西国街道を歩く 1
      (東寺~西宮神社)
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 東寺口-西の茶屋町-向日町-五辻-一文橋-神足-大山崎-天王山-桜井駅跡-高槻駅     21.3km

西国街道
 京から西へ行く街道は「山陽道」があり、古代では唯一の大路であった。江戸時代にはこの山陽道は瀬戸内の海上交通の発達により重要性が減少して、「中国路」(駅肝録)と名を変え、脇街道の地位に下がり、かつ大阪から出発するようになった。しかし京から西国に至る道は残っており、西宮までを西国街道と呼び、西宮から「中国路」と合流して下関へ向っている。
 西国街道は京都の東寺口から始り、西宮に至る街道で、秀吉が朝鮮出兵の際拡張整備したことにより、「唐道」などとも呼ばれていた。また、山崎街道(やまさきかいどう)とも呼ばれ、大坂を経由せずに西国へ抜ける脇街道として西国大名の参勤交代に利用されたりした。

参考地図
「歴史の道調査報告書 西国街道」(大阪府教育委員会)
「太陽コレクション地図 京都・大阪・山陽道」(平凡社)
                                (但し京都三条から始っている)
「歴史ウオーキングマップ 西国街道」(大阪市都市整備部発行)
                                (主として使用したが細部変更している)
 1 東寺~高槻  2 高槻~桜井駅  3 桜井駅~西宮神社

■東寺~西ノ茶屋町
  2011年5月15日 8時40分東寺着 西国街道は古代の山陽道が起源であり、江戸時代では東寺口から西宮までをいう。というので、●東寺までやってきた。東寺口は羅城門あたりにあったらしいが、一応東寺から始めることにした。ゴールは西宮神社としておきたい。
 東寺は「教王護国寺」と呼ばれる真言宗の総本山で平安時代もこの地にあって、平安時代の都市計画である、「条坊制」を復元するのに役立った。何度か焼けて五重の塔を含めて江戸時代に再建されたものである。
 東寺を過ぎて九条通りを西に向かって進むと、羅城門跡と書かれた小さな石碑があって、奥の公園に●羅城門碑が立っている。ここから真っ直ぐ北へ、朱雀大通りが貫通していた。現在の山陰線が通っているあたり。羅城門は 弘仁7年(816)の大風で倒壊し、再建されたものの、天元3年(980)の台風で再度倒壊してからは再建されなかった。
 九条通りに面している所に●矢取地蔵堂があり、その前の左側には天保3年の愛宕山常夜燈、 右側に嘉永7年(1854)の道標が立っている。 お堂の中には「矢取り地蔵」と呼ばれる石造りの地蔵菩薩坐像が安置され、羅城門のプラモデル(と思う)も置かれていた。 8:52

  九条通りを西へ東寺から同じような距離の所に「唐橋小学校」があって、その奥の公園に●西寺跡碑が立っている。「西寺」があった所である。西寺は正暦元年(990)に塔を除く大部分が、また天福元年(1233)に塔が焼けてそのまま再建されず、消滅してしまった。東寺と同様に広大な規模を誇っていたようである。
 九条通りをさらに西へ進み、●九条御前交差点の所を左側に入って行く ここから先が「マップ」と違っている。そのまま国道を歩いてしまいそうな所である。左に入り込むと●吉祥院通りになる。商店会のハタが下がっているのだけど、商店が少ない。

 
 ■西ノ茶屋町~久世殿城
 西国街道は国道171号の●西ノ茶屋町」の交差点を横断して真っ直ぐ行く道である。途中右手に●日向(ひむき)地蔵尊がある。日向地蔵が祀られているが、明治の廃仏毀釈運動の際、京都知事の指示に反対して、村人が隠して保存したという。
桂川に沿って右手に吉祥院公園があり、デイホーム脇を通って行くと桂川に架かる●久世橋に出た。江戸時代はここから斜めに渡船で越えていたのだろうと思われる。川の向うに旧道が続いている。現在では勿論「久世橋」を渡る。  9:33 

  久世橋を渡り、土手から橋の下をくぐり左手に出た。右手の堤防の下にあるのは●遊船料理いづみやという。
土手下の道を右手に取り、しばらく行くと、右手に鳥居があり、うっそうとした長い参道が続いている。両側がマンションや工場で、いささか寂しいが、良い感じの参道の奥に●嚴嶌神社がある。祭神は、広島の厳島神社と同じ宗像三神の市杵嶌姫、田心姫、立田姫。
 街道に戻るとその先は久世殿城(くぜとのしろ)交差点という。国道を渡ると、右手奥まった突き当りに●福田寺の山門が見える。門が閉じられて入れなかったが、奈良時代、行基が開祖という古い寺。今は建物は新しくなっている。 
百人一首の 「 よもすがら もの思ふころは 明けやらぬ 閨(ねや)のひまさへ つれなかりけり 」  を詠んだ俊恵法師もここの住職だったという。  10:02

 ■久世殿城~東向日駅前
 旧道はこの先消滅していて、久世殿城から西へ真っ直ぐ進むと、JR東海道線の下をくぐるトンネルがあるので、くぐって向う側に出た。左折して行くと●JR「向日駅前」へ出て、斜めに「阪急 東向日駅」へ向う。
  駅手前の踏切を渡ると、右角に大きな●太神宮常夜燈が立っている。、これは天保13年(1842)伊勢講の人達が建てたもの。 街道はその先の●三差路で左の細い道へ入る。入口に「 右 さんご寺 西  山上人御廟道 」 と彫られた道標がある。
 10:30

 ■東向日駅前~府道67号交差点
 ●左に入った道は昔ながらの情緒が残る道で、石畳にカラー舗装されている。。 その先の交差点の大原野へ至る道と交わる所で、 「梅ノ木道標」と呼ばれている4本の道標が建っている。この先何本もの愛宕山常夜燈があるが、細かく写真は撮っていない。 右手「京都西山高校」を過ぎて行くと、「東ノ段」という地名に変る。案内道標には、「この付近は小高い地形になっており、段をなしているように見えたのだろう。 西国街道を中心に東側を東ノ段、西側を西ノ段と呼び習わし、地名として定着した。」 とある。左手に●虫籠窓、連子格子を備えた旧家が建つ。
 やがて府道との交差点に出て、対面にあるのは、京都府指定文化財の●須田家住宅である。須田家は、屋号を松葉屋といい、明治30年代まで醤油の製造販売をしていた家で、堂々とした豪邸である。非公開なので中は見られない。
 この家の角には、平成9年に建てられた 「 江戸期古道名 」 と書かれた石碑があり、「 右・西国街道 中・あたごみち 左・たんばみち 」 とある。愛宕へ至る物集女(もずめ)街道と丹波道との分岐点にあたる。  10:45

 ■府道67号交差点~五辻
 街道は●府道67号線を進む。左手に向日町で一番の宿屋●富永屋という建物がある。向日町の西国街道には乙訓の中心地として賑わい、日本地図を作った伊能忠敬もこの宿屋に泊ったとか。
 右手に向日神社の標柱と大きな鳥居があり、奥に長い参道が伸びている。長くてげんなりするけど行って見た。
 参道を上っていくと拝殿があり、その奥に●向日神社本殿がある。祭神は向日神、火雷神、玉依姫命、神武天皇。創建は養老2年(718)。いわゆる式内社であり、 神名式においては山城国乙訓郡向神社と称され、 後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して今日に至っている。 ・・・・・・・・。 本殿は応永25年(1418)の建築になり、室町時代の代表的建築として、明治神宮造営の際に本殿がモデルとされたということだった。  10:55

  街道に戻って今度は左折して、住宅地の中を行くと●大極殿公園のいうのがある。ここは長岡京の大極殿の跡であり、一帯が長岡京の跡地である。 長岡京は、平安京ができる以前、延暦3年(784)から10年ほど都が置かれた。このあたりは長岡宮があった所で、一帯が長岡京になるわけだ。
 街道に戻って先に進むと、向日町商店街とあるアーチのあるところは五差路で●五辻という。旧道は 左斜めに入る。「アストロ通り」というのだが、意味がよくわかんない。
 左手に●石塔寺がある。この寺は鎌倉時代末の延慶3年(1310)、日像上人が題目石塔を建てたのが始りとされ、最初は不受不施派でし、禁制後は妙顕寺に属し、その後独立本山に成長した。現在は本化日蓮宗本山の単立寺院というなかなかのお寺である。  11:24

  ■五辻~一文橋
 
府道67号に出て。阪急京都線のガードをくぐった●すぐ先の信号の所を右へ入って行く。 「下河原」という地区で、ブロック舗装のなかなか良い感じの小道であった。両側に虫籠窓や連子格子、白壁の古い建物が建ち、旧街道の趣がある。
 右手の●由緒ある大きな建物は喫茶店を開業しているが、門の奥が店のようで、どうも慣れないと入れないような雰囲気がある。 
 この道はそれほど長くは続かず●一文橋に出た。橋のたもとに大きな一文銭の碑が立っていて、「この橋は 大雨のたびに橋が流され、その架け替え費用のため、通行人から一文を取り始めたのが橋名の由来といわれる。」という。  11:42

 ■一文橋~神足
 
 一文橋を左折して堤防上の道を進む。その先で再び、府道67号線に合流し、●馬場一丁目の交差点は左の細い道を進みます。ここには西国街道の案内板がある。少し行くと●神足(こうたり)商店街になるが、ここも商店の数が少なく、商店街というにはちと苦しい。「神足石仏群」は右の矢印という看板があって、右手に行くと、「神足、古市共同墓地」という所があり、珍しい石仏群があった。入口右手に「六地蔵」、左手に初めて見るかと思うけど、●「十王像のうちの五王の石仏」というのが並んでいた。中央に「閻魔王」を置き、左右に二体が置かれる。各地の十王堂で小さいものは見るけど、こんな大きいものは珍しい。  12:10

  ■神足~大山崎
 旧道へ戻ってさらに進むと右手に●旧石田家住宅があり、「神足ふれあい町屋」ということで、休憩所になっている。江戸時代末期の住宅と店舗を兼ねた町屋建築として国登録有形文化財。白壁・虫籠窓が特徴的。
 「神足商店街」が終り、右折していく。曲る突き当りの酒屋の左側の道標には「 右 山ざき 左 よど 」  などとある。
 右折してしばらく進んで行く。途中「 与市兵衛の墓0.2km 」 などと書かれていた標識があったので、注意していたのだけど、左を見ながら歩いていて、通り過ぎてしまった。このあたり仮名手本忠臣蔵 の山崎街道の場面のゆかりの地らしく、物語にちなんだ供養塔で、うそっぽいので戻らずそのままにした。
 その後大阪成蹊大学芸術学部の前など過ぎ、「調子八角」、「名神高速」のガードをくぐると、「大山崎」へ入る。●小さな枡形道の先、左手に「高瀬川」碑と「石敢當」がある。「離宮八幡宮神領と黒門跡」と書かれた案内板もある。ここから先は「離宮八幡宮神領」で、油の販売を独占して繁栄したとか。「石敢當」は、中国伝来の魔除けの石柱で、道路の突き当たりや門・橋などに建てられるもの。
 少し行くと右手に●「観音寺」の鳥居があり、常夜燈には「聖天宮」とあり、お寺の鳥居なんか変と思いつつ、さらに奥に石段が続いている。ここが「天王山」の入口と思って、長い石段を見るとうんざりするけど上がってみた。  13:15

 ■大山崎~天王山
 
JRのガードをくぐり、石段を上って行くと、観音寺の仁王門に出会い、さらに上がって行くと観音寺の境内に出た。●聖天宮は境内の左奥にあって、観音寺本堂と並んでいる(聖天堂と称する)。但し完全に寺の建築様式であり、歓喜天を祀って、商人の信仰を集めてきたというので、神仏習合の神社だかお寺だか混沌とした感じである。●観音寺本堂は右手にあり、こちらの本尊は観音菩薩。昌泰2年(899)宇多天皇の開基で、後、 木食上人が夢のおつげにより中興開山したとある。境内に住友家が寄進した銅製の大きな燈籠が建っていた。ここは「禁門の変」によって焼失してしまい、明治以後徐々に復興して現在の姿になっている。左奥に天王山への登山道がある。
 寺から下りてくる途中、JRの踏切の所で、●天王山を撮ってみた。いうまでもなく、明智光秀と秀吉が「天下分け目」戦いをした所である。  13:40

 ■天王山~関大明神
 街道に戻って進み、JR山崎駅前に●妙喜庵がある。臨済宗のお寺である。この中にある茶室、「待庵」は、千利休がつくった茶室のなかで唯一現存するものとして国宝に指定されているものだが、 一ヶ月前の予約制なので、見学はできず。 
 駅前から街道に戻り、さらに行くと●離宮八幡宮がある。ここは平安時代のはじめに僧行数が宇佐八幡宮の神託を奉じて、嵯峨天皇の河陽離宮離宮に宇佐八幡神を祀ったのが始まりとされる。時の神官が搾油器を発明し「荏胡麻油」の製油が起こったことで、日本における製油発祥地とされ、荏胡麻油の販売権を独占して大いに栄えたという。 境内に油祖像」なるものが立つ。
 離宮八幡宮を出ると、 右に曲がり、すぐに左に曲がるという、枡形があり、明治四年建立の「従是東山城國」の標石が建っている。ここは山城国と摂津国の国境にあたる。またここに西国街道最初の宿場、山崎宿が設置された。
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 1 山崎宿
 ・・・現在の町並には街道の面影は全く残っていない。宿場の規模などはよくわからない。昔は堺と同様の自治都市で、山崎の戦い時には明智側、豊臣側双方から市街での戦闘を避けるような協定がなされていたという。・・・
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 左手に●関大明神社がある。「この神社は関を守る関守神あるいは辻神を祀ったのが始めではないかと思われる。・・・という。このあたり俳諧の創始者として知られる「山崎宗鑑」の屋敷があったという説明もあった。  14:15

 ■関大明神~桜井跡
 
その先、JRの踏切に接するようにして進むと、踏切の右手向こうにサントリー山崎工場が見える。水無瀬橋を過ぎ、進んで行くと「水瀬神宮」の道標があったりし、左手奥に●水無瀬神宮がある。承久の変により、隠岐に流され、崩御された後鳥羽上皇の御遺詔により、水無瀬の旧跡に「御影堂」が建立されたのが当社の起源であり、最初は仏式の「法華堂」と称されていたが、室町中期、後土御門天皇から、水無瀬宮の神号を賜った。豊臣秀吉からの寄進で、造営奉行は福島正則と伝えられている「客澱」、茅葺の茶室の「灯心亭」は国の重要文化財に指定されている。境内に全国名水百選として、大阪府でただ一つ選ばれた名水「 離宮の水 」 が湧出ており、ポリタンクを持った人が行列を作っていた。
 次のJR「島本駅」前の公園が●桜井駅跡で、「青葉茂れる桜井の・・・」という歌で有名な、太平記の楠木正成・正行父子決別の場とされる。公園の入口右手に●「楠公父子訣児之處 碑」というのが立ち、明治9年の建立で イギリス公使 パークスの英文も刻まれている。 またここは古代街道の「駅家」である「摂津国嶋上郡大原駅」を指すとされる。乃木希典による大きな石碑なども建っている。   15:05

 ■桜井跡~一乗寺
 少し先でJRのガードをくぐり、●線路の西側へ出る。しばらく線路の接して行くと、梶原集落に入っていく。左側向うは「京街道」の時に歩いた「樟葉」で「くずはモール」の高いビルが見えた。
 右手のお堂の前に梶原一里塚跡と書かれた案内板が建っていて、●梶原一里塚跡である。当地周辺には旅籠があったものとみられるとか。   
 その先右手に髭題目碑があり、●一乗寺がある。法華宗の寺で、室町時代、が真っ赤に焼けた鍋を頭に冠せられるなど、厳しい拷問を受けるが、これに屈せず「鍋冠理日親」と称せられた日親上人に帰依した宇野、西村両氏が応永34年(1427)に建立した。境内に「弁慶の駒つなぎ」といわれる樹齢は約8百年のクスノキの大木がある。  15:50

 ■一乗寺~高槻駅
 次に右手に●畑山神社がある。もともと永福寺というお寺で、その後再興され「山崎通分間延絵図」には神社と寺院が混淆する様子が描かれているという。 明治の神仏分離令により、畑山神社と称するようになった。あり、永福寺の名残をとどめる多宝塔がなぜか「ユネスコ村」にあるとか。 
  安満東の町に入ると、左手に●古そうな家がある。右端の家は茅葺屋根であったものが銅版葺きにしてしまったようである。 そろそろ「高槻駅」に近づいてきて、左手に小さな地蔵堂の祠があり、その前に●能因塚墳という道標を兼ねた石碑が建っていて、能因法師の歌が彫ってある。能因法師墳とは能因法師の墓と伝えられているもので、ここから北方の古曽部町という所にある。  16:40

  「高槻駅」に近づいた。左側には関西大学高槻ミューズキャンパスという大きなビルが建っている。道の前方に高架橋が渡してあり何かと思えば、●高槻病院の高架橋であった。やがて右手に●鳥居の建つ交差点に来た。左折すると高槻駅、西国街道は直進する。右手の鳥居は上宮天満宮の鳥居だと思う。左手に「西武百貨店」がある。本日はここまでとした。16:50

 2 高槻から桜井駅  3 桜井駅から西宮神社