山陽(中国)街道を歩く 5
                 (兵庫 〜 明石まで)
歩行地図はこちら
 兵庫駅−長田神社−天神町−須磨寺町−須磨浦公園−舞子公園−大蔵本町−明石駅  18.2km        
 

2011年11月3日  8:26
■兵庫駅〜長田神社
 JR新快速で兵庫駅着。早速駅前から●広い道を斜めにまっすぐ進むます。このあたりも阪神大震災から復興したのでありましょう。
 1200m程進むと、右手に「式内 長田神社」と書かれた石碑が立って、●長田神社への参道がある。朱塗りの鳥居が立っているが、ここは神社の正式な参道ではないようだけど、商店街で賑やかなのでこちらを通ることにした。 8:58

 ●長田神社は、官幣中社で祭神は事代主神。広田神社、生田神社とともに神功皇后由緒の名社とされる。社殿は昭和3年再建のものが、阪神大震災で倒壊し、再再建されたものになるが、均整のとれた美しい社殿と思う。七五三で出店が出て、何組か親子連れが来ている。
 境内には、●根がつながっている、二本のクスノキがある。
 また歌舞伎俳優「中村時蔵」寄贈の燈籠があるが、村上天皇奉納の、雨乞の石灯籠とも云う燈籠は本殿囲いの中で、よくわからなかった。   9:05

 ■長田神社〜妙法寺川
 
街道に戻る前に、右手、「村野工業高校」の玄関南方にある●監物太郎の碑を見る。監物太郎は平知盛の家臣で、源平一の谷合戦で活躍。落のびる際、平知盛、知章父子とともに主従3騎となりながら敵を相手に奮戦し、討ち死にしたが、その間に知盛は逃げることができたという。 
 街道に戻り、ちょっと先の新湊川橋の手前、右手奥に●源平合戦勇士の碑がある。源平一の谷合戦で戦死した、「平通盛」、源氏の「木村源吾重章」、「猪俣小平六則綱」らの碑が西国街道沿いにあったのを、「平知章之碑」と共に、ここに敵味方のへだてなく祀ったもの。隣には、「阪神淡路大震災慰霊碑」がある。    9:26

 新湊川橋を渡ってすぐ、右手に長田神社参道がある。こちらは本当の参道らしく、静かなもので商店などがない。入口の狛犬が何故か足を縛られている。
 「大道通」を進む。長田地区は一番被害が大きかった地区と聞いている。道は広くてきれい。●蓮池公園の中に「旧西国街道案内板」が設置されたている。ちなみに蓮池は奈良時代行基が水不足解消のため開いた池を埋立てたもの。
 蓮池から1800mほど行くと、上り坂になって、●「妙法寺川」が細い川になって、天井川になっている。 10:10

 ■妙法寺川〜天神町
 
高速高架をくぐって、すぐ右手に浄国寺がある。境内左手に●6基の一石五輪塔があり、地輪部分それぞれに地蔵像が刻まれているのが珍しい。
 その先の●道路は歩道が広く取ってあり、歩道の中にまた歩道があり、両側に花壇があって、きれいで素晴しい。

  10:30

 右手「山陽電鉄」の踏切脇に●松風村雨堂がある。謡曲「松風」の「松風」、「村雨」の2人の姉妹にまつわるお堂。話が長いので「案内板の解説」に従いたい。在原行平が別れに臨んで手ずから植えたという松(磯馴松)の切り株が残っている。彼はこれに形見の烏帽子・狩衣を掛けたので、この松は衣掛松と呼ばれている。
 道路左側歩道の脇に探検家「松浦武四郎」が立てた、「綱敷天満宮」への道標が立ち、左奥へ行くと●綱敷天満宮がある。菅原道真が大宰府に左遷されたとき、途中暴風雨に遭って漂着、土地の人が漁船の綱を敷いて休んでもらったという伝説が残る神社である。  10:45

 ■天神町〜須磨寺町
 
街道に戻った先の、右手は旧前田家の敷地であり、移転前の須磨警察署があって、現在は菅の井広場として整備されて、●「管公手植の松」跡などがある。
 ここから山陽鉄道「須磨寺駅」を過ぎて、須磨寺へ向うわけだが、手前の線路を渡った所に頼政薬師と呼ばれる、浄福寺がある。旧家前田家の建立と伝えられ、本尊は●薬師如来。脇に十二神将がいる。源三位頼政が再興したので、こう呼ばれる。   11:02

 「須磨寺駅改札口」の前に●「平重衡とらわれの遺跡」という石碑と御堂がある。寿永3年(1184)2月7日源平合戦の時、生田の森から副大将平重衡は須磨まで逃れてきたが、この地で源氏の捕虜となった。住民が哀れに思い、酒を勧めたところ、大変喜んで、一首歌を詠んだという。後に鎌倉に送られて処刑された。
 駅から●須磨寺への参道が続く。商店街となって、人出はまあまあという感じ。   11:07

 須磨寺は真言宗須磨寺派大本山。本尊は頼政が安置したという聖観音
 源平合戦ゆかりの寺として知られ、多くの宝物を有する。
●本堂は秀頼が再建したもの。
 境内の●「源平の庭」は平敦盛と熊谷次郎直実の一騎打ちを再現した庭である。この時敦盛が身につけていた「青葉の笛」が宝物館にある。
   11:20

 ■須磨寺町〜須磨浦公園
 駅まで戻って来て、駅の北側を抜けていくと、現光寺がある。光源氏がわび住まいをしていたところと古来より語り継がれきた寺といわれ、入口には●「源氏寺」と彫られた大きな石碑が立っている。
 ちょうど大きな葬儀の最中で、境内に立入られる雰囲気でないので、門前で失礼した。
  現光寺の前の「須磨教会」の脇を上がって行った所に、関守稲荷神社というのがある。「須磨の関跡」といわれてきた場所であるが、境内に●「長田宮」、側面に「川東左右関屋跡」と書かれた大きな石碑があり、ここと離れている地点で明治初年に掘り出されたもので、結局「須磨の関」の位置関係はわからなくなったということらしい。  11:42

 旧道は国道2号に合流するが、合流地点右手に●「村上帝社」がある。平安末期太政大臣藤原師長は、琵琶の名手であったが、入唐して奥義を極めたいという志を持って、須磨まで来た時に、村上天皇の精霊が老夫婦の姿となって現れて、師長に琵琶の神技を聞かせ、渡唐を思いとどまらせたという伝説がある神社である。
 神社は線路に分断されて、ガード北側に●琵琶塚がある。
「山陽須磨駅」を過ぎると、右手は源平合戦ゆかりの、須磨浦公園。左手は大阪湾の海辺となっている。 11:50

 公園の「みどりの塔」手前のガードをくぐると、ジグザグの急な階段があり、上って行く。その先に、一の谷公園があり、その中に●安徳宮がある。安徳帝は平家一門に奉じられて西走の途中一ノ谷に内裏を置かれたと伝わる所である。社前の燈籠は明治37年「モルガン ユキ」が奉納したもの。
 近くに昭和9年、中村直吉氏が三つの女学校に寄贈した●皇女和宮像の内の一体がある。
   12:27

 ■須磨浦公園〜東垂水駅
 
須磨浦公園の中に●「源平史蹟 戦の濱」碑がある。いわゆる義経の鵯越逆落しがあった、合戦跡と思っていたけど、色々調べると、JR兵庫駅の北方に「鵯越」の地名が広がり、一の谷は兵庫駅から、和田岬にかけての場所らしい。そうなると「安徳宮」などは、一の谷合戦で敗退後、西方へ逃げてくる最中の出来事であったと思えば納得がいく。
 「●阪神大震災記念モニュメントがある。みどりの塔」を囲む石柱の上の石の地球儀が地震で落ちたもの。落下の様子を説明した碑文が置かれている。    12:37

 須磨浦公園駐車場先に●「敦盛塚」がある。花崗岩製で、総高4m近い大きなもので、中世の五輪塔としては石清水八幡宮五輪塔に次ぎ、全国で2番目の大きさを誇る。室町末期から桃山にかけての作になる。平敦盛の供養塔という伝承から敦盛塚といわれている。
 公園の終りあたりに、摂津と播磨の国境の川である境川があるといわれていたが、小さくてわからず通過ぎた。
 JR塩屋駅を過ぎ、山陽電鉄滝の茶屋駅付近の左側は、下水処理場が緑地公園になっているが、このあたりから、前方に、●明石海峡大橋の橋脚が見えてきた。想像以上に大きい。    13:35

 東垂水駅〜舞子公園
 福田川を●福田橋(渡った東向)で渡る。大正15年竣工のもの2連のアーチ橋で、80年以上経っている。
 右手に●海(あま)神社がある。左手、海岸方面に大きな朱塗りの鳥居が立っている。参道が国道で分断されたわけだ。
 祭神は底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の3神。この神社も神功皇后に由緒がある神社である。狛犬が変っていて、左側が赤ちゃんに乳を飲ませて、右側が赤ちゃんをおんぶしている狛犬で、なんとも可愛い姿をしている。

 JR垂水駅の先の右手、高台の上に有名な●五色塚古墳がある。全面的に石葺きで、古墳本来の形をしているというし、以前から見たいと思っていたので、絶対行こうとしたら、国道から行く道が全然なく、駄目かと思っていたら、だいぶ先にガードがあった。そこをくぐってから500m位戻って見に行った。全長194mだが、全面石で覆われ、石の総数は223万個に及ぶ。青い海を背景に石で葺かれた灰色の巨大な人工物がそびえて、当時としては、なんとも異様な景色をしていたということが想像される。    14:40

 古墳の先は両側に「舞子公園」が広がっている。古くは舞子の浜と呼ばれ、江戸時代には多くの茶屋があった。明治時代に入ると明治天皇や有栖川宮がよく訪れ、有栖川宮の別荘が建てられたりもした名所であった。
 中程に●旧武藤山治邸がある。鐘紡の中興の祖と言われ、衆議院議員として活躍した武藤山治が、明治40年に舞子海岸に建てた住宅を移築したもの。
 海岸縁に●孫文記念館(移情閣)がある。建物自体は華僑の貿易商、呉錦堂(1855年〜1926年)の舞子海岸にあった別荘で、1915年建築の現存する日本最古のコンクリートブロック造、八角三階建で、国の重要文化財に指定されている。15:05

 ●明石大橋と淡路島のパノラマ
 「舞子公園」は明石海峡大橋の直下にあるので、対岸の淡路島までの美しいアーチがはっきりと見える。淡路島までは4km弱。島の北方の一番細い部分が見えているわけ

   

 ■舞子公園〜大蔵本町
 「舞子公園駅」を過ぎたあたりで旧道は左手に折れる。ここはすぐ又国道と合流する。
 その先、「朝霧駅」前で国道28号が左に分岐して行く。旧道はそのまま過ぎて、その先にある朝霧川を渡る直前から●左斜めにわずかに旧道が残っている。しかしそこは護岸壁で通せんぼになってしまうので、朝霧川を渡ってから左斜めに続く旧道へ入る。
 ここが●「旧明石宿(大蔵谷宿とも)のあった町で、ここも大震災で被害を受けたということだが、それでも、格子窓や軒うだつなど古い町家を見ることができる。    15:50

 大蔵中町に入って、右手の●大蔵会館の前には受持姫大明神がある。この付近に本陣があったといわれている。
 大蔵本町の交差点を右折した、突き当りに●稲爪神社が鎮座している。推古天皇の頃、三韓より鉄人来襲、討伐を命じられた伊予国の小千(越智)益躬は、大山祇神のお告げにより、鉄人の唯一の弱点である足裏を射って撃退した。 小千益躬は大山祇神に感謝し、大山祇神社を勧請したことに始まると伝えられる。  16:01

 4 明石宿
   明石は江戸時代、明石藩領であり、明石藩は西の大久保新町と東の大蔵谷村に宿場を設置した。大久保は戦国時代から山陽街道の宿場として栄えており、慶長年間に本陣が置かれ、旅籠が十数軒あったといわれる。江戸時代の大蔵谷宿は山陽道屈指の宿場として栄え、宝永元年(1704)には屋敷294、人口1781人、本陣1、旅篭屋60、その繁栄は明治まで続いた。
 (兵庫県史、兵庫県地名辞典、明石市史等)

■大蔵本町〜天文町
 
大蔵本町の交差点を直進した左手に大蔵院がある。その境内に●赤松祐尚夫妻の墓がある。 嘉吉元年(1441)、将軍・足利義教を暗殺する、いわゆる嘉吉の乱を起こした「赤松満祐」の弟にあたる。満祐の自害後、再び挙兵した際、大蔵谷に陣を張り、居城を三木城に移すにあたって陣跡を寺院にしたのがこの大蔵院。
 大蔵院の先、明石人丸教会の所で、いわゆる●枡形になっている。   16:10

 ここで小さな寄道
 枡形の所を右折して行くと、左手に入った所に●「忠度塚」がある。寿永3年(1184)一ノ谷の戦いので敗れた平忠度が両馬川まで来たとき、岡部六弥太忠澄に討たれ、その亡骸を埋めたところと伝える。ちなみに岡部六弥太の墓は、埼玉県岡部にあり、中山道を歩いた時見ている。
 続いて「山陽電鉄 人丸駅」南側の天文町1丁目に●腕塚神社というのがある。岡部六弥太と戦った際、切取られた右手を埋めたとされる。  16:25

 天文町〜明石駅
山陽線の北側に●明石天文科学館が建っている。いうまでもなく、明石市は日本標準時となる、東経135度の子午線が通っている場所である。科学館は日本標準時子午線の標識を兼ねており、ここの時計が日本の標準時となるわけである。 人丸教会前の枡形に戻って、右折する角に明治43年明石郡小学校の先生方が費用を負担して建てた●「大日本中央標準時子午線通過地標識」がある。自分のガーミン製のGPSを見ると135.00.04.4だった。微妙な誤差がある。16:35 

 大部、暗くなってきた。街道を進んで行くと、本町1丁目の所で又●枡形のようになっている。右手はすぐ明石駅である。
  右折した先は●アーケードのある商店街。
 この先「大観橋」を渡るわけだが、暗くなってきたので、ここで終ることにして、明石駅へ戻って帰宅した。兵庫から5里だけど、寄道が多くて、23kmを越えてしまった。  16:50

 山陽街道TOP   4 三宮〜兵庫  6 明石〜加古川