山陽(中国)街道を歩く 2
              (尼崎〜西宮まで)
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 尼崎駅−寺町−琴浦通−武庫川−染殿町−西宮神社                23.7km(高麗橋〜西宮神社)  
 

■尼崎駅〜寺町
 2011年10月9日 山陽(中国)街道1の続き    14:02
 阪神尼崎駅の南西に寺町が広がっている。駅前に案内板が立っていたので読んでみた。
1617年戸田氏が尼崎城下町を造る際、散財していた寺院を現在の場所に集めたということ。現在11寺が集っているというようだ。尼崎といえば工業都市としてのイメージが強いのだけど、駅前の一等地がそのまま残っているなんてすごいことだと思う。
 早速●本興寺の前から入って見ることにしよう。但し地図を見ると、ほとんどの寺が「寺町」の中に入っているが、全昌寺と本興寺だけ開明町というのは何故であろう。  14:10

 入ると左手に本興寺の三重塔が見えているのだが、門がないので1本南側の道へ回って●山門から入ってみた。
 本興寺は法華宗4大本山の一で、本門流の大本山という。京都の本能寺と同じ系統になる。応永27年(1420)に日隆上人の開基。開山堂、三光堂など重要文化財を沢山持ち、寺町の中心的な寺であるという。、隣に「全昌寺」がある。
 ●三重塔は新しく、文化財でもなんでもないようだが、好きな形なので撮ってみた。

 寺町は長方形の形をしており、北辺はレンガに囲まれて、常楽寺、善通寺があり、●南辺がメインストリートの様である。そこをを歩いてみる。右手に廣徳寺、甘露寺、法園寺(佐々成政のお墓のある)、大覚寺、長遠寺、如来院、専念寺と7ヵ所並んでいるけど、道が狭く、広角レンズでもうまく撮れなかっので写真がない。
 その中の●長遠寺、多宝塔は桃山時代の作で、重要文化財指定となっている。     14:25

■寺町〜琴浦通り
 寺町巡りを終り、旧道の●阪神高速3号線へ戻って来た。古図ではこのあたり尼崎城下で、尼崎宿駅が置かれていたといわれている所である。尼崎宿駅は尼崎藩独自で置いた駅で、荷物の継ぎ立てのみ行っていたと、市史にある。
 右手に●貴布禰神社がある。
 長洲中通に鎮座する貴布禰神社が元社であるがこちらの方が発展し、尼崎の一宮とされた。雨乞いの神として藩主の信仰が厚かったという。  14:33

神社の先を右折して、真っ直ぐ進むと、西本町8丁目の右角に大きな●弘化3年の道標が立っている。「左 西ノ宮兵庫」 「右 大坂道」 と彫られている。ここで左折する。 
 蓬川橋を渡り、琴浦通りを西に進んで行く。
 右手に●琴浦神社がある。
 嵯峨天皇の皇子の源融公が祭神として祀られている。京都六条の河原院の邸宅には、陸奥の塩釜の風景を模して庭園をつくり、毎日三十石の潮水をここから運んで、塩を焼かせたと伝えられている。   15:05

 ■琴浦通り〜武庫川
 街道は大庄小学校を斜めに通っているよだが、通るわけにいかないので、●学校の先から斜め右手に入っていく。
 武庫川土手にぶつかる。ここは伝説●雉が坂の場所である。天正10年、本能寺の変を知り備中から急ぎ引き返す秀吉一行がこのあたりまで来た時、農夫の知らせで川の向うを見ると、あわただしく雉が飛び立つのが見えたため、明智光秀の兵が待ち伏せしていることを知り、道を変えて難を逃れたという言い伝えが残る所。左側の坂は現在の坂で、右手へ上る坂が昔はあったようである。  15:25

■武庫川〜染殿町
 ●武庫川橋を渡ります。「摂津名所図会」に武庫川の渡しの絵があり、小松の地名、岡太神社が「岡司(おかしの宮」の名前で出てくるので、ここのことだと思われる。渡船ではなく木橋が架けられていている。 北側にもう一つ、西国街道の渡船による、「髭の渡し」というのがあった。こちらは渡船によっているはずなので、中国道の方は木橋があったということだろう。左手に●岡太神社がある。     15:40

 このあたりを切り拓いた「岡司」一族が延喜元年(901)天御中主神を祭神として創祀したので「岡司宮」と称するということが伝わる。
 境内に●「伝小松内府平重盛卿供養塔」というのがある。
平重盛は平清盛の長男で小松内府と呼び慕われていたことから、このあたりは「小松庄」と呼ばれていたのだとか。
 また●尼崎藩の「従是東尼崎領」領界碑がある。この神社の狛犬は恵美須大神の使いとされる猪の形をしている。

 甲子園五番街に来ると、左側に「甲子園球場」がちらっと見えるが、東側を通る国道340号は「枝川」の跡で、六石(ろっこく)の渡しがあった。
 ●阪神今津駅を通過ぎる。津の文字が付くので、このあたり海岸だったのではないかと思う。
 染殿町に来ると●道が二叉に分れていて、右の方が旧道であると言われるが、右の方は東川にぶつかって、その先に道がない。そこで左側を行くことにする。  16:30

 ■染殿町〜西宮神社
 東川を渡る、本町橋のたもとに●大岩大神が祀られている。橋を渡って右手に●「正念寺」があるあたりの交差点が北からやって来る「西国道」の合流点と思われる所だ。ここは西国街道を歩いた、今年の6月12日以来の再訪となる。ただし本来の西国街道は正念寺の裏手に来ているらしいので、合流点はここではないかもしれない。中国街道は真っ直ぐ進む

 途中左手に●蛭児御輿屋伝承地という碑が建っている。古事記に出てくる、蛭児が流されて西宮に流れ着いたという伝説の場所である。この前の通りを札場筋というので、ここら辺に西宮宿の高札場があった所といわれる。
 この先が●西宮宿のあった所である。西宮宿は西宮神社を中心に栄えて、東の鳥居手前に本陣があった。
 ここで今日の歩きを終えた方が切りがいいのだけど、一応西宮神社まで行ってしまおうと思う。   16:42

 西宮神社東側鳥居の奥の●「表大門」は、慶長9年(1604)、豊臣秀頼により再建された建物で国の重要文化財。
 神社を囲む全長247mの●「大練塀」は、京都「三十三間堂太閤塀」、名古屋「熱田神宮信長塀」と並ぶ日本三練塀の一つで、室町初期の作とされている。ちなみに練塀とは練り土または漆喰と瓦とを交互に重ねて築いた塀をいい、強固に造ることができる。信長塀などは油で固めて大砲にも耐えられるというほど。

 ●西宮神社拝殿
 古事記、日本書紀に書かれる・・・伊邪那岐、伊邪那美二柱の大神が最初に生み給いしお子は骨のない蛭児であり、吾が子をあわれと思いつつも、葦船に入れて海へ流してしまわれた。その流された蛭児の神が、この地あたりに流れ着き、祀ったのが西宮神社であるという。る
 天文3年(1534)の兵火により焼き尽された境内も、慶長9年(1604) から秀頼により拝殿、本殿等全て元に復したと言われています。国宝だった本殿は、先の空襲により焼失してしまったが、昭和36年、ほぼ元通りに復興された。
 西国街道以来2度目だけど相変らず朱色が鮮やかな美しい形をしている。
以上で山陽街道、大阪からここまでを中国街道というようだが、一回目終了する
   16:50

 2 西宮宿
 古来西宮は広田、西宮神社を中心に信仰により繁栄してきた町であり、西国街道や中国街道が合流していた、重要な交通路であった。宿場は西宮神社を中心に南北に開け、本陣、脇本陣があり、高札場がえびすお旅所の所にあった。 

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