山陽(中国)街道を歩く 7
                 (加古川〜姫路まで)
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 加古川駅−宝殿−神爪−阿弥陀−豆崎−別所−御着−播磨国分寺跡−市川橋−姫路城−白鷺橋南  23.6km        
 

■加古川駅〜本町
 2011年12月4日 加古川駅着 9:00
 駅到着後、直ちに前回の終了地点、寺家町信号の所へ戻り、右折して進んで行く。すぐに●加古川一番街というアーケード付の商店街にぶつかった。ここは加古川宿が置かれていた所。
 ●左手の空地のあたりが、案内表示が見えなかったけれど本陣があった場所ではないかと思う。本陣は中谷家が勤めた

 5 加古川宿
 交通の難所の一つであった、加古川の渡しがあった為、鎌倉時代から宿があり、参勤交代が始ったことにより本宿となった。寺家町と加古川本町に宿場が置かれ、寺家町の庄屋中谷氏が本陣を勤めた。

 ■本町〜加古川橋
 
アーケードの終るあたり、右手に●人形の店陣屋がある。陣屋は、姫路藩加古川役所として宝暦2年(1752)に建造され、参勤交代の際、加古川宿を通行する大名の接待などに使われた。明治18年には明治天皇の西国行幸の際、昼食場所として用いられた。
 加古川宿のあったこの辺には、何軒か●黒壁で軒卯建を備える旧家が残っている。  9:15

 街道から左へ入って、国道2号の左手に称名寺がある。ここは、加古川城跡といわれ、「糟谷有数」が源頼朝よりこの地を与えられ、寿永3年(1184)に築城されたという。その後関ヶ原の合戦では西軍についたため、領地没収の上、廃城となった。跡地に称名寺が建っている。
 境内に●文政3年(1820)建立の七騎供養塔がある。南北朝時代正平5年(1350)、塩治高貞が讒言により、京都を追われて、出雲に落ちていく途中、足利尊氏の軍勢に米田町船頭付近で追いつかれ、主人を討たせまいと激しく戦った忠臣七騎が全員討ち死にしたという。七人塚が加古川向うの船頭地区にあったが、洪水で流された。
 街道は、加古川にぶつかった。加古川は昔は渡船によっていた。現在は勿論●加古川橋を渡ります。   9:35

 ■加古川橋〜宝殿
 
旧道は橋を渡ってすぐ、左手の細い道へ入り、ここは150m程で国道へ合流し、●ニッケ印南工場のレンガ造りの工場を見ながら右手斜めに平津の集落に入って行く。ちなみにこのニッケの工場は大正8年の創業で、のこぎり型の工場だが、設備は最新という。
 右手に妙見宮があり、その先の右手奥に福正寺がある。境内に●石棺仏というのがある。この石仏は、縦に半分に割られた古墳時代の家形石棺の蓋に、地蔵菩薩立像を彫ったというもの。室町時代の中期またはそれ以前に造られたものと考えられます。・・・ということだった。  10:00

■宝殿〜神爪
 
右手にJR宝殿駅がある。駅は高砂市に入っている。駅前に●「尉と姥(じょうとうば)」発祥地の碑があった。高砂市は例の結婚式でおなじみの「高砂や〜〜♪ 」の発祥地。由来は碑文を読んでもらうとして、高砂神社は宝殿駅から南西の加古川縁にある。
 その先の街道左手の「回転焼」のお店の脇から真っ直ぐ進む道は本殿の名前の由来になった、「石の宝殿」のある●生石神社への参道。右手に、「左石寶殿 コレヨリ十三丁」と刻む道標が斜めに、ヨレヨレになって立っている。宝殿とは7世紀頃造られたといわれる、巨石で三大奇岩の一つ。10:15

 宝殿駅前を通り、踏切を渡って線路の北側へ行き、しばらく行くと、左手に●生石神社の一の鳥居だけが立っている。さきほどの参道は真っ直ぐ進んでいるが、こちらの参道は開発でずたずたになっているようだ。
 ●神爪の集落に入る。前方に現れる山は(名前がわからないが)、石材を取るために相当岩肌がえぐられている。おまけに樹木が少なく、はげ山に近い。
 10:27

 ■魚橋〜阿弥陀
 
しばらく行くと、左手に「覚正寺」があり、右手に少し高台になった空き地があり、●五輪塔や、一石に三尊を刻む石像などがある。五輪塔は地輪、水輪が最近修復されている。後ろの倉庫に「神爪の五輪祭」と書いてある。
 少し行くと加古川バイパスの高架が現れ、高架をくぐりすぐ左折。法華山谷川を渡ります。魚川橋を渡ると、●魚橋の集落に入る。  10:42

 右手山裾の高台に「八坂神社」、幸福地蔵などがあり、街道右手に●土田家住宅、旧魚橋郵便局舎が建っている。緑色の洋館のような建物は明治の初期、各地の有力者の家を改造して郵便局にしたもので、国の登録有形文化財。
 その先の正蓮寺の門前に、●作曲家・佐々木 英(すぐる)の碑がある。佐々木 英は正蓮寺境内地に生れ、大正12年に、「月の砂漠」を作曲し、主として童謡を2000曲に及ぶ作曲をする活躍をされたということだそうです。10:55

 この先●魚橋西で国道を斜めに横切る。
 回りを見回すと、●このあたりの山々がどうも樹木が少なく、採石の影響もあると思うが、変な表現で悪いけど、はげ山が目に付くので、調べてみた。
 この当りの地質が水をとおしにくい性質をもつため植物が生育しにくい、小雨である、赤穂藩などの製塩のため燃料として樹木が大量に伐採された、などの理由がからみあってはげ山の景観となったということのようだ。それにしてもあまり見たことのない風景なのでちょっとびっくりした。 11:05 

 ■阿弥陀〜豆崎
 
鹿島川を渡り阿弥陀集落に入る。しばらく進んだ右手に●薬師堂があり、門前に地蔵尊が三体がある。三体共かなり古いもの。お堂に鍵が掛っており、中に入れないが、四国西国秩父板東供養塔という何でもありの供養塔が立っている。
 左手奥の●浄土宗、地蔵院参道入口に、「明治天皇御遺跡 地蔵院」と刻む石標があり、本堂横にも「明治天皇阿弥陀御小休所」と書かれた石標がある。明治18年、明治天皇が山陽道御還幸の際御小休所となったという。11:28

 この先の公民館の脇道を左に入って、山陽本線の踏切を越えると、●時光寺がある。播州善光寺とも称される 。1249年に時光上人が海中から阿弥陀如来像を引き揚げ、これを本尊として創建したことに始まるという。このことがこの辺りの「阿弥陀町阿弥陀」という地名の由来になっているという。
 門前の●宝篋印塔は南北朝の、康暦2年(1380)の建立。相輪は新しいが、保存も良く、造りも丁寧で、この地の代表的作例といわれる。 11:40

 ■豆崎〜姫路市、別所
 
街道に戻って進み、県道の高架手前、右手、公民館隣の小高い場所に、●大日寺、石造五輪塔、石仏がある。五輪塔は南北朝、暦応5年(1342)のもの。石仏は永正4年(1507)のもの。JR曽根駅付近のガード下左手には、付近から集められた道標が4基並んでいる。
 道はガードを越えて右折し、「豆崎」交差点に至り、横断してすぐ先の脇道を右に入る。
 やがて姫路市境界を過ぎて、先に進むと、道は、倉庫の建物で、一旦途切れてその敷地の先で復活している。右手には、●六騎塚というのがある。嘉永3年(1850)左和田清左衛門範一建立の「備後守児嶋君墓」 」と刻まれた碑が建つ。「太平記」によると、 延元元年(1336)足利尊氏が大軍を率いて九州から東上してくるのを備後守範長が迎え撃ったが、戦いに敗れ、最後に主従6騎となり、阿弥陀宿の辻堂で自害したという。12:25

 別所の部落に入り、右手に「大池」などを見、日吉神社の鳥居がある。右手奥の安養寺の左手に寛政13年(1801)の廻国供養塔があったりする。
 さらに右手に●弁慶地蔵堂がある。案内板によると弁慶の母は、福居村(別所)の生まれで、父は熊野神社の別当。
 弁慶が京からの帰途、福居村庄屋の娘玉苗と一夜を共にしたのがこの地蔵堂と伝えられている。
 国道2号を斜めに横切って、細い道に入り300m程で播但連絡道の高架下を過ぎると、●御着の集落に入って行く。

■別所〜御着
 
御着の集落に入ると、道の右側に小祠があり、塞の神が祀られている
 右手●延命寺がある。門前には「明治天皇御着御小休所」の石碑が建つ。境内には貞和元年(1345)の銘を持つ上部の梵字が破損した板碑がある。
 延命寺の隣には、●大歳神社がある。御着の氏宮で社格は元郷社。隣の延命寺が別当寺だった。絵馬殿に立派な絵馬が多数架かっている。13:28

 神社の先の左に曲る右手に「都市景観重要建築物」に指定された白壁と黒板塀の豪邸、●小原家住宅がある。
 その先右手●御着公会堂の所は「御着宿本陣」があった所 御着は姫路―加古川の「間の宿(あいのしゅく)」。この辺りに敷地2100坪、建坪130坪の本陣があったと説明がある。本陣は天川氏が勤めた。
 御着宿には外にも都市景観重要建築物」に指定された建物や白壁やうだつのある古い家並みが残っている。13:40

  6 御着宿
 ごちゃくと読む。地名の由来は神功皇后が上陸されたとか、国分寺造営時に聖武天皇の勅使がお着きになったなどの説がある。御着宿は間の宿で、主として西国大名が東上の際宿泊した。脇本陣がない。本陣は大庄屋天川氏が勤めた。

■御着〜播磨国分寺跡
 
その先で右手に入って行き、国道2号の歩道橋を渡ると●御着城跡公園がある。市役所東出張所が御着城を模して造られている。
 御着城は、永正16年(1519)小寺政隆が築城。天正年間秀吉に攻められて落城したとされる。
 御着城跡の公園中に「黒田官兵衛孝高」の記念碑があり、公園の脇に●黒田家廟所がある。黒田家は、官兵衛の祖父「重隆」が御着城主小寺氏に仕え、職隆、孝高と続くが、孝高が秀吉に仕え、長政以降その子孫は、筑前福岡城主となる。  13:45

●播磨国分寺跡
 天川橋を渡る。山陽本線踏切手前を右折して行くと、播磨国分寺跡が広がっている。
 往時には2町四方に、南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、中門と金堂は回廊で結ばれ、東側には七重塔があった。現在の国分寺は寛永16(1639)姫路城主となった松平忠明が再建したもの。 14:00

■播磨国分寺跡〜市川橋
 踏切からから130m程の所の左手に白い標柱があり、●「山陽道一里塚跡」と書かれている。次の一里塚は、東は高砂市豆崎、西は姫路市下手野とある。
 しばらく進むと、バス通りの道を横断し、段々山裾が左手に迫ってくる道となってきた。
  左手の民家の脇を入って行った所の上方に、●山脇の溺死菩提碑がある。寛延2年(1749)m姫路城下は大洪水にみまわれた。市川洪水による犠牲者408人にも上り、7回忌に造立されたもの。 14:33

 ■市川橋〜東光中学校
 道は右折し、JRの高架をくぐって、国道2号へ出て、●市川橋を渡る。市川は船渡しで、橋の北から渡っていたという。
 西詰の交差点の所を右斜め前方に旧道があるので、進んで行く。
 350mほど進むと、右手に地蔵院がある。庭の西側に石棺仏があるという案内板が立っているが、門が閉ざされているので見ることができない。
 大善町の交差点から4車線の道を西へ進み、京口駅の高架下をくぐった先で右折、京口駅前を左折する。城下町らしく直角に右左に曲って行く。
 東光中学校の所に案内板が立っており、ここが●「外京口門跡」であった場所で、姫路宿の東の入口にあたる。昔の図も書いてあるけど現在の姿から想像するのは非常に難しい。   15:11

 ■東光中学校〜姫路城
 
国道372号を越えた、右側の●五軒邸という町は「大法寺」、「圓光寺」など5寺が集まって、「寺町」を形成している所である。
 さらに北に行った、福居町から米屋町まで続く町並みは、家がノコギリの様に、ギザギザに並んでいるので●のこぎり横丁と呼ばれる。このような家並みは甲州街道、韮崎宿、中山道坂本宿で見ているが、大名行列を真正面から見なくてすむとか、防衛上の理由とかあるらしい。 15:35

 街道に戻ってきて、西へ進み、堀の一つ手前を左折し、南下して、国道2号を過ぎて、一つ目を右折する。
 その途中、右手の国道向うにある、播磨国総社である●射盾兵主神社に向った。式内社で、楯大神(いたてのおおかみ)と兵主大神(ひょうずのおおかみ)を祭神として祀っている。 参道の石鳥居は、慶安5年(1652)藩主榊原忠次が寄進したもので、県指定文化財。
 総社であるためか、境内には境内社が多かった。15:58 

 ●姫路城
 街道を離れて、姫路に来たからには、姫路城というわけだが、残念ながら、只今平成26年度までの大修理中で、素屋根におおわれて見ることができない。
 この3月に大天守修理見学施設「天空の白鷺」(てんくうのしらさぎ)という施設がオープンして、修理中の様子が見られるということだが、時間がなくて、見られず残念。城見台公園に鯱瓦が復元されていて、高さ190cm、重さ250kgもある。


16:05

■姫路城〜白鷺橋南
 街道に戻って来て、元塩町から、二階町へ入ると、●アーケードの商店街続いている。
 西二階町のアーケードの左手に、姫路宿の本陣があったという看板が左手に架けてあった。姫路宿の本陣は3軒あり、ここの本陣は椀箱屋三木氏が勤めた。伊能忠敬も泊っているとか。アーケードを通過して、船場川架かる●白鷺橋南へ到着、船場川手前に備前門が枡形のように屈折して置かれていたが、現在では直線になっている。  ここで本日は終了することにした。 姫路駅から新快速にて帰宅    16:30

 7 姫路宿
 姫路藩の城下町として発展した。藩主池田輝政が城の北方を通過していた、山陽街道を外曲輪内を通し、播磨街道、生野街道と合流させ、本町、二階町筋に本陣3軒、脇本陣を置いた。

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