山陽(中国)街道を歩く 20
  (御庄~周防高森)
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 御庄-思案橋-柱野-古宿-中峠-欽明峠-玖珂-阿山-周防高森      16.6km        
 

2013年3月24日
■御庄~御庄川
 新岩国駅前「扇屋ホテル」を8時前に出て、御庄宿入口へ向う。御庄大橋から入口まで旧道は消滅しており、大体渡し場から西南へ斜めに向っていたようである。
 入口右手に蓮乗寺という寺がある。●御庄の入口へ入る。御庄は当初東寄りの所に成立していたが、寛文6年(1666)の錦川の洪水により河床が高くなり、延宝4年に(1676)北方の山際に移転している。
 中程に●本陣跡がある。「調査報告書」では写真が載っているが、現在は空地が広がるのみ。  8:05

 32 御庄宿
 錦川の河止の時の止宿用に作られた宿場である。錦川の洪水の為、山際に移転し街道の片側に屋敷が付けられた。長さは9町45間に及び、市屋敷114軒。庄屋が中央にあり、本陣に供された。 

★御庄宿
 ●御庄の町並を行く。明治以降主要な交通路からはずれたため、古い町並を残してきたが、山陽新幹線の駅が出来駅周辺は区画整理が行われ景観が大きく変った。
 右手に●多賀大明神がある。ここの境内は大名や大使等の通行に際し、人馬の集積場所に使われたという。
 御庄小学校を過ぎて、新幹線のガード脇に錦川鉄道の●御庄駅が見えるが、名称が「清流新岩国駅」に変っている。8:20 

 ■御庄川~思案橋
 新幹線と錦川鉄道のガードを続けてくぐると、●県道1号と合流する。前方に見える高架は山陽自動車道。
 しばらく御庄に沿って県道を進んで行く。途中錦川鉄道のガードを再びくぐるが、ちょうど電車が通過するのに出くわした。桜色に塗られたハデな電車が一両トコトコと走っていた。お客さんもちょっぴり乗っている。
 左手に●思案橋がある。この橋を渡る道は「岩国道」であり、錦帯橋の方へ通じている。旅人が錦帯橋に寄ろうかどうしようかと思案したところから「思案橋」と呼ばれたそうだ。また「西宇治橋」とも呼ばれ、このあたり茶の名所なのでこう呼ばれたという。 再び御庄川に沿って進む。川の向側には岩徳線が通り、「柱野駅」がちらっと見えた。岩徳線のガードをくぐると、とたんに道が細くなってきた。    8:50

■思案橋~柱野
 ●「下市橋」で御庄川を渡って右に曲り、●「柱野」という集落に入って行く。柱野宿というので間の宿であっただろうと思う。少し上流の古宿にあったが、江戸初期の頃たびたび火災にあったので下流の現在地へ移転し再建された。その為道が少し広いのだそうだ。
 主要な交通路からはずれているため、静かなたたずまいで宿場の雰囲気を感じさせる。途中左手、川の向こうにコンビニが見えたので、立寄り食料を仕入れた。 宿の外れで右折し、「上市橋」で再び御庄川を渡る。 9:20

■柱野~古宿
 その先が古宿になる。ここは右側の集落の中に入って行かなければいけないところ、川沿いの道を進んで行ってしまった為、「千体仏」を見損った。・・・・・失敗
 その代り、川の対岸にいかにもレトロな学校が見えた。これが柱野中学校で、一見マンサード形式で珍しいと思ったが、切妻なのでギャンブレル形式というらしい(後で調べた)
 古宿の集落を過ぎて、県道15号線を斜めに横切り、さらに●JR岩徳線のガードをくぐる。
 くぐってから●県道とJRの間ののんびりした道をしばらく進む。但しこのあたりの旧道は県道の建設で大部様子を変えているようだ。左手を岩徳線の黄色い車両が通過していった。今日はこの電車で岩国方向へ帰るわけ。  10:00

■古宿~中峠
 一軒屋という所で古宿川を渡り、川を右手に見るように変った。この先が二軒屋で「二軒屋団地」という地名もある。団地というので集合住宅でもあるのかと思ったが、そういう意味ではなく、昔茶屋とか人家が10軒ばかりあったという。
 やがて●県道の下をガードでくぐった。
 すぐに左折すると急な坂道になった。ちょっとしんどい。左手に欽明路隧道の入口が見える。 まもなく●中峠へ来た。ここに駕籠立場があったといわれる。   10:40

■中峠~欽明峠
 なお上って行くと欽明路隧道の上を越えた。隧道の換気塔が右手に見えた。広い舗装路が続いている。ここは道なりに進んでいく。欽明路峠を過ぎたようだが、何にも表示がないのでわからないが、下るようになるので、頂上は過ぎたのだろう。欽明路の案内に従い●分岐を右に取ると、欽明路橋を渡った。
 右に左にカーブして最後に左へ曲ると、右手に●「歴史の道 旧山陽道」と「万葉歌」の案内板が立っている。  「周防なる磐国山を超えむ日は手向けよくせよ荒しその道」 とあり、中峠、欽明峠が山陽道屈指の難所であると詠われている。現在では道路の改修で難所どころか気楽なもの。            11:08

■欽明峠~欽明路
 右手高台に●欽明寺がある。欽明路の名前の由来となった寺である。欽明の名前は欽明天皇のことで、天皇御幸の際、休息され欽明の名をいただいて寺号としたと伝えられる。その後度々焼失し現在は日蓮宗。境内に加藤清正を祀るお堂もあったという。
 ちょっと下った右手に●昔は茅葺だったであろう堂々とした民家がある。現在は残念ながらトタン屋根。   11:15 

★武田屋敷
 寺から100m下ると、右手に●周防源氏武田家屋敷跡と墓所がある。奥に入っていくと、門があって、平屋の建物があるが、無人で誰も住んでいない。
 天文9年(1540)、武田小三郎が毛利元就の援助でこの地に移り周防源氏の祖となった。その後江戸時代を経て、大正6年に16代故武田甲斐人氏が呉市に移るまで約4世紀半にわたりこの地に生きた。屋敷内には●武田氏歴代の墓、五輪塔などが残っている。

■欽明路~玖珂野口
 武田屋敷から600m行った右手に●コミニティセンターは玖珂小学校の分校であった校舎を使っている。木造で形が良く印象深い。 山陽路は欽明路駅の先で岩徳線の踏切を越えて、●線路の右側をしばらく併走している。このあたりは岩徳線建設の関係で山陽路は線路の南側に移動している区間があるという。 野口一里塚跡があるはずであるが見当らなかった。  11:45

■玖珂野口~玖珂
 「八幡下」ガードの所で左斜めに入っていくと、右手に●「義民田坂市良右衛門」の大きな石碑が建っている。安政年間玖珂は岩国領であり代官がいた。代官は重税を課して悪政を行い民を苦しめた。田坂市良右衛門は悪政を改めるように進言して幽閉されたが、屈せず、最後は無罪となって、積年の弊害も取り除かれたそうである。 その先を右折すると●玖珂の町に入る。旧玖珂宿である。玖珂本郷宿とも呼ばれる。    12:05

33 玖珂本郷宿
 山陽路の宿場である玖珂は本郷市、新市、阿山市と市場町から成り、玖珂三市と呼ばれた。本郷市がその中心であった。 本郷市には岩国藩の御茶屋(本陣)と代官所が置かれ、新市には高札場が置かれた。宿の長さは9町34間半。屋敷数は156軒程度。江戸時代3回大火に見舞われている。

★玖珂町
 玖珂の町には宿場町を偲ばせる街並みは残されていないようだが、落着いた町並を感じることができた。
 右手に祥雲寺がある。ここには「鞍掛合戦」によって討ち死にした●「鞍懸城主杉隆泰・父宗珊墓所」がある。
 玖珂町支所あたりに代官所、御茶屋跡があった。 右手に●高村酒店がある。白壁土蔵造りの伝統的な商家建築が特徴的。
 12:28

■玖珂~阿山
 ●水無川を渡ると、かつての阿山市(いち)に入る。このあたり明治初期の建築があるというが見当らず、空地に井戸の手押しポンプがポツンとあるだけで、無くなってしまった化も知れない。しかし古そうな●趣のある家が数軒建っている。左手に●藤川醤油味噌醸造場がある。入母屋造で、この建物が「報告書」でいう明治建築のものかもしれない。右手に菅原神社がある。  12:35

■阿山~東川
 神社を過ぎると、●「千束畷」と呼ばれる真っ直ぐな道となる。右手線路の向こうに「須左神社」の石段が見えるが、線路をこえられないので参拝はとても無理。
 東川を左折して300m程行った所の河原は、●享保一揆高森裁許場跡という所で、享保5年1月享保一揆に参加した人々に処分の申し渡しがあった場所。 享保2年(1717)甚大な旱虫害が発生した為、年貢納入を巡って一揆が起きた。享保5年の処分では代官の罷免と、代表者8人が断罪などとなっている。今は案内板も何もなく、ただ桜の木が植っているだけ。   13:15

■東川~高森 
 ●高森町の町並に入って来た。県道が町中を貫いていて、通行量が多い。ここが山陽道の旧宿場であった。町の東を市頭、西側を市尻と称し、その間を上市、中市、下市を分けられていた。現在も当時の様子を残すという。
 市頭を入るとすぐ右手に鳥居が立ち、参道が続いている。中に入っていくと古墳のような●泉山がある。ここは朝鮮出兵時名護屋城に向かった秀吉の陣営が布かれた所で、山の中腹に椙杜八幡宮がある。  13:40

■高森~周防高森駅
 右手角に受光寺がある。脇本陣とともに公儀役人や諸大名の宿所に当てられた。
 左手電柱脇に「吉田松陰先生宿泊之地」などという石碑が立っている。その先右手に●本陣跡がある。本陣は、相川家が勤めていた。 さて高森の町には外にも見る場所があるみたいだが、岩徳線が午後は2時間に1本になるので、時間の段取が悪い。 そこでここで本日は止めにすることにし●周防高森駅に行った。2時ちょっと過ぎで、ちょうど14時25分発の岩国行に乗ることができた。次の発車は16時33分で2時間先。 次回は夜行バスで岩国まで来ないと、うまく高森に来れないと思われる。  以上3日間寄道込みで 81.6km

 34 高森宿
 高森町の東を市頭、西側を市尻と称し、その間を上市、中市、下市を分けられていた。現在も当時の町並を良く残している。宿駅として、番所、本陣、脇本陣が備なえ、人足40人、馬15匹を置いた。本陣は相川家が勤めた。 

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