西国街道を歩く 2 
     (高槻~西宮神社)
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 高槻駅前-芥川-郡家新町-太田-耳原-宿川原町-小野原-萱野-牧落-桜井駅         15.9km

 1 東寺~高槻  2 高槻~桜井駅  3 桜井駅~西宮神社

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■高槻駅~上宮神社

 2011年5月21日 8時30分 高槻駅到着。ここは「芥川宿」があった所である。駅を下りるとすぐ正面に●上宮天満宮の鳥居が見える。歩き始める前に寄っておいた。神社は天神山の高台にあるので石段の参道を上がって行く。
  社殿によれば、菅原道真の死後百年目頃、勅使・菅原幹正が太宰府に下向して道真の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝え、菅公の御霊代と菅公自筆の自画像を奉じての帰途、この地に宿した時に急に牛車が動かなくなったので、山上に自画像を奉安して道真を祀ったのが当社の始まりとする。
 明智光秀との山崎合戦の際には、秀吉の本陣が置かれ、 秀吉は戦勝に感謝し、天正18年(1590)神社に土地を寄進し、●社殿を修造している。  ●本殿は平成8年に放火により焼失したが、地元の竹を使い、日本初の竹製本殿として再建された。

  ■上宮神社~高槻駅前
 
境内に相撲の祖とされる「野見宿禰」を祀る●「野身神社」がある。こちらの方が先に式内社「野見神社」として存在していたが、後になって道真を祀る天満宮が創建されて、野見神社がそれに吸収されたと見られる。
 参道を下りて左折すると、県道に陸橋が架かっている上に●昼神車塚古墳というのがある。 この古墳は天神山丘陵の南端にあたり、同じ丘陵にある中将塚、宿禰塚などと一連のもので、この地を支配した首長たちの墓である・・と説明にある。 
 次に前回で終了した●交差点へ行き、西国街道歩きを再開した。街道に入るとすぐ五差路に出て、そこを直進して行く。

  ■高槻駅前~芥川町3・一里塚
 左手に●連子格子に虫籠窓の白漆壁の古い家があった。街道の雰囲気が出てきた。。続いて左折して行く。 左折した先左手に●芥川仇討の辻という所がある。説明が長いので案内板を読んでほしいが要するに・・・賎ヶ岳七本槍の一人、加藤嘉明の曾孫、14歳の助三郎がこの辻で親の仇討をしたという話である。 
 突き当りを右折して行くが、枡形になって芥川宿はここが東の入口になっている。 左手に●芥川一里塚と旧芥川宿の案内板が建っている。   9:11
  ********** 2 芥川宿
    ・・・12世紀頃、すでに芥川は宿として成立していたが、17世紀初め、徳川幕府によって宿場町としての姿を整えた。  参勤交代のための本陣や伝馬、旅籠などが置かれ、整然とした街並みや寺院、東に一里塚もみえる。 幕末の文久3年(1863)には、政変に敗れて長州に逃れる途中の三条実美ら七卿も、この芥川宿に泊まっている。 本陣1 旅籠33・・・・**********
 
高槻駅に近いにもかかわらず、意外に旧家も残され、宿場らしい雰囲気が残っている所である。

  ■芥川町3・一里塚~教宗寺
 
宿場を進んで行くと●白壁、格子を備えた古い家などが並んでいて、宿場の雰囲気が感じられる。 
右手奥まった所に●教宗寺(きょうそうじ)というお寺がある。「教宗寺は浄土真宗西本願寺派に属し、阿弥陀如来が本尊。寺伝によると、田淵久兵衛教宗が親鸞聖人の直弟子になり、 自分の邸宅を寺院に改めて、弘安10年(1287)に開創した。 境内には底に水抜孔があることから●石風呂ではないかといわれている、変った四角い石槽なるものがある。享保19年(1734)に描かれた芥川宿絵図に描かれている教宗寺の配置とほぼ同じであるということだった。   9:21

 ■教宗寺~郡家跡
 
街道に戻って進むと上り坂になり、右手に●地蔵堂がある。左側に文政5年(1822)の大きな愛宕山常夜燈が立っている。 
その先で芥川の土手に出てくるが、宿場はここで終りらしく、道の両側を石垣で固めてあり、川が氾濫したとき、板で締切れるように仕切が彫られている。残念ながら仕切の所に工事用のトラックが止めてあり、撮影はできなかった。この仕切と同じものはたしか「東海道 島田宿」の所にもあったように思う。
 芥川橋を渡ると、左側に●地蔵堂と常夜燈が建っていた。お婆さんが長いことお祈りをしていたので、近づくのをちょっと遠慮した。 府道6号線の交差点を右折してちょっと寄道。このあたりで、この一帯が1300年前、摂津国嶋上郡の郡役所があった所である。現在●「嶋上郡衙跡」が1/3に縮小して、公園として整備保存されている。郡衙とは律令制度下に置かれた郡役所をいい、西国街道は古代山陽道の一部であるので、山陽道に面して作られたのであろう。  9:46

 ■郡家跡~今城塚古墳
 
また街道に戻って先に進む。●「郡家新町」という地名である。道は普通の脇道であるけれど、両脇、●緑の多い旧家や立派な●長屋門を備えた家もあった。  9:57

  ■今城塚古墳
 
右手奥にこんもりした森が見えてくる。右手に道標が立っている所を奥に入って行ってみると大きな古墳で●今城塚古墳という。回りの堀の部分が埋立てられて芝生広場になっている。あまりに大きいのでパノラマにしてある。 。墳丘の長さは190m、二重濠を含む全体の長さ350m程度、淀川流域で最大級の前方後円墳である。古墳の被葬者は6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した継体天皇とするのが学界の定説になっているが、宮内庁の指定はここではなく、この先にある「太田茶臼山古墳」となっている。おかげでこんな大きな古墳でも一般人の見学が可能であるのは喜ばしい。 10:05

  ■今城塚古墳~宮田町2丁目
 
古墳から戻り、道の左側に流れる●氷室川に沿って進む。巡礼橋という橋があるが、どういう意味だろうか。
氷室町二丁目、右手にある家は●茅葺をトタン板で覆っているように見える。現在では一般の人が茅葺を維持するのが中々難しく、トタン屋根に変っている家が多い。 
 やがて氷室町三丁目バイクショップの所で●突き当ってしまった。そこを左折してすぐ右折するようになっている。枡形みたいな感じ。左手に門構えの立派な屋敷があった。  10:30

  ■宮田町2丁目~太田東芝町
 
藍野大学を過ぎて、「東太田4丁目」交差点の角に、茨木市教育委員会の「西国街道」の案内板があるが、文字が薄くて全く読めない。その先、右手に●太田茶臼山古墳がある。ここが宮内庁指定の継体天皇陵となっている。外と同様の形式で祀ってあって、きちんと管理されている。門が閉っていたけど、カギが掛っておらず、立入禁止の看板もないので、開けて入らせてもらった。
 街道に戻ると、その先は下り坂で、右手に「太田神社」の標柱があるので、右折して行った。住宅地の突き当りに●太田神社がある。太田神社は式内社であり、 祭神は天照皇大神、速素戔嗚尊、豊受皇大神。    11:00

  ■太田東芝町~耳原
 
さてこの先は下り坂であり、●「雲見坂」と呼ぶ。坂の左側に●小さな道標があり、「右 とん田 ミしま田 道」「左 京 ふしみ道」と彫られている。左側は広大は東芝管理の空地が広がっている。東芝大坂工場が撤退した跡地らしいが、電子地図で計算したら13万m2位あった。跡地利用はどうなるのかな?
 太田東芝町を過ぎると、太田1丁目、2丁目である。 左手に●虫籠窓で連子格子、黒漆喰壁の家がある。  11:12

  安威川の手前、右手に●地蔵堂と。茨木市教育委員会の「西国街道」の案内板がある。ここでの説明では東寺口から始ってはおらず、伏見から分かれて来る道を「西国街道」と称している。いわゆる東海道の追分から分れて大坂へ達する、東海道57次の経路を通って、伏見から山崎へ至る街道のことで、西国の大名が参勤交代に使っていた道のことであろう。
 安威川を●太田橋で渡る。渡ってから名神高速道路の下をくぐって、左手方向へ行き、「耳原(みのはら)」へ入った
  右手に●阿為神社があるが、「式内社阿為神社御旅所」という石標が立っているので本宮ではなく、出先のようなものか。・・・ここは、ここから約1.5km北にある阿為神社の御旅所です。御旅所とは、神社の御例祭の際に、本宮から出た神輿がしばらく仮にとどまる所です。・・・という。  11:25

  ■耳原~郡山宿
 「安養寺」など右手に見ながら、進むと、茨木川の手前右手に「白井河原の合戦場跡」の案内板がある。この●茨木川を夾んで付近一帯「白井河原」といい、元亀2年(1571)茨木・伊丹両氏と、池田氏とが激突をしたところとある。「白井河原は名のみにして、唐紅いの流れとなる」ほど赤い血に染まったという。
 左手に「アル プラザ」があったので、そば定食を食べた。普段は食堂のない所を歩くので、おにぎりですますことが多い。亀岡街道との交差点を渡った右角に●大きな道標がある。「東 大津十一里、南 堺九里、西 姫路などと 北面に 明治三十年建立 」と彫られている。また「中川清秀由緒地」の碑があって、この辺りが中川清秀の生まれた場所とされている。中川清秀は、先ほどの白井河原の合戦で和田惟政を討ち取っり、戦後茨木城の城主となった。その後、賤ヶ岳の戦いにおいて、柴田軍の佐久間盛政の猛攻に遭って討死。 新豊川橋の手前で橋を渡らず、勝尾寺川に沿って国道171号を横切り、って、その先の●歩道橋の下の細い道を行く。「郡山本陣」の看板が出ている。 12:30

 ■郡山宿
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  3 郡山宿
 ・・・京から3番目宿場。山陽道の宿駅として古来より郡山宿は栄えていた事もあり、江戸時代には京都・西宮間の街道にある5つの宿場のちょうど中間点にあるため、西国大名等の参勤交代等に郡山宿が利用されて栄えた。 ********* 

  いよいよ●郡山宿である。石畳が敷き詰められ、宿の雰囲気をかもし出している。ここに西国街道で唯一の本陣が現存して、国の史跡に指定されている。
 宿内を行くと右手に白漆喰の虫籠窓の大きな建物が建っている。ここが●郡山本陣である。 この本陣は、享保3年(1718)に類焼にあって、建物とともにほとんどの古記録が焼けてしまい、 現在の建物は、享保6年(1721)に、西国諸大名などの寄付によって再建されたものですとある。 建物としては、母家、土蔵、納屋、茶席などがそのまま現存している。また正門の脇に椿の大樹があり、見事な五色の花を咲かせたことから、「椿の本陣」と呼ばれるようになった。しかしなんと子孫の方の個人の所有のままになっており、見学は事前予約制でできない。
 宿内では、左手に●茅葺をトタン屋根で覆った家など雰囲気のある家並みが続く。  12:36

   ■郡山宿~山下橋
 
郡山宿も終りになって、勝尾寺川を●鍛冶屋橋で渡る。左手に春日神社の常夜燈が立っていて、鳥居から石段が続いている。上がって行くと、鬱蒼とした森の中に意外に長い参道が続いていて、奥に●春日神社が建っていた。案内板が見あたらず、由来などがわからないのだが、境内も広く相当に立派。
 山下橋手前の右手の●道標に「是ヨリ 豊川学校 勝尾寺  粟生 宿久庄 清水 」と刻まれた道標があるが、、豊川学校には川端康成が明治39年に入学したという。  13:10

  ■山下橋~小野原東2
 
この道標の立つ道を右に入って、道なりに行くと国道171号へ出て、左折して「かつおじ橋」を渡って、すぐ交番の所を川沿いに戻った先、右手に●「ぼろ塚」という石碑が建っている。 虚無僧のことを「ぼろぼろ」といい、徒然草第115段に、「宿河原というところで、ぼろぼろ同士が師の仇討ということで、斬合いをして、二人が一緒に死ねばあだ討ちはここで終わると刺し違えて死んだ。兼好は、命に執着しない潔さに感心している」という話が出ているそうだ。
 街道に戻って「山下橋」を渡って、先に進み、●大阪モノレール彩都線豊川駅の下をくぐって行く。 
 小野原あたりは上り坂で、右手に春日神社御旅所があり、坂を上がりきったすぐ先、左角に●「楠水龍王宮」と呼ばれるお堂が建つ。楠木正成がここの井戸水を賞味したという。その前には享和2年(1802)の「左 京ふしみ道」と刻まれた京へ向う道標がある。  13:50

  ■小野原東2~萱野
 
街道は国道171号線に付かず離れずして行くのだが、このあたり●長屋門を備えた家や、旧家らしい家並があちこち続いている。
 右手に勝尾寺への参道を表す●大鳥居が見えた。勝尾寺はここから北方36町の所にある。寺への距離を示す町石が置かれているそうだが、どれがそれなのかわからなかった。大鳥居は寛文6年(1666)の建立という説明であったが、どうみても新しいので変だと思って、鳥居の裏側を見たら、昭和60年に車がぶつかり、先の阪神・淡路大震災で倒壊して建替えたということだった。案内板を書換えた方が良いと思った。しかしお寺の参道に鳥居とは、神仏習合だからというわけだけど、なんとなく違和感を感じる。ちなみに勝尾寺とは西国23番札所である。
 箕面墓地公園の脇を通り、「今宮」の交差点でまた国道に近づいたりして進み、その先西宿2交差点で●国道171号と合流する。国道付近では旧道は消滅しているので、しばらくは国道を行くしかない。  14:35

  ■萱野~牧落西
 国道423号の高架下をくぐって、この先から旧道は斜め下方向に向っていたようであるが、消えてしまっているので、萱野4丁目交差点を一度左折して、公園の所を右折して進む。
 右折した先左手に忠臣蔵でおなじみの●萱野三平旧邸がある。大きな門構えの豪邸で、脇に見学者用の入口が作ってある。萱野三平は「内匠頭」が切腹後、赤穂へ「早打ち駕籠」として4日で走破し、その間水しか口にできなかったという話が残る。  当人は代官、萱野重利の三男としてここで生まれ、縁あって浅野内匠頭の小姓として仕えるようになったことから、その後の運命が変ったわけである。邸内は一般公開されていて、切腹した部屋などが残っている。
 この後、左手に大きな「箕面市民病院」を見ながら進んで、また国道1711号線と合流。国道を「牧落」交差点で向う側へ横断して、その先の●陸橋手前で右斜めに入っていく。これが旧道になる。200m程先の右手に●牧落の旧札場と道標という案内板と道標2基が建っていた。 ここは牧落の高札場跡で、箕面・大坂道と西国街道の交わる四ツ辻にあたるので、行路の目安となる道標二基が今も建っており、次のように刻まれている。「大坂 四り半 天神  道 はっとり 二り」、「みのをみち」とあったが、大きい方は指差し道標になっている。  15:30

 
  牧落西~桜井駅
 
阪急箕面線の踏切を越え、細い道を抜けると●2車線の広い道に変る。左手に●白壁に板張りの旧家があった。その先●道幅が急に細くなる所の左側に桜井駅がある。その先が次の宿場「瀬川・半町」であるが、駅が近いのでここで本日の打止めとした。
   15:40 

 1東寺から高槻駅   3 桜井駅から西宮神社