山陽(中国)街道を歩く 1
              (大阪〜尼崎まで)
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 高麗橋−茶屋町−十三橋−三津屋−神崎川−常光寺−長洲中町−大物−築地本町   23.7km(高麗橋〜西宮神社) 
 

■高麗橋大融寺
 2011年10月9日
これから山陽(中国)街道の旅にでるわけだが、どうも西宮からを西を山陽、または西国街道。大阪から西宮までを中国街道と呼んでいる例が多いので、ここでも西宮までを中国街道と呼んでおくことにしたい。
 中国街道のルートの入手が困難であったが、神崎川までは「天王嶺道」(歴史の道調査報告書 大阪府)が中国街道と同じと考えられる。神崎川以西は「日本図誌大系 近畿T」(朝倉書店)の明治18年測量図を参考にして決めた。
 ●高麗橋が出発点。西国の道路元標となっている。京街道のゴールでやって来ているので2回目になる。
橋を渡って真っ直ぐ西へ向い、右折して淀川にぶつかった所が、旧難波橋の架かっていた地点。●現在の難波橋の200m位西側であった。今回は勿論現在の難波橋を渡るわけである。    8:40

難波橋を渡って、左折し、少し進み、「西天満小学校」の脇を通り、北上して行く。国道1号線はそのままだと渡れないので、迂回して交差点を進んだ。寺町通へ出たら、斜め左へ進んで行くと、●大融寺の山門脇へ出た。
 この寺は弘仁12年(821年)に弘法大師が創建したという歴史のある寺で、昔は大伽藍を有していたという。戦災で焼けて再建されており、建物は新しい。
 全く知らなかったが、境内に●淀殿の墓がある。大阪城外の淀姫神社の埋められていたのを、明治10年に当寺に改葬されている。     9:00

■大融寺〜茶屋町
 寺から北へ進むと、左手に「阪急東通商店街」があり、右手に●網敷天神社がある。
菅原道真が太宰府へと左遷された際に、この神社に咲いていた紅梅を見る為ため、船のとも綱を円く敷いて、見たことにより、「綱を敷く」という意味から「綱敷天神社」と称されたといわれる。
 斜め左方向へ進み、国道423号を渡り、JRのガードをくぐって行くと●茶屋町に出た。地名の由来は「鶴乃茶屋」などの茶屋あったことによる。歩道にその●「鶴乃茶屋」の跡碑が立っている。現在では再開発により「ちゃやまちアプローズ」などのビルが建つ繁華街である。   9:24

 ■茶屋町〜十三大橋
 阪急の高架に沿って進み、「大淀警察署」の前を通り、すぐ先の信号を左折すると、●JR貨物線のガードの下をくぐることになる。
 そのまま進み、阪急のガードをくぐったり、国道176号の下をくぐったりして、●十三大橋の左側の歩道へ上がって行く。
 土手の上に●大正9年の道標が立っている。「東 往来安全 池田 四里 伊丹 二里半」などと彫られている。    10:15

 ■十三大橋〜田川北1丁目
 十三大橋を渡ると対岸土手上に●「十三渡し」の石碑が立っている。傍らの案内板によると、ここでの淀川は渡船により「十三渡し」と呼ばれ人々で賑わっていたなどと書かれている。
 昔の地図も書いてあり、なるべく忠実に歩くように務め、「新北野」交差点を左折し、「十三公園」の所を右折する。府道41線「十三筋」に出たら左折して、●「田川北1」交差点少し手前のコンビニの脇を右手に入る。  11:00

 田川北1丁目〜三津屋
 ここから先の旧道は完全に残されているといわれ、神崎川まで府道に寄添いつつ、ジグザグに進んでいる。
 脇道へ入ると、正面に●長楽寺への道標が立っている。道標から200m位の所にある「長楽寺」は「摂津名所図絵」では「いにしへは伽藍巍巍(ぎぎ・・高大な)たる仏刹たり」と記された大寺院であったようである。
 道標の所を左へ入る。JR貨物線の踏切を渡り、●三津屋南2」信号の所で又右斜めに入って行く。   11:16

■三津屋〜神崎川
 道は「三津屋北3」で、一度府道に合流し、アステラス製薬の所でまた右手に入る●製薬工場裏の旧道を通って行き、府道10号線の高架下をくぐると、左手に●香具波志神社がある
 神社の名前は孝徳天皇の行幸の際、詠んだ歌に由来するとか。中世には楠木正儀(正成の三男)が戦勝を祈願したり、戦国時代には三好長慶が鳥居一基を奉納したり、上田秋成の寓居があったりで有名。境内に●正儀駒つなぎ楠という楠の木の切り株が祀られている。  11:40

 ■神崎川〜常光寺元町
 
●神崎川渡し跡・・と思われる地点にやって来た。向う側は兵庫県、尼崎市。
 大阪側は護岸壁で川が見えず、壁に登って撮った。神崎川に仮橋がなく、川幅40間程、旅人は1人につき40文、増水時は増銭24文を払って渡し船に乗ったとのこと。
 現在は勿論●神崎橋を渡る。乗船場は尼崎側では橋から、300m位上流になる。   11:55

 神崎橋を渡って土手沿いに右折して、乗船場当りまで行ってみた。土手沿いは公園になっていて、渡し場にあったという「金比羅燈籠」を探してみたけど、見あたらない。調べると護岸工事で、もっと上流に移設されてしまったらしい。
 「神崎バス停」の所を左折して行くと、新築みたいだが、●黒壁の旧家のような感じの建物が建っていた。
 右手に●神崎須佐男神社がある。 このあたりは北へ向う「有馬道」との合流点で道標兼ねた地蔵が立っていた。
  12:11

 土手沿いに南下して、神崎橋の下をくぐって行くと、●身代一心地蔵尊というのがある。新田義貞、楠正成軍と足利尊氏軍とが戦い、正成の軍は神崎の辺りから神出鬼没、一心をこめた戦いにより、圧勝し高氏軍は遂に九州へと逃げ延びる・・・・世にこれを神崎一心の戦いというと案内にある。このあたりの歴史の1コマ。
 西隣に●西川八幡神社がある。見落してしまったけど、尼崎藩の境界石があったらしい。    12:25

 ■常光寺元町〜長洲中町
 西川八幡神社から先は階段状にジグザグに南西方向に向う。「尼崎工高」の南側を通り、左折して南に向かうと、長洲中通2丁目左手に●「厳島神社」がある。厳島神社というのは海沿いに立地することらしいので、この辺まで海が来ていたのかもしれない。小さい神社だが、ちょうどお祭の最中らしく、あたり一帯に幟が沢山立っていた。
 長洲中通3丁目の「大門川緑地公園」内に●大きな道標が立っている。元の位置は当然違うと思うが、文化五年、「左 尼崎 西宮」、「右 尼崎 大坂」などとある。  13:02

長洲中町〜大物
 道標を見た後は道なりに南下して行き、国道2号を渡り、●阪神なんば線大物駅」を過ぎる。
 右手に「大物神社」がある。
 尼崎は神崎川と武庫川に挟まれた三角州で、海ヶ崎、海士ヶ幸と呼ばれたりしたが、水難を祈る為の神社であったのでしょう。
 「謡曲 船弁慶」ゆかりの地であって、境内に●義経、弁慶隠家の碑がある。義経、弁慶が大物浦から船出、大風に流され一時ここに隠れていたと伝わる。   13:31

■大物〜築地本町
 大物川緑地の所に、●大物橋跡の石碑が立っている。「摂津名所図会」にこの橋が描かれ、ここに大物川が流れていたが、現在では川を埋め立てて緑途として、公園としている。
 ●御茶屋橋の所を右折する。左手に大黒橋跡の石碑がある。象の絵が描かれていて、ここを享保の時代、象が長崎から献上され、ここを通り、大名行列以上の騒ぎだったという。 
  13:43

■築地本町〜尼崎城跡
 現在の大黒橋を渡ると、●築地本町に入る。江戸期青山氏の時代になって城の南の葭島を整地して、新たに造成された町だそうで、右手の団地の一階は瓦葺き屋根で、何か旅籠を思わせるような面白い造りになっている。
 築地本町5丁目を右折し、●戎橋を渡ると阪神高速3号線が覆い被さるように通っており、左折して高速の下を通って行くと昔の別所町となり、宿駅が置かれたといわれる。しかし昔の面影はないし、高速の下を通っても面白くないので、ここは真っ直ぐ行って、尼崎城跡を、寺町などを巡ることにしたい。  13:53

 高速をくぐって真っ直ぐ行き、阪神尼崎駅の南東に●尼崎城跡が広がっている。
 幕府は尼崎を西国方面の押さえとして重視し、譜代大名の戸田氏に築城を命じ、その後青山氏、松平氏が引き継いで明治維新まで続く。城は300m四方、三重の堀をもち、城全体が海に浮かんでいるように見え、美しく水に写る姿は「琴浦城」の名称で親しまれてきたという。
 次に駅前には寺が集められている「寺町」があるので、そちらへ向った。
 次頁に続く

  14:02

 1 尼崎宿
 中国街道は大阪を出ると最初の宿は尼崎であると「五駅便覧」などに書いてある。しかし「尼崎市史」によると、幕府指定の宿は無く、尼崎藩が独自に神崎、尼崎の両駅を置いた。神崎駅は神崎川の渡しの所に置かれ、尼崎駅は尼崎城下、別所町に置かれた。両駅とも宿泊はされず、荷物の次立てのみを扱う駅であったという。神崎駅には本陣が置かれていたという説もあるが、川待ち用の宿くらいあったかもしれないが、宿場という感じではなかったのではないかと思われます。

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