山陽(中国)街道を歩く 6
                 (明石 〜 加古川まで)
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 明石駅−大観橋−西明石駅−中谷西−大久保−金ヶ崎−清水−谷在家−野口−平野−加古川駅    20.3km        
 

■明石駅〜大観橋
 2010年11月20日 明石駅8時45分到着
  前回の駅南側、枡形の所を右に曲った、●商店街から始めることにした。街道は本町2丁目の所から、国道718号と一緒になる。2丁目の角に高札場があった。
 旧道は2丁目で屈曲していたが、現在は全くの直線になっている。
 ●大観橋に到着した。昔は橋の西詰に姫路門が設けられていた。明石川はかっては徒渡りであった。すぐ先は播磨灘である。すぐ斜め右手に行って、突き当りを右折、山陽電鉄の踏切とJRの高架をくぐって、西新町1丁目で左折する。右手の嘉永橋の向うは明石公園で、明石城などがあるのだけど、ま 、見ないですませ先を急ぐとしよう。   9:15  

■大観橋〜JR西明石駅
 すぐ右手に●十輪寺がある。藤原鎌足の孫、宇合が明石郡内に七仏薬師を作ったとき、あと一体の薬師を作り、ここに安置した。そこで八体薬師とも呼ばれるようになった。すぐ左手に、●「太閤さん縁の木」という焼けた杉の幹がある。豊臣秀吉が戦勝を祈願して手植えした杉が、高さ25mでこの辺の名勝だったが、空襲で焼け残った時、始末しようとしたら古老が「それは残しとけ、太閤さんの木やで」と言ったので、焼けたまま残してあるという。9:30

 十輪寺から700mほど行くと国道175号線に出る。ここから先は、4m弱の細い道になり、右手石段の上に「坂上寺」があり、門前に安永9年の「大師舊跡」などの石標が立つ。
 坂上寺からの道は●和坂(かにがさか)という超難読地名の坂道を上って行く。
 古い民家などが残る、囲気のよい静かな道をしばらく行くと、国道2号線に合流した。信号1つ分、200m進んでから、●花園町、松の内で左手斜めの旧道へ入って行く。9:56 

 ■JR西明石駅〜中谷西
 
入ってからはJRや新幹線、西明石駅前の繁華街で、ほどなく●西明石駅交差点になって、旧道は通せんぼされてしまった。
 新幹線の方の駅ビルの脇を通り抜けて、駅の北側、●JA西明石支店の左脇の所から、旧道が復活している。右手には栽松寺・三社神社がある。
 10:10

 神社の先は国道2号線に合流した。旧道は国道を北西方向に斜めに横断し、その先も道が通じていたのだが、今はないので、国道を行くしかない。
 「中谷東」の右手に●小久保交番があり、そのすぐ北側に旧道が続いている。
 旧道に入ると、左手に公園があり、入口右手に地蔵尊が安置されている。その公園フェンスに西国街道の案内板が架かっている。沢地小学校6年生が書いた案内板で、この前の道は、西国街道で、大名行列が通ったかもしれませんなどと書かれていた。旧道はまた国道に出て、●そのまま斜めに横断して左奥へ伸びている。  10:30

■中谷西〜大久保
 大久保町の●旧道は幅4mほどになり、所々に古い民家が見られた。右手に「住吉神社」がある。だんだん下り坂になってきて、坂を下りきった辺り、右手に長〜い塀があるのが、大久保宿、「本陣」であった●「安藤家」。
 大久保地区はは戦国時代から栄えていた所で、明石藩が設けた、西の宿場であった。 本陣の外旅籠が十数軒あったといわれる。 ただ案内板などなく、知らないとそのまま通りすぎてしまう感じがする。               10:55 

■大久保〜金ヶ崎
 
谷八木川の手前、左手に「大久保町公民館」があり、その前に●「大水害追悼の碑」がある。昭和20年10月9日の谷八木川と東川の洪水により17名の犠牲者が出た大惨事になった。終戦の直後で大変なことであっただろう。
 谷八木川を渡り、東川を渡り、坂を上がった、左手に木が茂って良く見えないが、●古びた洋館があり、門前に「明治天皇大久保御小休所建物」と書かれた石標が建っている。
 11:0

 JR大久保駅前を通過し、国道の●富士通工場前に出るが、手前の左手に虫籠窓を備えた古民家が一軒あった。
旧道は富士通とコカコーラの工場を斜めに横切っていたのだが、当然歩けないので、国道を進み、コカコーラの西側を右折して行く。なんとそこに「牧舎」があり、ホルスタイン牛が数頭飼われていた。国道脇で環境最悪で経営も、牛も大変だと思う。牧舎のすぐ隣から旧道が伸びており、600m位行くと●金崎宮の鳥居が立つ。地図には黒岩神社となっているが、元々黒岩神社といい、御神体は1.8mの黒岩で、住吉神社を合祀し、金崎神社と改称している。 11:40

 ■金ヶ崎〜清水
 
鳥居から300m進むと、二叉になり、角に●「左大山寺道」と書かれた道標がある。左の道は太山寺道というようで、神戸市西区にある、藤原宇合の開基になる、「太山寺」を指すと思われる。
 金ヶ崎へ入って来るが、この先は回りに「ため池」が沢山あって、その中の一つで、右手にある大道池の所が●長坂寺廃寺跡である。ちょうど教育委員会の案内板が立っているはずのところ、はがれてしまって無くなっている。長坂寺は奈良時代に広大な寺領を擁し、栄華を極めていたが、南北朝の戦乱、秀吉の三木城攻めでほとんどが焼失してしまったという。

 県道379号を横断し、左手に「魚住小」があり、ため池が散在している。「長池」は学校で二つに分断されてしまって、元はその名の通り、長い池だったそうだ。
 魚住町の●旧道は相変らずの4m程の道で、長屋門を備えた家がちらほら建っている。旧道は国道からずれており、お昼なのに、店や食堂がない。
 清水に入ると、右手に、えらく●立派な石碑が建っているので、見てみた。題名は読めず、内容は漢文で難しいが、弘化年間以来の水争いの中で、明治6年に石井太右衛門外、5名が死を顧みず訴えを出して勝った。というような事ではないかと思う。  12:40

■清水〜土山
 
石碑の先は急激な下り坂になり、途中の左手の墓地の中に●貞和2年(1346)の五輪塔がある。高さは1.76m、花崗岩製の五輪塔で、兵庫県の文化財に指定されている。
 また、右手に●清水神社が鎮座している。村社クラスと思うが、敷地が広く、祭神が顕宗、仁賢天皇というのがちょっと珍しいと思う。由緒書が見あたらないが、春日造り本殿が二つ並んでいる。   

 清水神社の隣が●西福寺。さっきの五輪塔はこの寺が管理している。境内にきれいな十三重の塔があるのが印象に残った。寺のはす向かいに、「右 あかしみち」などと書かれた、道標があったらしいけいど、気がつかなかった。
 150m程の先に、●瀬戸川が流れ、瀬戸川橋で渡る。奥に見えるタワーは「明石浄水場」のタワーではないかと思う。
 さらに先に清水川が流れ、昔はこの二つの川の中間に一里塚があったらしい。 12:57

ゆるい上り坂となり、やがて●清水新田集落に入る。ここも長屋門を備えた家が何軒かあった。このあたり墓地の再編成中で、水田の中に塔が建つ、ということだが、見あたらないので、墓石の一つではなかったかと思う。
 県道を過ぎ、イオンの脇を通って行く。イオンのの先が、加古川市との境界にあたる。
 土山の集落にも古民家が散在していた。土山薬師堂を過ぎたら、●JR山陽線の踏切へ来た。  13:58

 土山〜新在家
 
踏切を渡ると、右手に五社大神神社があり、少し行くと、右手に長松寺がある。境内左手に●「天童山老典座和尚と若き日の道元禅師」と書かれた彫像がある。道元が24歳のとき正法を求めて宋に渡り天童山にいた時の話で、その先の話は案内板でどうぞ。
 その先国道2号にぶつかるが、国道脇のラーメン店の後ろ斜めに行く細い道が旧道で、ただこの道はすぐその先の、平岡小学校の校庭に突き当たってしまうので、右折して又国道へ出る。学校の西端で国道から分かれて●右斜め前に入っていく道がある。先ほどの学校にぶつかった道は学校を斜めに横切り、ここにつながっている。   14:20

 旧道に入ってすぐ右手に「八幡神社」がある。神社から600m程行くと、●新在家第二公園手前の五叉路へ来た。神社と五叉路の間に一里塚があったらしい。
 五叉路から250m程でJR東加古川駅前からの道路にぶつかり、横断して細い道を行くと、新在家北交差点の手前や渡った角に大きな旧家が建っていた。
 さらに進むと●イオン加古川店にぶつかってしまった。旧道は店と駐車場の間を横切っているので、そのまま進んだ。

新在家〜野口 
 イオンに入る手前の空地に、大きな●五輪塔が建っていて、室町初期の作といわれる。案内板には「播州名所巡覧図会には「足利左馬頭義氏の墓というあり」とあります。とある。
 イオンの中で食事を済ませて出ると、隣は「東加古川ハイタウン」という団地で、そこも通過して行くと、右手に●野口神社がある。結構大きな神社で、立派な隋神門を持ち、社殿が大きい。祭神は日吉大社から勧請した、大山昨命。外4神を祀って五社宮という名前から改名している。  14:50 

 野口〜平野
 
その先右手に●教信寺がある。教信は時宗を広めた、一遍や、親鸞にも先達として仰がれ、特に、一遍はこの教信寺を終焉の地にと願って、淡路島より明石浦に渡ったが、船が兵庫浜へ回って、真光寺で往生された。
 教信寺から550m位行くと、2車線の大きな道路にぶつかり、信号を迂回して、坂元集落の中を進む。途中和泉式部の墓と伝えられる宝筐印塔があったりしたはずのところ、見逃してしまったりした。式部の墓は本当にあちこちにある。
 別府川を渡り、●平野東交差点へ来た。旧道は国道を少し行き、右手に入って行く。左折して南西に1500m行くと、有名な鶴林寺がある。どうしょうかと迷ったけど、時間が未だ3時過ぎなので寄ることにした。バスの時間が悪いので、少々駆足気味で急いで行った。往復30分、見学30分見当で短いけど、やむをえない。  15:15

  (少々の寄道)
 刀田山鶴林寺
 鶴林寺は加古川市きっての名刹。国宝、重文クラスの建物が、ごろごろしており、寺伝では鶴林寺は聖徳太子が立てさせた寺が始まりと言われていて、西の法隆寺といわれている。
 周囲は鶴林寺公園となっていて、東側の公園にはSLが展示してあった。
 ●楼門・・3間1戸、母屋造、本瓦葺、応永4年(1397)の銘がある。●国宝、本堂・・和様形式を基本として、大仏様や禅宗様が使われて、折衷様式の代表例として、建築史の本には必ず載っている。扉が開放されていて入りやすい。

 ●三重の塔
 室町時代の創建だが、江戸時代に大修理が行われている。放火にあったりして、昭和55年の解体復元修理でされて、新しいせいか、重文ではなく、県の指定文化財。
 ●常行堂
 もとは太子堂と同じく檜皮葺であったものを1566年に瓦屋根に葺き替えたという。蔀戸(しとみど)や板扉を用い、簡素で上品な落ち着いた建物である。「常行三昧」(じようぎようざんまい)という、口で呵弥陀仏を唱え、休むことなく何十日も歩き巡る厳しい修行が行われた。その遺構としては日本最古のものである。

 ●国宝・太子堂
 太子堂は堂内に壁画の聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれているが、元来は「法華堂」と称された堂で、本堂手前左方に建つ常行堂と対をなしている。檜皮葺で屋根上に宝珠が載せてある。須弥檀後方の壁などに仏涅槃図や九品来迎図の極彩色絵図が描かれているが、ススで見えなくて、赤外線写真によって発見された。という。
●法華一石一字塔
 明和8年に建立された供養塔で、法華経の文字を一つの石に一字づつ書いて千部収め、読誦して回向し三界万霊の菩提をとむらった。
 ・・・というような具合に、国宝、重文クラスの建物などが沢山あり、開放的なお寺なので、又機会があればゆっくりと見たいと思いました。

■平野〜加古川駅
 鶴林寺から1500mまた駆足気味で戻って来た。国道2号を少し進み、●右斜めに入って行く。
 右手に龍泉寺がある。境内左手に●竜泉寺五輪塔がある。誰かの墓というわけではなく、「法界衆生、平等利益」を祈願するもの。康永3年(1344)閏2月8日の銘があり、道路拡幅により、西方150mより、現在地に移されたもの。
 16:15

 寺から100m程先の右手に●胴切れ地蔵というのがある。ある人が、うっかり殿様の行列を横切ったために、供侍に無礼打にあい、胴体を真っ二つに切らた。ところが自分の胴体はなんともなく、地蔵さんの胴が真っ二つになっていたという。
 身代りで切られたという胴は、うしろから覗くと本当に斜めに切れているのがわかる。
 左手の家は、少し古いが、連子格子の黒塗りの家で、2階の軒うだつが家の真中にあるもので珍しいと思った。このあたりは旧宿場の面影を残していると言える。 16:23

 加古川駅に通じる道との交差点●氏家町にやって来た。正面の細い道に旧道が続く。加古川宿の中心になる所である。
 で、午後4時30分になり、暗くなってきたので、本日はここまでとした。右折して加古川駅へ向い、名前が
付いているのかわからないが、●歩道橋の真ん中がタワーになっている。
 加古川駅から新快速で帰宅した。
 16:30

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