかけて建築したもので、小学校、役場、図書館などを経て、市立資料館の一部として公開されている。

 ■新町~日牟禮八幡
    又少々の寄道
 朝鮮人街道と別れ、資料館の所を左折して八幡堀の方へ向かう。左折した新町通りは「西川家住宅」などが良好な状態で保存され、近江八幡伝統的建造物分保存地区に指定されている。
 右手に●森五郎兵衛邸があり、初代五郎兵衛は、伴傳兵衛家に勤め、別家を許されて煙草や麻布を商いました。やがて、呉服・太物など取り扱い商品を増やして、江戸日本橋や大阪本町にも出店するなど活躍をしました。現在も東京日本橋室町に「近三商事株式会社」として活躍中ですという。
 新町通りの先には●八幡堀がある。八幡城を守るために造られた掘割だが、秀次は堀を運河として利用し、琵琶湖を往来する船をすべて、八幡町へ寄港させ、町の発展に大い寄与した。
 堀の先に八幡城跡へ行くための、ロープウエイがあって、今回は行かなかったが、以前大学のフィールドワークで行く機会があったので、●頂上で撮った写真を載せておきたい。かなり干拓で昔と様相が違っている。前方に見える山は安土城のあった、安土山。     15:00

 ■日牟禮八幡~永原町
 白雲橋を渡ると●日牟礼八幡宮がある。日牟礼八幡は131年、第13代成務天皇が高穴穂の宮に即位の折に、武内宿禰に命じ、現在のこの地に大嶋大神(地主神)を祀られたのが、社の鎮座の始めとされる。家康が関ケ原決戦の後武運長久の祈願の為当社に参詣したり、家光から御朱印の下されたり、徳川氏の崇敬があった。
 白雲橋へ戻って来て、正面にあるのが●白雲館。明治10年に八幡東学校として建築された白雲館は、当時のお金6千円で設立されたもので、貴重な擬洋風建造物。擬洋風建築とは、明治時代初期に西洋の建築を日本の職人が見よう見まねで建てたもので、和風建築の軸組に石板を張ったりして、洋風に見せたもの。
 少し東へ行った、「近江兄弟社学園」の前に●ヴォーリズ記念館がある。伝道や建築、医療、教育、社会事業と幅広い分野で活躍した、近江八幡市の名誉市民第1号「ウイリアム・メレル・ヴォーリズ」の生前に生活していた住宅。また彼はメンソレータムでおなじみの近江兄弟社の創立者でもある。   15:15

 ■永原町~音羽町 
 記念館から旧道へ戻ろうとして、間違えて1本東側の●永原町を南下してしまった。が、ここも商人屋敷街で伝統的建造物分保存地区なのであった。
  道の中程に●扇屋醤油店がある。店舗に架かっていた看板がいかにも由緒ありそうな古いものだった。突き当った右角に 「旧朝鮮人街道 左 永原町通り」の道標が建っていた。左側の方から逆に来た訳だ。
 道標の所で旧道に合流して、左折して行く。左手にあるのが、昭和5年に建築された京風数寄屋造りの町屋●近江商人、野間清六の分家の建物。現在は「アートギャラリーNO-MA」tpして使われている。清六は「角大」近江屋久右衛門と称して、茨城県結城で醸造業を営んで財をなし、結城御三家といわれた。家業は明治33年に終っている。   15:22

 ■音羽町~安土町常楽寺
 街道を進み、鍵之手町を右折して縄之手町を南下して行く。音羽町で県道2号とぶつかるが、左手角に●道標と常夜燈、地蔵堂がある道標は長命寺までの距離と観音寺までの距離を示している。常夜燈は万人講によるもの
 街道は田んぼの中を曲りくねりながら、西庄町へ向う。
 途中の三叉路に、「左朝鮮人街道 右八風街道いせ八日市ひの」と書かれた●木の道標が建っていた。八風街道は近江八幡のここが起点で、中山道の武佐、八日市から永源寺を経て桑名へ出る街道で、大体国道421号が沿っている。
 西庄町の中を右に左にと曲って行って、比較的広い道へ出て行くと、右手奥にこんもりした森が見え、その中に●饒石神社があった。承久の乱以後近江国守護になった佐々木氏の奉納した鞍や鐙などが伝えられている。  16:00

 ■常楽寺~安土駅
 街道は蛇砂川を渡り、突き当って右折して、線路手前の県道を左折する。後鉄道に沿って真っ直ぐ進む。山本川を渡ると線路の向うに「浄厳院」があるのであるが、遅くなってきたので参拝することはやめにした。浄厳院は信長が建立した寺といわれる。●常楽寺の町並も落着いたたたづまいを見せている。常楽寺はかっての安土の中心地だったというので、左折して「常浜水辺公園」の方へ行ってみた。
 途中●梅の川という小さな湧水に出会った。織田信長の家臣、武井夕庵が難波より求めてきた珍茶を、ここの水で入れたところ、信長が非常に喜び。その後の茶の湯には常に使用したと伝えられる。
 常楽寺会館の所まで来ると、かっての●常浜港舟入跡が見える。常浜は15世紀に栄えた港で1930年頃まで船の行き来があったという。   16:35

 街道に戻ってきて、暗くなってきたので、ここで帰ろうかと思い、安土駅前に来ると、●織田信長の銅像が立っている。信長が築いた安土の町は、安土城が築かれて、楽市楽座令が敷かれて商業都市として繁栄したが、本能寺の変により、繁栄の終りを迎えた。
 ●安土駅から各駅停車で帰宅した。各駅停車は1時間に2本しかないので、観光地としてはいささか不便である。16:45

     2 安土駅~鳥居本