中原街道歩き旅    1桜田門から五反田駅まで 歩行地図
 桜田門-虎ノ門→赤羽橋-三田-高輪-二本榎-五反田 7.5 km
 

 中原街道

 東海道の平塚宿の北に中原という所がある。そこに御殿や代官陣屋があり、その中原を起点とし、寒川、瀬谷、小杉、丸子で多摩川を渡り、虎ノ門に至る道を中原街道と呼んだ。
  家康が関東に入国する際用いられ、東海道が整備されるまでは重要な街道であった。元々かなり古くからある道で小田原北条氏の時代に本格的に整備をし、道を切り開いて作られた為たため、比較的直線区間が多い。
 やがて幹線道としての役割は東海道に譲るが、脇往還として沿道の農産物等の運搬や旅人の最速ルートとして利用された。中原で作られた「御酢」を運んだので「御酢街道」とかの別名もある。
 
 1 桜田門~  2 五反田駅~  2-2 丸子橋~  3 仲町台駅~  4 桜ヶ丘駅~ 

 1  2008年 9月21日 (桜田門から五反田駅  7.5km 
 2  2008年10月 5日 (五反田から仲町台駅 18.1km )
 3  2008年10月13日 (仲町台から桜ヶ丘駅  15.2km )
 4  2008年
10月26日 (桜ヶ丘から寒川駅    12.2km )
 5  2008年11月 3日 (寒川駅から平塚駅    8.9km 計61.9km )

 2008年9月21日、曇天 8時50分地下鉄霞ヶ関駅から桜田門へ到着した。 中原街道は虎ノ門が終点(起点)らしいが、ま、江戸城に入城するわけだし、ここ桜田門から始めたいと思う。
■桜田門~飯倉交差点
●桜田門
は言うまでもなく、「安政の大獄」が起きた場所で知られ、また枡形を持つ門としても知られて、国の重要文化財に指定されている。門を出ると左側にきれいなレンガ造りの洋館が建っている。●「旧法務省本館」である。明治28年に完成した。東京大空襲で焼失し、昭和25年の改修をへて、平成6年復元されている。現在も図書館として使われている。 9:00

●虎ノ門
 地下鉄虎ノ門駅8番出入口に虎の像が立っている。ここが中原街道の起点でしょうか。江戸城にあった門の名前であって、門が撤去された後もこの付近の地名として残った。
●金比羅宮
 街道右手、都会の神社らしく、ビルの中鎮座している。丸亀藩主京極家の屋敷があった場所で、万治3年(1660)、四国讃岐の金刀比羅宮を三田の藩邸内勧請したのが始まり。銅鳥居は、文政4年(1821)の作で、左の円柱に青竜と玄武、右の円柱に朱雀、白虎の四神獣が取り付けられているのが珍しい。9:20

 その先左手のコンビニの入り口脇に「乃木邸跡の碑」がある。虎ノ門三丁目で左手に少し入り、愛宕神社に立ち寄る。愛宕トンネル脇から階段を上がっていくと、奥に「NHK放送博物館が建ち、フォレストタワーが建つ。標高26mの愛宕山の山頂に●社殿はある。昔は見晴らしがよかったので有名だった。正面の●男坂は、石段数86段、40度の急勾配で、上から見下す方が見上げるより相当怖い。この石段を江戸時代の「曲垣平九郎」が騎馬で駆け上がって山上の梅の枝を折って駆け下りたというからすごい。街道に戻るときはトンネルを潜って行った。 9:40

 ■飯倉交差点~赤羽橋
 神谷町をすぎ、●飯倉交差点にやってきた。対面の黒くて丸い建築物が目につく。NOA(Aの横の線がない文字)という建物は、建築家白井晟一氏の設計だそうで、有名な会社のビルかと思ったら、普通のテナントビルだそうです。左手に「東京タワー」が見える。飯倉の交差点を渡って●土器坂(かわらけざか)を下る。 (土器坂・・坂下に土器職人が住んでいたため という)。右手に鰻で有名な「野田岩」があった。こんな所にあったとは知らなかった。思ったより相当大きな店です。 10:00

 ●赤羽接遇所跡が、赤羽橋の手前の路地を右に入っていった飯倉公園にある。安政6年、外国人のための宿舎兼応接所として設けられた。プロシアの使節、オイレンブルグやシーボルト父子も滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。
●赤羽橋交差点に出る。上の高速は中央環状線。古川に架かる赤羽橋がある。赤羽橋の袂には常夜灯の乗る記念碑立っている。説明がないのでわからないが、旧橋の親柱と思います。
10:15

 ■赤羽橋~伊皿子交差点
 赤羽橋を渡り、右手は三田国際ビル。相変わらずの国道1号が続く。桜田通と呼ぶ。しばらく行くと右手に、慶応義塾大学の●東門。 白と赤のレンガの対比が美しい。ここからは、大学がちらっとしか見えないが、この先を右折すると三田キャンパスが広がっている。三田2丁目信号の、一つ先の信号を右斜めに入って、聖坂という、昔から使われていた道を行く。
10:35

●聖坂
 聖坂の由来は、古代中世の通行路で商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所であったためという。竹芝の坂と呼んだという説もあるそうだ。
 坂の途中、右手に小さな●亀塚稲荷神社がある。階段上部の右側に港区最古の「弥陀種子板碑」がある。弥陀を表す記号(種子)を上部に刻み、頂部を山状に切り出した、秩父型の板碑3基がある。

説明板

 左手の済海寺は幕末、フランス公使宿舎が置かれた寺で「石標と案内板」がある。隣は「亀塚公園」。中には●亀塚が保存されている。(古墳ではないかといわれている)。説明板によると・・・・西側の道路(中原街道のこと)は古奥州街道にあたり江戸開府前の主要道路であった。この地は更級日記に紹介された竹芝皇女の物語の遺跡といわれ、亀塚の伝説が残されている。明治維新後は華頂宮邸があった・・・。その先右手は幽霊坂。両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしい。
 その先三田台公園に●伊皿子貝塚と竪穴住居の復元模型がある。  10:55

伊皿子交差点~高輪台交差点
 ●伊皿子交差点にやって来た。ここまで尾根道で両側は坂道になっている。右手から魚藍坂、左手は伊皿子坂という。交差点左角に「歯科医学教育発祥の地の碑」がある。・・高山紀齋は明治23年、ここに、わが国最初の歯科医学校、高山医学院を設立した。その後東京歯科大学へと発展している・・。右手魚藍坂を下りていくと、●魚藍寺がある。本尊が「魚籃観世音菩薩」で(頭髪を唐様の髷に結った乙女の姿をしており、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹かごに入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事による)  11:05

 次の目標の赤穂義士が切腹した場所を探す。都営高輪アパートの入口に石碑が立っており、その奥にある。●「大石良雄外16人忠烈の跡」という。ここに細川藩下屋敷が建っていて、討ち入り後ここへ預けられた。切腹した場所には石碑らしきものが残っている。義士の墓はいうまでもなく、泉岳寺にある。 案内板を読む
  次は承教寺だけど、街道の左側にあったのを見逃して、通りすぎてしまった。高輪消防署の前の空き地で、なにか●朝市をやっていた。その脇に「二本榎が立っている。由来の碑は承教寺にある。寺は探したら、戻った左側に街道に面していた。

●承教寺の「二本榎の碑」
 説明板によると・・「二本榎」は小高い丘陵地帯のこの地は、高輪手と呼ばれ、二本榎は、そのまま二本榎(にほえのき)という地名になった・・・とか
 またこのお寺の本堂左手に、●「英一蝶の墓」がある。
 一蝶は江戸時代の狩野派の絵師で、生類憐みの令違反とかで、三宅島へ島流しとなった。赦免後独自の作風を確立し、市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手掛けたという。墓は摩滅してなんだかわからないし、後ろの説明板も真っ白で読めず。  11:45

 寺の先の交差点の角に建つ、●「高輪消防署二本榎出張所」の建物は、アールヌーヴォー風で美しい。新築当時は周囲に高い建物が無かったため、「陸の上の軍艦」「灯台」などと評されたのだそうです。
●高野山東京別院
 消防署を越え、高輪警察署の奥の方に高野山東京別院がある。徳川幕府が開かれた際、高野山の宝門・寿門の学侶方の在番所の寺として、創建された。古さはないがかなりの規模を誇る。
11:50

■高輪台交差点~五反田駅
 左手に、衆議院高輪議員宿舎を見ながら歩き、高輪3の信号を右折して、国道1号線に突き当たり、左折して五反田方面へ向かいます。
 左手にあるのが●雉子神社。、ここもビルの中に鎮座している。将軍家光が鷹狩りに訪れた際、白い雉が神社へ逃げ込んだことから「以後雉子宮と称すべし」と名付けたという。入口にあるイチョウは推定樹齢150年から200年で品川区指定天然記念物。
12:10

 さて、国道を下がっていくと、●JR「五反田駅」のガードを潜って、駅前を左折していくことになるのだけど、ポツポツ雨も降っていて、ラジオも東京地方に午後、雷注意報が発令されたというし、今年は異常気象というのだろう、集中豪雨でもなったら困ると思い、ここで中止することとした。ほんの3時間、10km弱でした。・・・・お昼食べていたら空が明るくなってきた・・・・・・でもやめておこう。
12:25

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